第六十五話
リュシマコスが果敢に挑みかかったときには相好を崩したマンシュタインだが、それもつかの間武勇自慢のリュシマコスがいともあっさりと敗れると隷下の部隊の士気は
加速度的に阻喪しつつあった。
「えええいっ!リュシマコスめ、役に立たぬ奴!」
しかしいつもの罵声にも勢いのなさは隠せない。
ルーシア率いる精鋭はついにマンシュタイン家の誇る私軍をその射程に捉えようとしていたからだ。
「雑魚に構うな!公爵の首を上げることだけを考えよ!」
ルーシアの戦力はわずかに五百。
通常ならマンシュタインを守る三千余の兵にかなうはずはない。
戦場において数の差はたやすく兵の質の差を覆すからである。
だが、ルーシアは充分な勝算とともに兵をマンシュタイン軍へ正面から叩きつけることを選択した。
ルーシアの考えが正しければ、マンシュタイン軍はわずか五百の騎兵の衝撃力にすら耐えることはできないはずだからであった。
首をあげよ、というルーシアの怒号にマンシュタインは目に見えて取り乱していた。
いったいあの娘は何を考えているのか。何を血迷ったものかまさか四公筆頭たるこのマンシュタイン家当主の首をあげよとは!
もとより負けるつもりなど微塵もなかったが、マンシュタインは仮に蜂起が失敗に終わったとしてもアルハンブラ王に出来ることはせいぜい自分を隠居に追い込むことぐらいであると
信じて疑わずにいた。
オルパシア王国の身分制度の根幹である四公八侯を完全に取り潰すことなどありえない。
それはオルパシア王国の身分制度の否定であり、現存する統治機構の障害にしかならぬものだからである。
だからこそオルパシアの長い歴史の中で四公八侯は表立った処分をされることなくその血脈を受け継がせてきたのであった。
まして自分はオルパシアの伝統と文化の守護者であり、根源の貴族中最も高貴なマンシュタイン家の当主なのだ。
これを殺してよい法があるはずがなかった。
その程度、貴族ならば子供でもわかるはずの理屈を、あの小娘は理解していない。
しかし理解していないことこそが大問題であった。そのような無法によってマンシュタインの血が流されることなどあってはならないのだ。
「殺せ!あの娘を殺してしまえ!」
攻城戦に疲弊した門閥貴族軍の大半は、挟撃された瞬間に指揮系統を乱されて巨大だが統制のとれぬ烏合の衆と化していたが、さすがにマンシュタインの直属軍だけは色合いが異なる。
これまで戦闘に参加していなかったこともあるが、マンシュタインが大陸に誇る精鋭ぞろいであったことがその大きな理由だった。
獅子の紋章に彩られた特注の鎧で着飾った雄姿は王国ばかりか大陸中にその名を知られていた。
マンシュタイン家が金に糸目をつけずに王国中から集められたエリートたちだけの精鋭中の精鋭、その鍛え上げられた練度はブリストル帝国ですら及ぶものがないのだと。
剣ひとつとっても王国兵士が一般的に使用する量産品ではなく、マンシュタイン家に抱えられた刀工たちの逸品であり、その戦闘力が開放されればルーシアごとき鎧袖一触に討ち払われるだろう。
マンシュタインはそう信じて疑ってはいなかった。
「気にするな、このまま乗り崩すぞ」
ルーシアは槍衾を敷くマンシュタインの堅陣を前にしてもいささかの躊躇もすることなく鞭を振るった。
軍務の柱石たるハースバルド家とて精鋭の英名はマンシュタイン家に決して劣るものではない。
しかし両者の間にはある決定的な差が存在した。
それはすなわち、実戦経験の有無であり、実戦での実力であったのである。
マンシュタイン家の兵士は身体つきも逞しく見た目もよいものが揃っているが、実戦の場ではそんなものは何の役にも立たない。
また自家の兵力を温存するため、マンシュタイン家の兵士はそのほとんどが実戦をいまだ経験せずにいたのだ。
これで平時の力を十全に発揮できるほうがおかしかった。
