第三十五話
「ご主人様お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ〜!」
「ただいま、シェラ・プリム」
王都に帰還した真人たちを出迎えたのは勝利に沸く国民の歓呼の声ではなく、この世界にたった二人の家族である少女たちの満ち足りた微笑みだった。
愛おしげに両手に二人を抱きしめると二人はまるで子犬のように身体を真人にこすりつけるのだった。
……………帰ってきた
そう思える家と家族はなんと愛しいものなのだろう。
失わない………たとえこの身を再び修羅に落とそうとも。
……………抱き合う三人の男女をたいそううらやましそうに指を咥えて見つめるディアナがいたのは余談である。
先日の南部方面軍の大敗を受けてオルパシア王国軍は戦略の立て直しを迫られている。
一刻も早く南部地方を侵攻するブリストル軍を押し戻さなくてはならなかった。
南部地方はオルパシアの最大の穀倉地帯であり秋までに取り戻さなければオルパシアが餓えることは確実だった。
しかし天然の要害であったレナセルダ河を越えたブリストル軍は既に二万以上まで達しており生半の兵力では返り討ちにあうのは目に見えている。
思い切った非常の対策が絶対に必要だった。
「それで話というのはなんでありましょうかな?外務卿殿。今はご存知のとおりこの身はひどく多忙なのだが」
ウーデットは貴族としてはいささか非礼ながらラスネールの訪問を手早く終わらせたかった。
反攻計画の策定で手が回らない状態だったからだ。
「反攻計画はいかがなりましょうや?」
ラスネールが尋ねる。外交官だけあって目つきは穏やかなままだが探るような気配だけは隠せない。
「軍機につき全くお答えできませんな」
ウーデットの答えはにべも無かった。
なるほど外務卿としては外交交渉をひとつ取ってみても情報が必要だということだろうか。
しかし明かせる情報などない。今度の戦いに敗北すれば王国は年内すらもたない可能性があるのだ。
だが、ラスネールの答えはウーデットの予想を遥かに超えるものであった。
「忌憚のないところを言わせてもらうが、門外漢の私ですら今度の戦は危ういと思う。正直次に負ければ小国たちは一斉にオルパシアの敵に回るだろう。だが逆に勝ちさえすれば味方になるやも知れぬ。少なくとも好意的中立はお約束する。」
既に南方のエルネスティアやワルサレムあたりが水面下で蠢動を開始していた。
ラスネールの言葉にウーデットは顔を歪めることしかできなかった。
自分の想像どおり祖国は累卵の危機に立たされているのだ。いや、あるいはそれ以上の。
「私は使うべき札を切らずにいることは愚策だと考えているのだよ。軍務卿殿。我々には後が無いのだ。出し惜しみななしにすべきだとは思わんかね?」
ウーデットは悲壮そのものの表情を浮かべて頷いた。
ラスネールの考えている構想がおぼろげながら理解できてしまったからだ。
「この国には英雄が必要だ。もちろんただの御輿などではない、真の実力を有する英雄が。そのために私は全力をあげて軍を支援する用意があるし、この策は既に主上にもご内意を頂いている」
ウーデットの退路は完全に絶たれていた。
できうれば彼には穏やかな生活を送らせてやりたいと考えていたが詮無いことであったということか。
ルーシアよ。
ことここにいたってはもはやお前の大事なあの少年を庇い立てすることはできない。
いや、私はむしろ少年を英雄に祭りあげ、進んで修羅の巷に放り込まねばならないのだ。
どれだけ娘に恨まれようと、どれだけ人倫の道にもとるといわれようと、それが王国の為ならいささかの躊躇いもなく実行されなければならない。
それがハースバルド家に、王国の盾となるべき一族に生まれついたものの宿命であるのだから。
真人はシェラとプリムを抱きしめつつも複数の視線を感じ取っていた。
敵意の見られないところを見るとただの監視ということだろうか。
