6月の朝(香奈)
――……ピピピピッピピピピッ
目覚まし時計に起こされ気がつくと、枕が涙で濡れていた。
見慣れたあたしの部屋、あたしのベッド。
目覚めた時の後味の悪さから、またあの時の夢を見てしまったんだと悟った。
カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋の中を明るくしていて、あたしが日本新記録を出した時の写真にスポットを当てていた。
それを見て、また泣きたくなった。
リハビリの成果で今はもう割と普通に歩けるし、自転車だって乗れる。
でも、もう陸上競技者としては走れない。
走ることが大好きで、それしか能がなかったあたしから走ることを取り上げた神様は残酷だと思った。
ブルーな気持ちでベッドから降り、ちょっとびっこを引きながらクローゼットに向かい、高校の制服に着替えた。
姿見に映した姿は、一年前のあたしが着るはずのなかった濃緑のブレザーと白のポロシャツ、グレーのチェックのスカート。
走れなくなったあたしはスポーツ特待生の資格を取り消され、家から近い進学校には走る以外に能のなかったあたしの学力では到底入れそうになかったから、結局、何とか受かった隣町の公立校に今は電車で通っている。
寝癖直しとブラシで髪を整える。
あの頃ショートだった髪は今では肩まで届くセミロング。
収まりの悪かった癖のある髪もこの長さになると自然な感じでウェーブがかる。
二階の自分の部屋から、お父さんがあたしのためにつけてくれた階段の手すりを伝いながら下に降りてリビングに入ると、お父さんが新聞を片手に食後のコーヒーを飲んでいて、お母さんがラジオを聞きながら料理をしていた。
「……お、おはよ」
あたしがあいさつすると二人が同時に顔を上げる。
「ああ、おはようさん」
「おはよう香奈ちゃん。今スクランブルエッグ作っとるから、適当にパン焼いて食べてな。お弁当はテーブルの上やけど、まだご飯熱いからもうちょっと冷めてから蓋したほうがええわ」
「うん」
五枚切りトーストを一枚焼いて、その上にスクランブルエッグをのっけてケチャップをかけて、もそもそと食べる。
陸上を辞めてからすっかり普通の女の子並みに食事量が減った。
あたしが食べている間にお父さんは会社に行く準備をしている。
食事を終え、学校に行く準備を整えたあたしとお父さんは一緒に家を出た。
あたしの家から駅は遠い。
だから、いつも出勤するお父さんの車で駅まで送ってもらってそこから電車で高校の近くの駅に行き、そこから歩いて学校まで通学している。
帰りはお父さんかお母さんのどちらかが駅まで迎えにきてくれる。
走り出した車の中で、お父さんが口を開く。
「今朝の新聞に載っとったが、もう来週ぐらいには梅雨入りらしいな」
「ふーん」
「早いもんやな。香奈が高校生になってもうすぐ三ヶ月か。……その、なんだ、何かやりたいこととか、見つかったか?」
あたしは首を横に振った。毎日がただ虚しく過ぎてるだけ。
「……何も」
「……部活にも、まだ参加する気にはなれやんか?」
「今はまだそういうんはええかな」
「……そうか。そんな時は無理にやらんでもええさ。きっと香奈にはまだ、もう少し休息が必要なんやろな。時期が来れば新しい生きがいが見つかるやろ。お父さんもそうやったが人間ってのは大人になるまでに何度も挫折を経験するもんやからな」
「……見つかるやろーかねぇ」
正直あまり期待してない。
あたしが陸上以上に打ち込めるものなんて考えられない。
「大丈夫。今はまだ陸上のことを引きずっとるから気持ちを切り替えられやんかもしれんが、前に進もうと努力している人間にはいつか必ず道は開けるもんや。……そうやな、今の香奈は階段の踊り場みたいな状態かもしれんな」
「階段の踊り場?」
「次のステップに移行するんに必要な準備期間やな。とにかくや、今はあせらずにぼちぼちやってけばええさ。ただ、これだけは忘れんといてほしいんやが、お父さんとお母さんにとって、香奈はいつでも自慢の独り娘や。人より飛び抜けた才能の有る無しに関係なくな」
ナンバーワンじゃなくてええ。香奈の存在そのものがかけがえの無いオンリーワンなんやから。
と、お父さんは某国民的ヒット曲の詞を連想させる言葉を続ける。
「なるほど。そういうキザなセリフでお母さんを口説き落とした、と。ご馳走さまです」
「…………親をからかうな」
お父さんが顔を赤くしてそっぽを向く。
つい茶化してしまったけど、ちゃんと分かってる。
お父さんとお母さんがあたしのことをとても大切にしてくれていることぐらい。いつだってあたしのことを一番に考えてくれていることぐらい。
だから、二人をこれ以上心配させないように、なにか打ち込めるものを見つけなくちゃいけないと思ってるけど、今のあたしはからっぽなんだ。
なんにもない、本当のからっぽ。
少しも心が沸き立たない。何も燃え上がらない。ただただ虚しい。
エネルギー切れ? HP、MP共に0状態? 燃え尽き? とにかくそんな感じだ。
――カタン、カタタン、カタン、カタタン……
お父さんと別れて、一人で電車に揺られ、ただ漠然と窓の外を流れて行く景色を目で追いながら、あたしはつぶやいた。
「つまんないな……」