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第五十八話


急峻なマッセナ川の上流に群雲のように押し寄せる影がある。


「どうやら来たようですな」


「存外に早いわね…………」


アリシアは土煙をあげて迫り来るブリストルの精鋭に目を向けてわずかに口の端を歪ませた。

貯められた水量はいまだ決壊させるに及ばない。

どうやらケルドランの城塞を突破するためには今少し堰き止めた水量が増すまでの時間を稼がなくてはならないようであった。


「……では手はずどうりに頼む」


ブリストルの圧倒的な戦力を前にしても逃げるという選択肢はアリシアにはない。

オルパシアの未来を担う軍司令官のため、愛する未来の夫のためアリシアはたとえ命果てようとも任務を遂行する覚悟なのであった。






ブリストル分遣隊の隊長であるロンドベル・アイゼン・スタンリー大尉はあまりに少なすぎるオルパシア軍の姿に疑念を募らせていた。

見たところでわずかに二十名足らず。一個小隊にすら満たない数である。

マッセナ川の水量をせき止めるという大規模土木工事を行ったとするならば、少なくとも数千に及ぶ非戦闘員がいなければならないはずであった。


「逃げた………?いや、それにしても兵が少なすぎる……」


オルパシア軍に十分な軍兵がいるのであれば、いったん後方に退かせることも考えうるのだがあの兵力を見る限りそれはないだろう。

ならば工作をあきらめたのか………?

