第三十七話
真人の朝は早い。
まだ夜明け前の時間には起きだして中御神流の演舞をすることが日課になっているからだ。
しかし今朝に限っては真人はなかなかベッドを抜け出せずにいた。
右腕にシェラが腰にプリムが抱きついてひどく身動きのとりづらい状況に陥っていたからだった。
…………もう少し警戒心を持ってくれないものかなあ………
右腕に感じるシェラの柔らかな胸の感触や寝相が悪かったのか寝巻きがまくれあがったプリムの肢体などはなんとも真人の居心地を悪くするものであった。
正直に言って心臓によくない。
真人にとって女性というものは硝子細工のように繊細で慎重な扱いを要するものであったはずなのだが、この世界にきてからというもの真人の認識を超える事象が多すぎた。
しかしそんな戸惑いとは逆に暖かな感情を感じてもいた。
このようなスキンシップを伴った親愛表現というものを真人は過去に経験してこなかった。
妹の真砂にすら一歩引いて接していたのだ。
それに対してこの世界の(といっても女性ばかりだが)人々の感情の豊かさはどうだろう。
まだまだ戸惑いばかりが多いがそれが心地よく思えることがうれしかった。
いつか戸惑いではなく正直に自分が感情を表せる日がくるかもしれない。
きっとそれは素晴らしいことに違いなかった。
真人はなんとかシェラたちを起こさずにベッドからの脱出に成功するとまず練丹を始めた。
中御神の陰陽道は土御門系の陰陽術の他に道術の流れを多く汲んでいる。
練丹の仕方は道術でいう小周天に酷似していた。
口から入れた気を会陰から督脈・泥丸・任脈を通して丹田に収める。
体内で気を循環させ練り上げるその手法は基本的ではあるが故に真人にとっても欠かすことのできない作法になっていた。
小周天で練り上げた気を大周天でさらに純化させたところで真人の毎朝の日課は終わるのだった。
「う〜頭が痛い…………」
朝食に来たディアナは二日酔いの頭痛に頭を抱えていた。
酒豪のディアナの無惨な様子からすると、ほとんど明け方まで酒を喰らっていたらしい。
いつもは活発そうな目にも肌にも勢いが感じられない。
「大丈夫ですか?今ミルクを温めますから…………」
………ちっ同情するなら真人と寝せやがれ!
…………ふっ………無様ね………
何気に女の戦いは続いているようである。
「真人、ちょっとあとで私の相手をしておくれ。ひと汗かいて酒を抜かないとね。いつ出撃が下るかわからないし」
「そうだな………ルーシアも何も言ってこないけど、南部を放っておくことはできないはずだし」
二人の会話に悄然となるシェラとプリムであった。
そう、今は戦争なのだ。
真人はいつ戦場に出るかもしれず、またオルパシアが亡国と化さないともかぎらない。
まして実績を示した傭兵部隊が戦いに真っ先に狩りだされるのは確実であった。
真人が帰ってきたことではしゃいでいた二人は厳しい現実に思わず顔を俯かせた。
このまま戦争などなくなってしまえばいい………
国も家族も地位も名誉も戦争が奪い去っていった。
自分の命さえ危ういと諦めかけていた時に再び与えられた安らぎと家族を失うことなど考えたくもなかった。
「シェラ・プリム……心配しなくてもオレは大丈夫………必ずふたりのもとに帰ってくるよ。だから二人は笑って帰りを待っていてくれ」
気落ちした二人を真人は力強い口調で励ました。
日ごろの鈍感ぶりが嘘のような気の回しようであった。
「「はい♪」」
「私のこともしっかり守っておくれよ、真人!」
負けじとディアナも食い下がる。
「もちろん、オレの力の及ぶ限り君を守るよ、ディアナ」
ごく当然といった風で莞爾とほほ笑む真人を見てディアナも相好を崩した。
なんとも女冥利に尽きるセリフであった。
「良かったですわねディアナさん。もっともディアナさんともあろう人がそうそう危機に陥るとも思えませんけど」
「仮にも闘神ディアナと呼ばれてる身だからね。真人が私を守ってくれるなら私も真人を守ってみせるさ」
暗に戦場で真人の傍にいられるのは自分だということを匂わしながらディアナは笑った。
「ご主人様をお願いしますね…………おほほほほほほほ」
「任せておきな………うふふふふふふふふ」
陽気な笑い声とは裏腹に空気だけが重くなっていく。
仲がいいなあ二人とも………………
どうやら約一名空気の読めない朴念仁がいたようだ…………。
カラリ
玄関の呼び鈴の乾いた音が鳴ったのに気づいてシェラとプリムが玄関へと向かう。
「いらっしゃいませ」
「急な来訪で申し訳ないが真人卿はご在宅か?」
そこには穏やかな風貌と知性を感じさせる黒い瞳が印象的な壮年の紳士が佇んでいた。
来客の顔を確認したシェラの顔色が蒼白になる。
シェラは男の正体を知っていた。
オルパシア王国外務卿ラスネール侯爵その人であった。
シェラがラスネールを最後に見たのはいつだったろうか。
二年前に王都レパルスに使節団として訪れたときが最後だったはずだ。
王族とは名ばかりの存在であったから会話を交わすようなことはなかったがカムナビ神殿の巫女であったシェラが外交文書を読み上げる詔声の儀は少なくとも見られているに違いなかった。
遠めに見ただけの小娘のことなど記憶に残っていない可能性もあるが………
「外務卿殿自らのお越しとは………いったいどういう風の吹き回しですか?」
ラスネールは笑った。
この愛すべき少年は自らが今まさに生贄の祭壇に捧げられようとしていることをしらない。
自分がどれだけ重要で貴重な人材になってしまったかということを全く自覚していない。
そして最後のカードがたった今失われてしまったのだということも。
「いや、なかなか可愛らしいメイドをお持ちだ真人卿は」
「可愛いのは確かですがメイドではなく妹ですよ」
自分にちらりと値踏みするような視線を投げかけた侯爵の様子はシェラに身も凍るような絶望感を与えていた。
間違いない。
この男は私たちの正体を知っている。
そしてこの男の獲物は無力な自分たちではなく、無双の武人中御神真人にあるのだ。
私の正体を確認するようなあの視線は、私という人間が真人に対してどれだけ影響を与えることができるかを確認する意味の視線であるのに違いなかった。
「…………ずいぶんと汚いやり口じゃないか、真人のその命助けてもらっておきながら」
苦虫を噛み潰したような顔でディアナがラスネールを睨みつけている。
「自分が清廉潔白だ、などと言うつもりはないがね。しかし正当な報酬だとは思わないかね?彼はそれだけの偉業を成し遂げているのだから」
「………………あっ!」
シェラの口から短い悲鳴があがった。
自分の正体がばれた衝撃から見過ごしていた違和感の正体がようやくわかったのだ。
………………真人卿
それは真人を王国貴族として取り込んだという意思表明に他ならなかった。
さらに続くラスネールの言葉にはさすがの真人も度肝を抜かれて息を呑んだ。
「真人卿にはいくら感謝してもしきれないほどだ。私も男親として君のような息子を持ちたかったが残念ながらお転婆娘が一人いるだけでね。そこでといってはなんだが、君を私の養子に迎えたいのだが」