放課後(佑樹)
放課後、雨は何とか上がり、雲の切れ間から青空が僅かに顔を覗かせていた。この様子だと、帰りは合羽を着なくてすみそうだ。バイク通学は好きだが、雨の日は雨具の用意とか、なにかと手間がかかる。
「雨の日とか通学どうしとんの?」
玄関でまた一緒になった浅野さんが、傘立てから自分の傘を引き抜きながら訊いてくる。
「合羽着て普通にバイクで来るよ。路面滑りやすいし、視界も悪なるから、普段より早めに家は出るけどな」
「ふうん。……なぁなぁ、速水君のバイク見せてもらってもええかな?」
「ええよ。でも電車の時間は大丈夫なん?」
「うん。どうせ親が迎えに来てくれるまで、ちょっと時間つぶさないかんのよね」
「そうなんや」
言いながら上履きのスリッパから靴に履き替える。朝の雨に打たれた靴はびしょぬれでかなり気持ち悪い。
うへぇ、靴ぐちょぐちょでイヤやなぁ。だからって長靴で登校ってのもなぁ。
「…………迷惑なんやったらそう言ってよ。……あたし、久しぶりにやりたいことが見つかって、ちょっとはしゃいじゃって、空気とか読めてへんかもしれへんから」
いきなりそんなことを言い出した浅野さんは、何故かざっくり傷ついたような顔をしていて、僕は何がどうなってこうなったのか分からずにうろたえた。
「え? ええっ? なんで?」
「……だって、速水君、今めっちゃ厭そうな顔したやん」
……あー、そこか。
黙って履いたばかりのスニーカーをもう一度脱いで思いっきり絞ってみせる。ぽたぽたぽたっと水が滴り、玄関の床タイルを濡らす。
「こんな靴を履いて嬉しそうな顔するわけないやん?」
「あー。……え、えーと、あたし、迷惑やない?」
まだ不安げな表情のままの浅野さんに笑ってみせる。
「そんなわけないやろ」
「よかった」
安心したように笑う浅野さんにドギマギしてしまって思わず目をそらす。
「なっとしたん?」と小首を傾げる浅野さん。
……ずっと無表情キャラやったくせに、急に普通に笑顔を見せるようになるなんて反則やろ。
「なんでもない。……バイク、見るんやろ?」
「あ、うん。待って!」
僕を慌ててひょこひょこと追いかけてくる浅野さんが追いついてくるのを、ちょっと立ち止まって待つ。
体育館裏のバイク小屋には原付がずらっと並んでいる。ほとんどがスクーターとスーパーカブで、オートバイタイプも若干混じっている。浅野さんは物珍しそうにきょろきょろしている。
「バイク置き場は初めて来たけど、こうして見るとけっこう多いんやねぇ、バイク通学」
「まぁな。けど今日は雨やったからこれでもかなり少ない方やに。普段はもっとぎゅうぎゅうに詰まっとるし」
「そうなんや。それで、速水君のバイクはどれなん?」
「これ」
僕の[しるばー]には、僕が朝着てきた合羽が干してあり、ちょうどシートを被せたような状態になっているのでこのままでは中身が分からない。僕が車体を覆っていた合羽を引きはがすと、浅野さんが歓声を上げた。
「わぁ! やっぱり速水君もモンキーなんやね!!」
「おうよ」
「やっぱ可愛ええなぁ。けど、カラーリングでけっこう印象変わるんやねぇ。サーラさんのはいかにも女の子って感じやけど速水君のはちょっと男の子っぽいなー」
「そうやな。モンキーは年式でカラーリングが変わるからな。俺のは2002年モデルでサーラのは2005年モデルやな」
「へぇ。……なぁ速水君、お願いっ! ちょっとだけ、乗ってみてもええ? あたしもモンキー欲しいからどんな感じか知りたいんさ」
可愛い女の子の「お願いっ」を無下に出来る16歳男子が世の中にどれほどいるだろうか? しかもそれに必殺技【上目遣い】まで加わってくるとなると。
「……どうぞ」
「わーい! やったぁ」
僕がたたんだ合羽を通学用のリュックに押し込んでいる間に、浅野さんは[しるばー]にまたがってライディングポーズをとっていた。
「どう?」
う、わ……。
足を揃えて乗ることができるスクーターと違って、小さいながらもオートバイタイプであるモンキーは当然、両足でタンクを挟み込むようにして乗らなければならない。まじめな浅野さんのスカートは校則の規定どおりの膝上10㌢だが、それでもスカート姿でバイクにまたがればどうなるかは自明の理で……。
浅野さんの太ももがかなり際どいところまでむき出しになっていて、僕はかなり目のやり場に困ってしまった。この見えそうで見えないギリギリな状態はちょっと刺激が強すぎる。
「……どう? って?」
無意識に声が上ずる。
「似合う?」
「うん。ええな!」