それもありえない。オルパシア軍がどうにか戦線を維持していられるのはマッセナ川を氾濫させようとする奇計があればこそなのだ。

このまま計略が実行されずに終わればオルパシア軍の敗北は免れない。

わからない。ロンドベルはオルパシア軍の行動に論理的整合性を見出せずにいた。

しかし思考のほとんどは謎の究明に割かれていても、足だけは決して止まることなくオルパシア軍へと動いている。

たとえその行く先が罠であれ、噛みやぶるだけの力と矜持が彼らにはあるのだった。


「火行を以って炎の嵐と為す、焼けよ」


怒涛の勢いでアリシアたちが陣取る断崖へと迫るブリストル軍の鼻先に、巨大な紅蓮の炎が炸裂した。


「馬鹿な……オルパシアにこんな魔術師の精鋭がいるはずが………!!」


その盛大な火力の前に先頭の兵士たちがたちまち火だるまとなって絶息する。

少なくともロンドベルの知るかぎり、一般の魔術師が為しうる破壊の容量は一人をようやく殺すに留まる非効率極まりないものだ。

中には一個小隊をまるごと焼き払えるような非常識な魔術師も存在するが、通常そんな魔術師は一国に五人とはいない。

にもかかわらず今炸裂した炎の威力は、そうした超一流の魔術師に次ぐものであった。

いったいなぜそんな貴重な魔術師がこんな敵中深くに孤立しているものか。

あまりのことに思考が麻痺しつつあることをロンドベルは自覚した。

そしてそうしたときにいかにすべきであるかは長年の彼の経験が知っていた。

すなわち直感に従ってただ攻撃に専念すべきなのであった。





「………全く戸惑う気配もない。やはりブリストルは強兵の国だな」


嘆息とともにアリシアはひとりごちた。

魔術の集中砲火を浴びれば、あわよくば壊乱してくれるのではと思っていたがそれはどうやら虫が良すぎたらしい。


「そんな落ち着いてる場合ですかい、……いいから下がっといてください副官殿」


屈強な槍兵とともに進み出たのはアリシアが小隊長時代から付き合いの長いバラールであった。

今のところは敵に先手をとられている。

真人が打った策が効力を発揮するまでには今しばらくの持久が必要なのだ。


「いいか?お前ら!嫁入り前の副官殿の玉の肌に傷ひとつつけさすんじゃねえぞ!」


「了解!!」


彼らはそのほとんどが第377歩兵小隊からの戦友だった。

軍という非情で生臭い組織にあって、アリシアのような清廉な穢れを知らぬ乙女は気高くも甘い偶像である。

彼らにとって、そうした愛らしい偶像を守るために身体を張るということはむしろ名誉とするべき十分な事由なのであった。





「矢を射掛けろ!奴らに頭を上げさせるな!」


断崖へと駆け上るブリストル軍の前列から弓兵が弾幕を張る。

戦闘正面を極限され、断崖へ至る一本道を攻め上らざるを得ないブリストル軍としては当然の選択であった。

兵力的にはわずかとはいえ、高所に陣取った魔術師を含む精鋭を相手するのはあまりに危険が大きすぎるのだ。

槍兵の防御力と魔術師の攻撃力を極限させるためには弓兵での漸減は必須ですらある。

ところがロンドベルの目算は初手から躓きを余儀なくされた。


「矢を禁ずれば則ち当ること能わず」


降り注ぐ矢の雨がまるで不可視の壁に弾かれたかのように明後日の方向へと向きを変えるのをロンドベルは呆然と見つめていた。

少なくとも彼の知る魔術はこんな非常識な事象を引き起こせるほど弾力的なものではなかったはずなのだ。

それは同時に、ここに存在するオルパシア兵を倒さずにはおれないということでもあった。

彼らが強力であればあるほど彼らに課せられた使命は重く、彼らの有用性はオルパシアにとって貴重なものであるはずであった。

損害を省みず肉薄して骨を絶つことこそが栄えあるブリストル軍のとるべき道であることを、ロンドベルは確信していた。


「ちっ……槍先を乱すな!副官殿は早く退避を!」


バラールは今こそブリストルの精兵ぶりに恐怖していた。

未知の魔術にこれほどひどい損害を与えられてなお士気を高められる軍隊は大陸にブリストル帝国をおいてほかにないだろう。

自分たちが想定していた防御策が初期の機能を果たさなかったことをバラールは認めないわけにはいかなかった。

少なくともアリシアには生き延びて使命を果たしてもらわなくてはならない。

そのための命の盾となることに否やはなかった。


「そんな簡単にあきらめるなバラール。指令官がケルドランから生還したときに比べればこの程度の危機は危機のうちにも入らんぞ!」


あまりにも意外なアリシアの言葉にバラールは改めて瞠目した。

今まで庇護すべき対象だと信じていた上司が、アリシアが全く勝利をあきらめていないという事実に驚愕せずにはいられなかったのだ。


「土行に依りて岩の壁と成す、塞げ」


アリシアたちの前に高さ二メートルになんなんとする岩の壁が出現する。

これで真人から与えられた呪符は完全に底をついた。

後は自らの武力によって持久を果たすのみであった。


「………負けはしない……たとえこの身が朽ちようとも、決して私はあきらめない……!」


バラールは苦笑いとともに剣を握る手に力をこめた。

この甘さこそが我らが愛すべき指揮官の本質であることを彼は今更ながらに思い知らされていた。