ディアナの視線を送るとディアナもわずかに頷くことで肯定の意を示す。
おそらくは先の戦で自分たちは必要以上の注目を集めてしまっているのだ。
心せねばならない。ブリストル帝国を相手にたった一人で戦いぬいた真人の存在はどれだけ隠してもいつかは漏れるものであろうし、既にこの戦に傾注している各国の情報筋には真人の脅威が広まっていると仮定すべきであった。
自分はともかくシェラとプリムの安全をいかに確保すべきであろうか。
真人は頭を巡らしていた。
姉妹に手を引かれながら屋敷へと入ると真人はケルドランへ出立する前に張っておいた結界にほころびを発見した。
どうやら侵入者がいたらしい。それも複数に及んでいるようだ。
護衛の式神がシェラとプリムに張り付いていたはずなので、侵入は二人の留守を狙って行われたのだろう。
屋敷の防御も考え直さなければならない時にきているようだ。
そんなことを考えていた真人の耳に信じられないセリフが飛び込んできた。
「ご主人様、出征の垢をお流しできるよう湯を用意しております。お背中をお流しいたしますのでどうぞこちらに」
「流しま〜す!」
既にいそいそとタオルや入浴道具を用意している二人がいた。
照れくさそうに頬を染めているが入浴する気満々なのは期待に満ちた目の輝きを見れば明らかだった。
「ちょっと二人とも………」
「「ダメですか?」」
両手を胸の前で組んで上目づかいに抵抗の意を乗せてくる。
真人のいない間に女の武器の使い方に磨きをかけた二人だった。
「前にも言ったと思うけど……嫁入りまえの女の子が肌を晒すのはいけないと思うんだよ」
しかも兄妹とはいえ血がつながっていない。
シェラやプリムに情欲を覚える自分というものに激しい抵抗を感じずにはいられない真人であった。
だが…………
「どうしてもダメって言うなら…………」
二人の妹から鬼気を感じる。
その勢いには真人ですら圧倒されてしまうほどだった。
真砂………女の子ってこんなに強い生き物だったんだな……………
「「お兄様って呼んであげないです(もん)!」」
「それだけは勘弁してください」
……………………いきなり深刻な敗北を喫している英雄であった。
この世界の良識はどうなっているのだろうか…………?
男女七歳にして同衾せずという日本古来の美徳をオルパシアに望んではいかないのか?
ふと良識あるべき年上の女性を思い出して真人は一縷の望みとともに女性を振り返った。
…………そこにはいそいそと自らも入浴する気満々で準備にいそしむ女性の姿があった。
それはあんまりです。ディアナさん
真人の視線に気づいたのかディアナはニヤリと不敵な笑みを浮かべて言った。
「なんだい?その顔は。女を甘えさせるのは男の甲斐性だぞ、真人。断っておくがお前に拒否権はないからな。ケルドランでもことをばらされたくないだろう?」
…………真砂……女ってみんなこんなに怖くなるのかい?
真人はあきらめとともに現在の境遇を受け容れた。
まだだ!まだオレは自分には負けはしない!
大切な妹と友人に精神的な苦痛を味合わせないためにも心を木鶏と化して情欲を封印しなければならない。
女性陣からすれば甚だ不本意な決意を胸に真人は浴場へと連行されていった。
「………これほど自分に向けられた好意に鈍感な人間が存在するとはな………」
世界の片隅でカムナビはいらだたしげに爪を噛んでいた。
全く計画通りにいかない現状は歯がゆいばかりだ。
少年を幸せに出来るだけの出会いは用意した。
もちろんカムナビが女性陣の心を操作したことはない。彼女たちが真人に心惹かれたのはひとえに真人自身の魅力によるものだ。
だからこそ真人の頑なな心が歯がゆくてならなかった。
「愛すべき女たちに囲まれて暮らす以上の幸せがあろうか。少年よ………己が心を広くもて!」
カムナビの様子に月の女神マリーカは苦笑を禁じえなかった。
「あの子に貴方(神)と同じ男の甲斐性を望むのは間違ってると思うんだけどな…………」