目のやり場に困るぐらいにな、という言葉は心の中でだけ付け加える。
自分の今の姿がどれほど扇情的に見えるか分かっていない浅野さんはうんうんと満足げにうなずく。
「え、へへへ。……あ、なぁなぁ、このモンキー、なんかペダルとかレバーとかいくつもあるんやけど、スクーターと運転の仕方が違ったりするん?」
「かなり違うな。スクーターはオートマチック・トランスミッション、いわゆるオートマ車やけど、モンキーはマニュアル・トランスミッション、マニュアル車やからな」
「ごめん。オートマとマニュアルの違いがわからへんのやけど」
「そうやなぁ、オートマは速度に合わせて自動的にギアが切り替わるから、右ハンドルのアクセルを捻れば勝手に走るし、停まるときも自転車と同じやでハンドルのブレーキレバーを握れば簡単に停まるから楽やな」
「ふむふむ」
「で、マニュアルやけどな、速度に合わせて自分でギアを切り替えないかんから、アクセルとブレーキに加え、クラッチとチェンジペダルの操作もせなかんでちょっとややっこいな」
「うっ、なんか難しそう」
「まぁ慣れればどうってことないんやけどな。モンキーもそうやけどマニュアル車のバイクの場合、右のハンドルのレバーが前輪ブレーキ。左のハンドルのレバーがクラッチ。右足のペダルが後輪ブレーキ。左足のペダルが変速用のチェンジペダルって決まっとるな」
「難しいよ。……もしかして、モンキーって全部マニュアルなん?」
「ほぼそうやな。古いモンキーの中にはクラッチレバーの無い三速リターンクラッチっていうセミオートマタイプのとか、希少車のオートマタイプもあるんやけど、基本的には四速マニュアルやな」
「オートマがあるん?」
「あるはあるけど、希少車やで滅多にネットオークションにも出てこやんし、値段も高いに?」
「……ちなみにいくらぐらい?」
「この前、オークションに出た時は最終的に五〇万ぐらいまで上がっとったな」
「あう……」
浅野さんが絶句して[しるばー]のタンクに突っ伏す。
「浅野さんはモンキーに乗りたいんやんな?」
「……うん。サーラさんの[もんちー]に一目惚れして、モンキーに乗りたいから原付免許を取ろうと思ったんさ」
突っ伏したままそう答える浅野さんを見て、ああ、僕と同じや。と思った。モンキーにどうしようもなく魅せられてしまった僕と同じなんや、と。
「……そっか。まぁ元々運動音痴のサーラやって普通に四速モンキーに乗りこなしとるんやから、元々運動神経のええ浅野さんやったらすぐマニュアル車でも乗れるようになるに。俺でええんやったら乗り方ぐらい教えるし」
「ほんまにっ!?」
浅野さんがガバッと上半身を起こす。
「うん。モンキー乗りとして、モンキー好きの浅野さんをほっとけやんし」
僕がそう言うと、浅野さんは顔をくしゃっとして泣きそうな顔で笑った。
「なんかさ、速水君っていい奴やんな」
「そう、なんかなぁ?」
「……速水君だけやに。中学が一緒だった子たちの中で今もあたしに普通に接してくれるんはさ。今までやって、速水君がちょいちょい話しかけてくれてけっこう嬉しかったんやよ。サーラさんから紹介されたんが速水君やなかったら、今日やってたぶんよう話しかけれんかったと思う」
「……」
ちょっと意外だった。でも、すぐにそうかもしれんな、と思いなおした。
浅野さんだって一人の繊細な女の子なんだ。以前は陸上という秀でたものがあったから自然と彼女の周りには人が集まって来てたけど、それをなくした時、自分から人の輪に入っていかなくちゃいけなくなって、でもその方法が分からなくて、そのまま孤立していったのだろう。今では、クールで無口な一匹狼キャラがすっかり板についてしまっているけど、彼女自身はそんなことは望んでいなかったのだ。やっぱり寂しかったんだ。
浅野さんが上目がちにおずおずと口を開く。
「なぁ、速水君。……あたしと、その……友達になってくれん? 速水君と……友達になりたいんさ」
彼女がその言葉を口に出すのにすごく勇気を振り絞ったんだってことが痛いほど伝わってきた。
かつて、別の世界の住人だった天才スプリンターはそこにはいなかった。そこにいるのは、普通の少女としての一歩を怖々と踏み出そうとしている内気な一人の女の子、浅野香奈だった。
僕は、そっと右手を差し出した。
「ちょっと照れくさいけど、こういうのって形が大事やと思うから。これからよろしくな! 香奈ちゃん」
気恥ずかしそうに笑いながら、香奈が僕の手を握り返してくる。
「えへへ。こっちこそよろしくなぁ。ゆ、佑樹君!」