第三十話
思わず唖然と目の前の巨漢を見上げる。
………何を言ってるんだこいつは?
いきなり開戦の宣誓が行われる最重要な外交交渉の場に武装して乱入するなど聞いたことがない。
我に返るとアウフレーベの中で怒りが沸々と湧きあがってきた。
「何の真似だ!アムルタート!」
「もうこいつらは敵国の人間だ。そこの侯爵はともかく他の連中はこの場で血祭りにあげて兵たちの士気を高める生贄になってもらう」
こいつ……馬鹿だ馬鹿だと思っていたがここまでとは………!
アウフレーベは当惑と怒りで目の前の景色が赤みがかるのを自覚した。
「出て行け………これ以上の無礼な真似は私が許さん……!」
「くだらん……やはり女か」
アムルタートのややつりあがった目が自分を見下すように細められるのがアウフレーベには理解できなかった。
何故だ?何故そんな目で私が見られなければならないのか?
見ればアムルタートにつき従う騎士たちの大半もアウフレーベに対して軽蔑の眼差しを送っていた。
アウフレーベにはその意味がわからない。
「出て行けと言っている!」
精一杯の力をこめて命令を発すると同時にアムルタートの長剣の抜き撃ちが浴びせられた。
…………しまった!
よけられない。
避わすにはあまりに体勢が悪すぎた。
しかもこの身には身体を守るべき盾も鎧も帯びていない。
手練の剣士だけあって剣帯の逆側からの斬撃である。剣を抜くころには既に腰斬されているだろう。
諦念とともにアウフレーベは目を閉じた。
…………来るべき衝撃がいつまでたっても訪れない。
疑念とともにアウフレーベは瞳をあける。
そのマリンブルーの瞳が怒りに燃える黄金の瞳を捉えた。
「味方を………しかも女性を騙し討ちにするとはブリストルの騎士道も墜ちたものだな」
静かな怒りとともに真人はアウフレーベをその右手に抱きかかえていた。
アウフレーベ本人ですら全く感知できない早業だった。
己の腰に回された腕の力強さと、見た目より遥かにたくましい胸のぬくもりと、燃えるような輝きを放つ黄金の瞳にアウフレーベが陶然と頬を染めているのはご愛嬌だが。
アムルタートはむなしく剣を宙に彷徨わせながら呆然と呟いた。
「………馬鹿な………」
抜刀の瞬間、確かにあの男は侯爵の隣にいた。
その距離およそ2m……接近・確保・離脱という三工程を全く覚知させずにおこなうなどということが本当に可能なのだろうか?
ようやくアムルタートのなかで真人に対する認識が変わろうとしていた。
「女狐め!やはり敵と情を通じておったか!恥を知れ!」
こめかみの血管を引きつらせてエイディングが相変わらず真人に抱かれたままのアウフレーベを指弾する。
慌てて真人の胸から逃れたアウフレーベはことの次第を理解した。
…………おそらくこの美貌の武官に情を通じた私が捕虜に便宜を図っているとでも言ったのだろう。
それなら下級の騎士までもが私を見下すような目で見ていることにも納得がいく。
納得はしたが傷つけられた矜持はとうてい許されるものではなかった。
「エイディング………貴様は騎士の誇りをなんと心得るか!」
こんな下衆な謀は騎士なら絶対に考え付かない。
本来戦場にはたたない文官のエイディングだから考え付く策略だった。
だが、アウフレーベの怒りもエイディングにはなんの感銘も呼び起こさない。
むしろ誇りを傷つけられ猛る様に快感すら覚えていた。
ざまあみろ。これがオレの楽しみを邪魔した報いだーーー。
会心の笑みとともに復讐の完遂を確信したエイディングの横面を張るように真人の嘲りの言葉が響き渡った。
「もののふの心はもののふのみが知る。そこのけだものに騎士の心などわかろうはずもあるまいよ」
「なんだと貴様……!!」
裏切られたような気持ちだった。
敵中にたった一人孤立した武官……まわりには万に届こうかという大軍勢。
身をすくめて命乞いをすべき弱者であるべき生贄風情が圧倒的強者である自分を嘲るなどということがあってはならない。
あってはならないのだーー!
「殺せ!この男を殺せー!」
周りを固める騎士たちが抜刀して真人に襲いかかるのを真人は冷めた目で見つめながらアウフレーベをその背に庇った。
刺突と斬撃が避わす隙間もなく真人に打ち込まれる。
肩口と胴に、そして首筋と心臓に、容赦なく打ち込まれた剣は………
「「「「そ、そんなバカなことが………!」」」」
薄皮ひとつ傷つけられずに受け止められていた………。
真人にとって気を纏わぬ刃は脅威ではない。
魔術付与された武器かあるいは己の気を剣に乗せられる一流の剣士でもないかぎり真人には傷ひとつ負わせることはできないのだ。
しかし服のほうはそうはいかない。
肩口から大きく切り裂かれて真人の引き締まった肢体が露わになる。
思わずアウフレーベは息を呑んだ。
その瑞々しい肌とは対称的に獰猛なまでに引き絞られた筋肉……それでいて美神の彫像のように均整のとれた肢体………
アウフレーベは確信した。
エイディングたちにこの男を倒すことは不可能だと。
「こ、この化け物めっ!」
アムルタートは恐怖にかられつつも剣士としての冷静さを失ってはいなかった。
その剣の切っ先は正しく真人の黄金の瞳に向けられていた。
どんな仕込をしているのかしらないが眼球まではかばえまい!
そんな一縷の望みも一瞬の後には儚く消えることとなった。
眼球の透明な水晶体を前にしてどんなに力をこめてようとも剣は1mmたりとも進もうとはしない。
傭兵として戦場を往来してから数十年、培った武勇に対する自信を根底から覆す衝撃がアムルタートの精神を襲う。
…………勝てない。
自らの剣に自信の全てを預けた男にとって、剣の通じぬ男に立ち向かえる気概はなかった。
「おおお、お前たち何をしている!早く討ち取らぬか!」
エイディングの怒号も、騎士たちの動揺を鎮めることはできなかった。
おかしい。
こんなはずではなかった。
あの邪魔な女を亡き者にし、思う存分獲物を味わい尽くせるはずだったのに………。
「どうしてオレの邪魔をする?おまえはいったい何者なんだ?」
狂気に焦点の定まらぬエイディングの瞳がありえぬ光景を映し出した。
「四ノ式、斗浪」
石造りの重厚な広間にはあまりに不釣り合いな猛獣…………全長で3mはありそうな巨大な虎がグルル…と喉を鳴らしていた。
騎士たちが恐慌とともに我さきに部屋を飛び出していく。
いかに彼らが訓練されていようともそれはあくまでも普通の兵士との戦いを想定したものであって、こんな異常を数倍したような相手はもとより想定外なのであった。
想定外の、しかも勝てぬとわかっている戦いに挑めるものはもののふだけだ。
………そんな、いったいこれはなんの魔法なのだ?それともこれは悪夢か?
身体能力は人並み以下でしかないエイディングは逃げるタイミングが一歩遅れた。
「わが名は中御神真人……中御神家の守護司にして今は故あってオルパシア王国を守護するものだ。自らは戦わぬものよ。戦いを穢した報いを受けよ」
虎の獣臭が迫るのをエイディングは呆然と眺めていた。
「こんな……こんなのは夢だ。夢に決まって………」
鋭い牙が首筋に食い込む感覚に肌を粟立たせたと同時にエイディングの意識は永久に闇に落ちた。