第二十九話
真人たちが待たされた部屋に柔和な物腰の壮年の男性が入ってきた。
仕立ての良い生地の儀礼服を優雅に着こなした様子は男が身分の高い世慣れた人物であることを明瞭に告げていた。
続いてアウフレーベが入室する。
「ラスネール卿、ご無沙汰しております」
「マンフレート卿が自ら参られるとは……いささか驚きましたぞ」
マンフレート・ウィリバルト・デルフ・アウトリンゲンはブリストル帝国の外務卿としてラスネールとは旧知の仲であった。
もっとも敵としてではあったのだが、お互いの力量を認め合い今では友情に近い感情を共有していた。
「今からでも開戦を避けることはできませぬか?」
ラスネールはマンフレートに問いかけた。答えははじめからわかっている。しかし問いかけることが外交官としての役目であった。
「もはや戦争は避けられませぬ。……これも天命であるかと」
既に戦争の開始は最高指導者の意志として決定されたことなのだ。
しかしいつか終わるであろう戦争のために今は形式を満たしておくことが必要なのだった。
「ならば今この時から我がオルパシア王国とブリストル帝国は敵同士というわけなのですな?」
「敵はどこにでもいるものだ。ただ、交戦国という冠を与えられただけにすぎんよ。それもあくまでも今のところという話だ………」
マンフレートとラスネールはお互いに顔を見合わせてニヤリと笑った。
外交という世界に真の友人はいない。
今日の敵は明日の友であり、今日の友が明日の敵であることも日常茶飯事だ。
そして政治に携わるものはその命が敵だけでなく味方にも狙われることも覚悟しなければならないのだった。
ならば今日このとき、国ひとつが敵になることぐらい何ほどのことがあろう。
それが真の外交官たるの覚悟なのだ。
「我がブリストル帝国は貴国オルパシア王国に宣戦を布告する。今や剣は抜かれ血を吸わずに鞘に収まることは無い。戦神ストラトの名の下に汝を名誉ある敵と認める。契約神ロプロスも照覧あれ、戦いは誓された」
「我がオルパシア王国は貴国ブリストル帝国に宣戦を布告する。大地の豊穣が貴国の兵にもたらされんことを切に願う。なんとなれば貴国の兵は死して再び生まれ出でるからである。大地神アクティアの名の下に汝を名誉ある敵と認める。契約神ロプロスも照覧あれ。戦いは誓された」
ここに大陸でも数百年ぶりとなる大国間の直接戦争の幕があがった。
エイディングはいまだ収まりのつかぬ怒りに身を焦がしていた。
あの外務卿をどのようにいたぶってくれようかこのところそればかり考えてきたのに寸前で獲物を横取りされてしまうとは。
エイディングは貧民の出身であり、本人は認めないだろうが高貴なもの美しいものに対する鬱屈したコンプレックスがある。
それがこのような機会にサディスティックな妄執となって表出してしまうのは今回が初めてというわけではなかった。
しかし、相手が外務卿……侯爵などという大物にめぐり合う機会など皆無である。是が非にも味わいつくさなければ気が収まらなかった。
軍の監察部はエイディングにとって天国だったと言っていい。
誰かを貶めるという暗い喜びに浸ってエイディングは朋輩の悪事を暴き続けた。
もしも悪事が無ければ悪事を捏造して他人を陥れてきた。
いつしか上尉という地位とともに、決して目をつけられてはいけない監察部の蛇………クロムの蛇という異称で呼ばれるようになった。
友人と呼べる存在も家族もいない。ただ、他人の不幸を見続けることがエイディングにとっての全てなのだった。
………あの女をどうにかしないことには侯爵には指一本触れられぬ……気位ばかり高い馬鹿な女め………
エイディングにとって他国に敬意を払う必要など毛一筋ほども感じない。
困ったことにこのことに関するかぎりほとんどのブリストルの軍人はエイディングの考えと変わりはなかった。
ブリストルが標榜する世界の統一………主神エンリルの正統を引き継ぐ唯一の神である戦神ストラトを信奉するブリストルは選ばれた民であるという思想は今代の皇帝が膨張主義を取り出してから急速に国民の間に広まっていた。
…………その我々に敵対しようとする国の人間を好きにして何が悪い!
それがエイディングに偽らざる本音である。
………己の居心地のいい場所を守るため冒険は犯さない主義だったが今回ばかりはそうも言っていられないようだ。
あまたの人間を陥れてきたエイディングにとってアウフレーベを陥れるための筋書きを描くことぐらい児戯に等しい。
問題はその成功率と保身とのバランスなのだが…………
…………戦争が始まってしまえば追求も控えられるだろう………
実際戦場では略奪・暴行・横領・逃亡など様々な犯罪行為が発生する。
この非常事態に軍を規律ある集団として押しとどめるべき存在こそエイディングが属する監察部という集団なのだ。
アウフレーベの下には力自慢の准将がいたはずだ。
己の武勇に絶対の自信を持ち、それでいて程よく頭の働きの鈍い都合のいい副将が。
ゆらり………と狂熱の炎がエイディングの心を焦がす。
己の心の奥深くでささやき続ける言葉がある。
壊せ
嬲れ
貶めろ
殺せ
エイディングは立ち上がった。
敵を庇う者が味方であろうはずがない。
少なくとも奴にはそれを理解してもらわなければならない。
ケルドラン派遣軍副将、アムルタート・ルイン・ケルダーには。
厳かな宣誓とともに戦争の始まりは告げられた。
「それにしてもまだメイファンも落ち着いていないのによく開戦を決意したものだな」
ラスネールは砕けた口調でマンフレートに問いかけた。
同時にこれはメイファンにオルパシアの工作員が入り込んでいるという脅しでもある。
「あの国は治安状態こそ悪いかもしれんが武力でわが国に歯向かえる力はないよ。もっとも戦力化にためには後数年は統治に専念したかったがね」
マンフレートも当然その程度のことは承知している。
いまだメイファンを支配下には置いているが自国の領土として一体化しているとは言い難い現状はマンフレートとしても苦々しく思っているところであった。
「お話中申し訳ないがラスネール卿には王都にお連れする故、私とともにただちに同道願いたい。どうも不心得ものが多そうなのでな」
余計な横槍の入らぬうちに一気に王都まで駆け抜けてしまうべきだ。
アウフレーベはエイディングの執念を甘く見てはいなかった。
ただエイディングの執念が常軌を逸していただけで…………。
「汚らわしいオルパシアの下郎どもはここか!」
完全武装の騎士たちを従えて客間の扉を破壊せんばかりに叩きあける男がいる。
見上げるような巨躯
丸太のような太い腕
脂ぎった猛々しい顔
一介の傭兵から武功をあげて成り上がった武勇自慢のこの男こそケルドラン派遣郡副将アムルタートに他ならなかった。