最終話:風になる(香奈)
連なる山々に囲まれたあたしたちの住む町は朝の訪れが遅い。
夏でも、朝の七時は回らないと太陽の光は届かない。
あたしが六時半過ぎに自宅の玄関から外に出ると、真っ白な朝霧が町の輪郭を曖昧にしている幻想的な光景が眼前に広がっていて、ちょっとした感動を覚えた。
湿気を含んだ朝の空気にちょっと肌寒さを感じて、ウィンドブレーカーのジッパーを一番上まで引き上げる。
空を見上げると、それはどこまでも蒼く透明に澄み切っていて、今日が最高のツーリング日和であることをあたしに教えてくれた。
あたしは、自分で買ったツートンカラーのハーフヘルメットを被り、ライディンググローブを両手に填めてから、ガレージから[メッキー]を路上に引き出した。
習慣どおり、サイドスタンドを跳ね上げてからシートに跨ってサイドミラーを調整し、イグニッションキーを回してスイッチを入れ、キックペダルを一気に踏み込む。
[メッキー]はいつもどおり機嫌よく目覚め、ちょっとの間だけ不安定なアイドリングをしていたがすぐに回転数が落ち着き、心地よい振動を伝えてくるようになった。
「今日もよろしくね[メッキー]」
騎手が愛馬に対してするように、その磨き上げられたタンクをぽんぽんと軽く叩く。
ニュートラルから一速に変えて、朝霧の中をゆっくりと走り始める。
霧が出ているといっても走行に支障が出るほどのものじゃない。
むしろ、頬をなでるひんやりした空気が心地よくて頬がついつい緩んでしまう。
すっかり体に馴染んだ[メッキー]を半ば無意識にギアチェンジして、順調にスピードを上げていきながら、あたしたちは早朝の住宅街を駆け抜けていった。
宮リバーパークの駐車場には、沙羅姉さんと祐樹と響子さんがすでにそれぞれの愛車と一緒に待っていた。
今日は、あたしと響子さんを新しくメンバーに加えたチーム【もんきーず】全員でのツーリングの日だ。
「かなっち遅いぞ。あたしは待ちくたびれたよ」
開口一番にそう言う響子さんにすかさず佑樹のツッコミが入る。
「響子さんもたった今来たばかりやんか!」
知ってる。ついさっき響子さんの白いゴリラが駐車場の入り口に入っていく姿がチラリと見えてた。
「一日千秋の思いって慣用句があるだろう。あたし的には一分が一時間に相当するのだ」
「はいはい。キョーちゃんってば前から楽しみごとがあると何日も前からワクワクしとったもんねぇ」
「沙羅先輩っ。あたしは断じてそんな、遠足前日が眠れない子供のようなことはっ」
「あら、キョーちゃん目ぇ赤いやん。どしたん?」
「実は昨日なかなか寝付けなくて……ってなにを言わせるんだ! 誘導尋問なんて卑怯な!」
「あはははは!!」
沙羅姉さんにかかっては響子さんもすっかり子ども扱いで、あたしはおかしくて笑ってしまった。
「さてと。ほんなら集合時間よりちょっと早めやけど、香奈も来て全員揃ったで出発しよか?」
祐樹の提案にあたしは、期待と昂揚で胸をわくわくさせながら大きくうなずいた。
「うんっ!」
かつてのあたしは走ることが大好きで、それが人生のすべてだった。
自分のエネルギーを一気に爆発させて100㍍を駆け抜ける時の風を切り裂く感覚。一番でゴールに飛び込んでテープを胸で切った瞬間の快感。応援してくれていた人たちの喜ぶ顔、誇らしげな顔。
それらすべてをひっくるめてスプリンターとしての生き方をたまらなく愛していたから、誰よりも早く走ることだけを考えて、一握りの人間だけに許された栄光の高みを目指してただ一人で走っていた。
そんなあたしが、自分の足で走れなくなってから一年。
今もあたしは走っている。でも今は上を目指すのではなく、相棒である[メッキー]と二人三脚で、大好きな人たちと一緒に走っている。
豊かな自然が残るこの町で、あたしたちは今日も、大空と大地の間を疾走する一陣の風になる。
おわり
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。とりあえずここまでで一旦の区切りといたします。
よろしければ感想、評価、レビューお願いします。




