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第六十八話


敗残のブリストル兵がコラウル山脈を越えてブリストリル本国へと辿り着いたのは、ケルドランの敗北からおよそ二週間後のことであった。

方向感覚を狂わされる森の中で、組織から孤立した兵士たちはそのほとんどが山中内で餓死に至っている。

マッセナ川の激流に飲み込まれた者五千名、オルパシア王国兵との戦いで戦死した者一万名、敗戦の当初まだ半数の一万五千名以上がブリストル軍には健在だった。

だがその後の餓死者行方不明者一万………結局生きて戻れた兵は二割にも満たぬものとなった。

鍛え上げられた精鋭で、なおかつ指揮官のよろしきを得た部隊だけが絶望的な退却戦を戦い抜くことができる、否、そうでなくして退却戦を生き残ることなど出来はしないのだ。


「…………まったく………ひどい有様だな………」


部下の前では決して見せられぬ言いようのない虚無感がアウフレーベを襲っていた。

退却戦の開始時には五千を数えたはずの部隊であったが、今は半分近い兵士を失ってしまっていた。

副官などはアウフレーベの手腕あらばこそこれだけの兵士を救うことが出来たのだと言うが、その言葉はアウフレーベをいささかも慰めはしなかった。


おそらく、退却戦の非情さは経験したものにしか理解できまい。

ブリストルの誇る十二将軍の中でも本格的な退却戦を行ったものがはたして何人いることか。

退却戦の最中にどちらを選択しても犠牲なしにはいくぬ究極の選択を幾度もアウフレーベは断腸の思いで下してきたのである。


退却戦の本質は味方の効率的な切捨てだ。

どんな美辞麗句で装飾しようとも、一言で本質を表そうとすればそうなる。

殿軍は味方を逃がすためにたとえ勝ち目がなかろうとも死ぬまで戦い続けなくてはならないし、補給のまったく見込めない山岳を退却する場合に負傷兵の完全な介護など絵空事に過ぎる。

体力の尽きたものは打ち捨て、見捨てて黙々と行軍を維持することだけが結果的により多くの将兵を救うのであった。


だからといって用兵家としてかくも無為な死を兵に強制することに心が痛まぬはずがなかった。

できるものなら兵士たちを残らず故国へ連れて帰りたかった。

それが不可能な夢想なのだとわかっていても。


「…………力が………力が欲しい」


片足を失って軍列に見捨てられた男はアウフレーベが指揮する兵士の中でも古参に位置する男だった。

勇猛かつ沈着でいずれただの兵士ではなく小隊長くらいは任せられるものと思っていた。

基礎体力がまだ足りないためにうずくまって置き去りにされた兵士がいた。

彼は新兵としてアウフレーベの部隊に配属になったことをことのほか喜んでいたはずであった。

なぜならアウフレーベの指揮下は生還確率が高いことで知られていたからだ。

オルパシア軍の猛攻の前に身動きのできぬほど重傷を負った患者たちがいた。

降伏が認められるなら彼らが命を拾うこともあるかもしれない。

しかし治療するものがいなくなった急ごしらえの野戦病院で、彼らがいったい何日生きながらえることができるかは誰よりもアフウレーベがよく知っていた。


誰も助けられなかった。

大を救うために数え切れぬ小を見捨てて自分は生き延びたのだ。

だからこそ、あのマヒト・ナカオカミに一矢を報いなければアウフレーベの拠ってたつ誇りが許されようはずもなかった。


「この借りは………必ず返す!ブリストルの民を預かる将軍として、マヒト・ナカオカミ………貴様を生かしておくわけにはいかぬ………!」


アウフレーベは個人として真人に含むものは何もない。

いや、ケルドランで命を助けられたときに抱いたほのかな慕情は今も変わらず胸のなかにある。

しかし一人の女性として振舞うにはアウフレーベはあまりにも責任感が強すぎた。

自分が身も心もブリストル軍に捧げつくすことに、アウフレーベはいささかの後悔も感じなかったのである。




同じ頃、アウフレーベと同様に抑えきれぬ激情に身を悶えさせていたものがいる。

再び真人の前に敗北を喫したフィリオであった。

傭兵らしいしぶとさでケルドランを無事脱出したものの、時を追うごとにこみあげてくる呪いにも似た無念は隠すべくもなくフィリオの胸を締め付けていた。

ブリストルでも指折りの六人が総がかりで真人一人に勝てなかったという事実は、フィリオの誇りをいたく傷つけていたのだ。

もしも自分と真人の立場を逆にすれば寸暇を置かずに殺されていたことは明らかだった。


――――いったいオレと奴のどこが違う?経験か?才能か?同じ人間じゃねえか!