人間には決して真似することのできない速力で突進してくる馬の集団は、ただそれだけで恐ろしい存在である。
ましてそれぞれの馬には武装した騎士がおり、下から上を仰ぐようにして戦わなくてはならない歩兵の心理的負担は実戦の場では計り知れぬほど強大なものだ。
そんなときには日々の訓練や、戦友との連帯感や、実戦慣れした上官の檄が目に見えぬ力となるのだが、そのいずれもがマンシュタイン軍には存在しない。
まずもってマンシュタイン軍の兵士に求められるのは騎馬試合や決闘でのわかりやすい一対一の強さなのだ。
なぜならそれが、御前試合でマンシュタインの知遇を得て出世する早道だからである。
味方同士が出世にしのぎを削りあう状況では、互いの命を預けあう絆など生まれようはずもない。
せめて実戦を経験して生死の境をともに乗り切るようなことがあれば改善の余地があったのかもしれないが、その機会さえも失ったマンシュタイン軍はルーシアにとって張子の虎も
同然であった。
案の定、騎馬の迫力に恐れをなしたマンシュタイン軍の前列が目に見えて戦列を乱している。
彼らは待遇のよい、安全な職場に慣れすぎていた。
これが普通の王国兵士ならばこんな無様は晒さなかったであろう。
どの国においてもそうだが、兵士というものは入隊と同時に命令への服従を骨の髄まで覚えこまされるものだ。
上官の命令には絶対服従という鉄の規律なくして軍隊は成り立たない。
しかし人は困ったことに闇雲な服従をよしとする生物ではない。ゆえにそこには国家への忠誠といった精神的な抜け道が用意されていた。
ところがそうした大義名分を持たず、金回りがよいだけで忠誠に見合うだけの器量を当主が発揮できないマンシュタイン家にとって、軍隊は軍隊の体裁を成していないのが実情なのである。
ルーシアや軍務卿がマンシュタインおそるるに足らず、としたのはその現実を認識していたからだ。
「命が惜しくば道を開けよ!手向かうならば皆殺しにするぞ!」
甘やかされてきた兵士は命を惜しむ。
だからこそ兵士にはいつ命を失うかもしれぬという緊張感を与え続けておかなくてはならないのである。
しかも決して本気で言ったわけではないが、ルーシアの脅しをマンシュタイン軍兵士は心の底から信じてしまった。
彼らは立場をいいことに好き勝手をしてきたことに十分な自覚があったからだった。
「こらっ!うろたえるな貴様ら!敵は小勢だぞ!押し包んで討ち取ってしまえ!」
前線指揮を任されていたのはマンシュタイン家の係累にあたるザイドリッツ男爵である。
上級指揮官らしく勇気を発揮して兵の動揺を収めようとした彼だが、彼自身が実のところ一番に動揺していた。
本来衝撃力と機動力に勝る騎兵を歩兵が迎撃するためには、陣形を乱さず槍先を揃えて後の先を取る以外にない。
それを逆に歩兵側から戦列を乱して包囲に出るなど愚の骨頂というべきものだった。
戦理に従えば、ここは広さよりも縦深を厚くして防御力を増すべきところなのだ。
もちろんそんな好機を見逃すルーシアではなかった。
「いまだ!一気に戦列を突破せよ!」
結束力の弱い軍隊のしかも一点に集中して攻撃されては、防御の破綻は薄皮を剥くよりも容易いことだった。
マンシュタイン軍前衛部隊はルーシア率いるハースバルド騎兵部隊の突破を許したのである。
ほとんど目と鼻の先まで死神の魔の手が迫っていることを知るとマンシュタインはほとんど反射的に身を翻して恥も外聞もなく逃亡を選択した。
マンシュタインがこの世に生を受けてこのかた死の恐怖など味わったことはない。
いつだって当然のように誰かに守られて生きてきた。
その彼が生まれては初めて感じる凶暴な殺意を前にして、なお戦場に留まり続けるなどできようはずがなかったのだ。
「ふ、防げ!死んでも奴らを通すな!あんな気違いどもにオルパシアの歴史と栄光を失わせてなるものか!」
これは何かの間違いだ。