それは前線指揮官としては失格でさえあるかもしれない。

戦場において任務の達成は絶対である。そのためには親兄弟ですら平然と見捨てる非情さが要求される。

部下を大事にすることと、部下を死地に送り込む非情さを併せ持たなければ前線指揮官は勤まらない。

それを二つながら守り抜こうとするのは夢想家のすることだ。

アリシアの本質はそうした非情さとは対極にある。能吏として最上級に入るという側面がなければ軍人としては適性がないと判断せざるを得ない。

しかしだからこそバラールにとって愛しくも得がたい上司に違いなかった。


「お前らみんな死ぬ覚悟はできてるな?」

「まあ、これでも男ですし」

「見せ場くらいは心得ておりますよ」


部下たちの心もバラールと同様であるらしい。

男ならば一度は女を守るために命を賭けてしかるべきだ。少なくともそう信じることが出来ることこそが男たるの証明であるべきだった。

バラールたちが雄叫びとともに岩の壁を乗り越えたブリストル兵に突撃を開始したとき、それはやってきた。






「……て、敵です!これは………メイファンのカニンガム子爵の………!」


「そんな馬鹿な……!」


今日はいったいどれだけの想定外の事態が勃発するというのだろう。

ロンドベルは戦慄とともに獰猛な牙を剥きだしにする一千名に近い兵団を見つめた。

それは長くメイファン国内でゲリラ戦を戦い、オルパシア国内のメイファン残党軍とは対立関係にあるはずのカニンガム子爵率いる部隊であった。

なぜその彼らが今この場に現れるというのか。まさか全ては―――




「間諜がいると知っていて本当のことをいう馬鹿がいるか!」


野太い声でせせら笑いながらカニンガムは無防備に晒されたブリストル軍の背後へと駆け出した。

もとより警戒の薄いブリストル領側から別働隊を率いるアリシアの援護に向かうというのは真人との間であらかじめ決められた作戦行動である。

ブリストルの対応の早さからいささか到着が遅れたものの、奇襲効果としてはこのうえないタイミングであった。

残り二百名余まで討ち減らされていたブリストル軍にこれを支えることは不可能だった。

食いつかれた後方から戦列は崩され、本来がゲリラ戦用でしかないはずのメイファンの残党に手も足もでない。

組織力を生かせない地形上の不利も問題である。

断崖上のオルパシア軍を捕捉するために隊列が伸びきり、各個撃破するには理想的な隊形になってしまっていたのだ。


「シェラフィータ様ならば我が忠誠を捧げるに何の不足もないわ!ものども今こそメイファンに勝利を奪い返すときは来たれり!」


自らも最前線で戦斧を振り上げながらカニンガムは絶叫した。

確たる戦場においてブリストルに勝利するということが、今後の戦いにおいてどれだけ重要な要素になるかということを、彼もまた十分に承知していたのだった。





ロンドベルは死を覚悟した。

もはや敗北は免れない。あるいは彼の武力をもってすれば血路を開いて生き延びるという選択肢もあったかもしれぬ。

しかし目の前のオルパシア軍の行動を見過ごすことはできなかった。

友軍三万の死命は今自らの掌中にあるのだ。


「死に場所を飾りたい奴はオレに続け!」


狙うは指揮官らしき女将校ただひとり。

槍襖を剣ではじきながら致命傷だけを避けて突貫する。

ロンドベルに付き従った兵の半分が槍の穂先にかけられて絶息した。

後方からカニンガムの兵によるクロスボウの狙撃でさらにもう半分の兵が倒れる。

しかしもはやロンドベルが味方の末路にも自らの負傷にも一切の注意を向けることはなかった。

ただ敵の指揮官を見据えて突き進むことだけが彼の衝動の全てであった。

あと少し――敵意と怯えの入り混じった瞳で見つめる女将校をこの剣の間合いに捕らえるまであと一息………!



大小無数の傷で全身の感覚を失いつつもロンドベルは恐るべき速度で剣を振り下ろした。

それはブリストルの軍人としての誇りが生み出した一種奇跡のような斬撃であった。

深々と腹部まで食い込んだ剣の感触を得てロンドベルは心からの達成感とともに、永遠にその意識を手放したのだった。




「………お嬢と心中するにゃお前さんじゃちと器量が足らんよ」




諧謔の笑みを浮かべながらバラール・ヴォルフラム・ヴィンセント少尉は愛しすべき上司とロンドベルの間に自らの身体をすべりこませていた。

肩口から鎖骨を叩き割って腹部にまで達した傷からは、まるで地面に落下した柔らかな果実のような惨状が広がっていた。


「……死に方としては悪くないな。娘のような上官を守って死ぬというのも……そう悪い死に方ではない」


耳元で慣れ親しんだ上官が何か叫んでいるのが聞こえる。


まあそうわめきなさんな。

本当はあの司令官を一発殴ってやる役目を引き受けたくもあったが、あんたが泣くから我慢しておいてやる。

だから必ず




………………………幸せになってくれ。





即死に近い損傷を受けながら、バラールの最後の言葉は、確かに空気を震わせてアリシアの耳へと届いた。




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