にもかかわらずあまりに圧倒的なその戦力差。

真人の見せた強さの前にフィリオ自身の武が挑める日ははるかに遠い。

それがどうしても許せなかった。

戦場に身を置いて十五年、ひたすらに強さだけを追い求めてきた。

あんな小僧に才能だけで超えられるほどフィリオのくぐり抜けてきた死線は安くはない。

友も女も捨てた。

ただ強くなるためだけに。


「負けるわけにはいかねえ………たとえどんな理由があったとしても………たとえどんな手をつかったとしても!」


フィリオが強さを欲する執念はすでに妄念の域に達しようとしていた。

真人とフィリオの間にある絶望的な戦力さがフィリオをそうさせずには置かなかったのだ。

もはやそこに純粋な戦士としてのフィリオはいない。

狂える獣が低くうめく声が、聞くもののいない夜空へと吸い込まれていった。







リューボックを進発したオルパシア・メイファン連合軍は、メイファンの国土を北西へ順調な進軍を続けていた。

カニンガム子爵の軍を加えた連合軍は補充の兵を加えて総数二万を維持している。

わずか千名程度のレジスタンスにすぎなかったバーデルベスが正面から相手のできる兵力ではありえなかった。

バーデルベスの率いる新政権軍はろくな訓練を受けていない民兵まで含めてもようやく二万を超える程度であり、とうてい野戦に打って出る力はなかったのである。

彼が王都に拠って籠城を選択するのは当然の理の帰結であった。


だが兵力的には圧倒的に劣勢のバーデルベスにも王都の民の支持という一点においては連合軍を遥かに上回っていた。

やはり国民の旧支配者への不信はもはや抜き差しならぬものにまでなっていたのである。

かろうじてオルパシア国境に近い辺境部はまだシェラたちを歓迎していたが、王都が近づくにつれて民衆の連合軍を見る目が険しくなってきているのは誰の目にも明らかであった。

現実には違うにせよ、シェラとプリムが客観的にオルパシアの傀儡に見えてしまうのはある程度やむを得ないところなのだ。

オルパシアの貴族である真人が夫となることが決まっている現状では特にそうだった。

これまでブリストルの意のままにされてきたところに、またぞろオルパシアの軍兵に蹂躙されるなどメイファンの国民にとっては悪夢でしかあるまい。


「いやな雲行きだえねえ…………」


こうした民衆の動向にはやはりディアナがもっとも敏感であった。

民衆を味方につけた軍というものは情報や補給で相手より遥かに優位に立つことを、戦巧者なディアナは経験から良く知っていたのである。


ディアナの見るところ、メイファン民衆の支持はおよそ七割方がバーデルベスに流れている。

今黙って連合軍を見守っている民も、連合軍の武力が恐ろしいからこそ沈黙しているのであって心の中ではメイファンにようやく訪れた平和を乱す邪魔者として蛇蝎のごとく

内心では忌み嫌っていることだろう。

そうした民と争えばたとえ勝ったとしても巨大な損害と労力を必要とすることは歴史が証明していた。

この先、王都に近づけば近づくほどさらに明瞭な敵意にさらされることは確実だ。

そればかりではない。

おそらくここにいる民の幾人かはバーデルベスに通じて連合軍の陣容を探っているはずだった。

機会さえあるならばシェラとプリムの暗殺すら狙っているかもしれない。


「………メイファンの王族たちの所業を思えば民の反応は当然のものです。私たちはかつての王族と同列に扱われるためにここまで戦ってきたわけではありません」


胸を疼かせる美声でありながらかつ支配者としての威厳に満ちた声が聞こえた。

つい先ごろまでほんの餓鬼にすぎなかった恋敵の成長にディアナは口の端をゆがめて苦笑した。


…………ホント、化けたもんだよ…………。


今や女王たる風格に満ち、メイファン残党軍の忠誠を一身に浴びるシェラフィータの姿がそこにあった。

生まれて初めて戦場に立った新兵が、一つの戦いを機会にまるで古参の下士官のように老成した成長を遂げることが稀にある。

死線をくぐり抜けるギリギリの緊張感が、秘められた才能を強制的に開花させるこの現象をディアナは数多く目にしていた。

それにしても今のシェラほどの成長は記憶にない。

並び立とうとする真人の非常さがまるでシェラにまで乗り移ったかのようであった。


「この戦いはメイファンの新たな指導者を決めるためのもの、そこに旧支配者のでる幕はありません。もちろん…………」


そこで言葉を区切ってシェラは笑った。

凄絶な迫力を感じさせる女の笑いだった。


「私の夫に負けをつけさせるわけには参りませんけど」


シェラにとってメイファン最後の王族として不本意ながら名乗りをあげたのは真人の力になりたかったからにほかならない。

巫女としての崇敬も王族としての忠誠もシェラにとってはそれほど価値のあるものではない。

真人の傍にい続けること、愛する真人の力になることこそがシェラにとって至高の幸福なのであった。

だからこそ、バーデルベスの理想と高潔さに共感を覚えながらも容赦するつもりは微塵もなかった。

できればメイファンのためにともに手を携えたい。

しかしそれが叶わぬならば完膚なきまでに粉砕して勝利の凱歌をあげるまでのことだ。


シェラのそうした思い切りをディアナは正しく受け取った。


――――それでこそ、だ。


いずれ追いつき追い越すとはいえ、自分に先んじて真人の妻の座を射止めた女だ。

せめて真人への想いが自分に負けぬものであることを証明してもらわねばとうてい納得できるものではない。

もちろん真人へを一番に想っているのは自分に決まっているのだが。


「本命のブリストルを前に無様を晒すんじゃないよ?」


シェラはディアナの挑発を傲然と受け止めて言った。


「もちろんですわ。だからディアナさんの出番はございませんのよ、お気の毒ですけれど」


言外にこめられた意志を正しく受け取ってディアナのこめかみに青筋が浮かぶ。

いい度胸じゃないか、この闘神ディアナに喧嘩を売ろうってんだね?


「真打ちは最後に登場して観客をさらっていくもんさ。前座がいい気になるのは見苦しいよ?」


「私たちの中ではディアナさんが一番最初に登場したように思いますけど」


最も触れられたくない年齢を引き合いに出されてディアナは我を忘れて赫怒した。






「本当に嫌な性格になったな!お前っ!」



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