いくらアルハンブラ王が愚昧といえども、マンシュタイン家当主の命を奪うような命令を出すはずがない。
あの小癪なハースバルドの小娘が、私怨に我を忘れて己が為そうとしている行為の罪深さに気づかずにいるのに違いなかった。
とりあえず安全な領内まで逃げ込み、アルハンブラ王に謝罪の使者を送ればこの件は落着するはずだ。
しばらく逼塞することはやむを得ないだろうが、ハースバルドとシェレンベルグに権力が集中すればそれを妬む貴族は必ず出る。
それを糾合するのは名門の筆頭家たるマンシュタイン家をおいてほかにはないだろう。
旧来の権威をありがたがっている貴族は国王の考える以上に多いのだ。
たとえどれほど時がかかろうとも、必ずや復讐を遂げ、オルパシアに正統な秩序を回復してみせる。
そのためにも今は小娘の魔の手から逃げ切らなくてはならなかった。
「公爵様が逃げたぞ!」
「この戦は負けだ!」
「降伏する!殺さないでくれ!」
悪いことは重なるものだ。
少なくとも個人的武勇は水準以上であるマンシュタイン軍が、最低限の秩序を発揮して一矢を報いるとすれば、それはマンシュタインの直率以外にはありえなかった。
彼らにとってマンシュタインは生殺与奪の権限を握った絶対者であったし、人もうらやむ給料を支払ってくれるかけがえのないパトロンでもあったからだ。
だからこそ今の生活を守るためにマンシュタインを守ろうと考える人間は少なからずいた。
しかしそれもマンシュタインに勝ち目があると思えばこそである。
命がけで守った主君が結局敗北して功に報いることが出来なくなっては尽くしても甲斐がないのだ。
マンシュタインが逃亡を選択した瞬間こそが、門閥貴族軍の敗北の決定的瞬間だった。
わずか一時の時間すら稼ぐことが出来ずにマンシュタイン軍はその戦力を喪失した。
勢いにのるルーシアをさえぎる兵はマンシュタインに追随したごくわずかな側近以外にはない。
「逃げるな公爵!貴様に口ほどの気概があるのなら正々堂々と戦ったらどうだ!この腰抜けめ!」
ルーシアの挑発にもマンシュタインは一顧だにせず逃げの一手を固守した。
もちろん胸の中に煮えたぎるものはある。
しかし自らの武勇にいささかの自信もないマンシュタインが剣をとることなどありえなかった。
そんなことは部下たちが勝手にしてくれるものであったからだ。
何より、本気で自分の首を狙っているルーシアが、まるで言葉の通じない異形の怪物のように感じられてとても立ち向かうどころではなかった。
「わしはマンシュタイン家の当主であるのだぞ!」
正しくマンシュタインは悲鳴をあげた。
ルーシアたちの操る騎馬の群れが地響きも高らかに接近しつつあることを肌で感じ取ったからである。
素人同然のマンシュタインがいかに名馬とはいえ、鍛え上げられた騎兵より早く馬を走らせられるはずがなかったのだ。
そもそも名馬が本来の名馬らしい速度を発揮しては、マンシュタインはたちまち振り落とされてしまうだろう。
凡庸な騎手は、その腕以上に馬を走らせることは出来ない。
マンシュタインが信じてきた世界の常識は、現実によってその存在全てを否定されつつあった。
金にあかせて作り上げた最強の軍隊。
平民とは比べるべくもなく有能な貴族たち。
最高の馬、最高の剣、最高の鎧、そして部下たちの忠誠。
なにより根源の貴族としての権威。
それは全てマンシュタインの脳内にだけ存在した砂上の楼閣だったのだ。
もっともそれをマンシュタインが認めることはなかったのだが。
「救え!誰でもよいからわしを救え!わしは四公筆頭、根源の貴族たるマンシュタイン公爵なるぞ!オルパシアでもっとも高貴な血を引くものじゃ!オルパシアの栄光を守護することが出来るはわしのみぞ!」
この世に神がいるとしたらこの理不尽を訴えたかった。
マンシュタイン家の血は、このような小娘の気まぐれに左右されてよいものではない。
根源の貴族の血は神聖にして犯すべからざるものではないのか?
早くこんな愚かな過ちを正してくれ、そうでないならば早くこの悪夢を終わらせてくれ。
「ギャッ!」
獣のような悲鳴をあげて側近の一人が馬から転がり落ちた。
喉を一本の矢が深々と貫いていた。
ついにマンシュタインはハースバルド家の弓騎兵の射程に捉えられたのだ。
マンシュタイン家の領地に逃げ込むまで援軍が訪れる可能性は無きに等しかった。
もっともマンシュタイン家の領地も別働隊によって武装解除されているはずだからこのオルパシアの地にマンシュタイン家の支援者は潰えていたのだが、とうのマンシュタインにそれを知るよしもない。
いずれにしろ逃げ切る可能性が限りなく低くなったことは確かであった。
「ハースバルドの小娘よ、わしを手にかけることがどういうことかわかっておるか?」
進退窮まったマンシュタインはこの期に及んでルーシアを論難した。
「今はよいかも知れぬ。しかしオルパシアという国が続いていく以上、初めて根源の貴族の血を流したという汚名は未来永劫ハースバルド家についてまわるのだぞ。
そればかりではない。表面的には頭を下げたかに見える貴族たちも、心の底では貴様らを嘲笑いいつか天誅を下してくれんと誓いを新たにするであろう。死ぬまで
その恐怖に耐えて生きていくことが貴様にできるか?いや、まずもって天寿を全うすることすら適うまいよ」
くだらない。
門閥貴族の嫉妬も憎悪も取るに足らない。
ルーシアはマンシュタインほどに貴族の力というものを評価していなかった。
それに……………。
「悪いけど女は惚れた男のためなら神にだって喧嘩を売るのよ?」
マンシュタインが殺されなければならないのは、何も国王に謀反したからばかりではないのだ。
真人を窮地に陥れ、幾度も危機にさらしたことがルーシアにとって一番の問題だった。
あまりに想像の埒外のルーシアの発言に、マンシュタインはしばし言葉を失って呆然としていたが、理解が及ぶと同時に狂したように憤激した。
「貴様はそれでも貴族か!この売女め!恥を知れ!」
とるに足らぬ平民。
男のために貴族の誇りも名誉も捨てる女。
何たることだ。オルパシア貴族がここまで堕落していたとは!
「目を覚ませ!オルパシアの正義は我にこそある。本当の敵はそこにおるぞ」
「往生が悪うございますぞ、公爵殿」
いつの間にか残党を掃討し終えたウーデットがそこにいた。
これを見たマンシュタインはルーシアよりは話が通じると思ったのだろうか、明らかにホッとした様子で声を荒げる。
「貴殿は娘にどういう教育をしてきたのかね。いまだかつて一度も血を流されたことのない根源の貴族たるわしを殺そうとするなど正気とも思えぬ」
気の毒なものでも見るような目でウーデットは首を振った。
「それを言うなら今まで王家に叛旗を翻した根源の貴族もまた一人もいなかった。貴殿がその一人目だ」
大貴族であるウーデットもまた自分を殺そうと考えていることにマンシュタインはようやく気づいた。
これだから成り上がりの伯爵風情は………!
「よいか、根源の貴族を殺すということは…………」
マンシュタインの舌が停止した。
正確には抜く手も見せぬウーデットの斬撃に首が落ちるまでもわずかな時間、それと気づかずにマンシュタインはしゃべり続けていたのだった。
「………嫁に出る娘に余計な宿業を背負わせるわけにはいかないのでね」
それは短い内乱の終結であると同時に、ウーデットが初めてルーシアの伴侶として真人を認めた記念すべき瞬間でもあった。