キャブ(香奈)
「さってと。ほんならぼちぼち始めよか」
食後のコーヒーを飲み干した佑樹がそう言いながら立ち上がり、大きく伸びをする。
「う、うん。ちょ、ちょっと待って!」
あたしは慌ててマグカップにちょっと残ったコーヒーを飲み切った。
佑樹が淹れてくれたコーヒーはちょっと温くなってたけど、それでもすごく美味しい。
普通、コーヒーって冷めてくると酸味とえぐ味が強くなってそれが苦手だったんだけど、佑樹の淹れるコーヒーは何故か冷めても不味くならない。なにやら淹れ方に秘密のコツがあるらしい。
使い終わったマグカップをキッチンのシンクに置きにいく。そこに佑樹が使ったチャーハンの皿とスプーンがあるのを見て、またちょっとドキドキした。
思わず自分の唇に人差し指で触れてしまう。
間接キス……やね。
まさか、あたしが使ったスプーンをそのまま使うなんて思いもしなかった。嫌なわけっちゃうけど、めっちゃ恥ずかしかった。
でも、あたしがあんなにドキドキしてたのに、佑樹はそんなこと全然気に留めてない感じで、あまりにも普通で、やっぱりあたしは友達としか思われてへんのやなぁってつくづく思い知らされてしまった。
友達でいい。彼のそばにいられるんやったら友達でもいいってちゃんと自分に納得させたつもりやったけど、やっぱりちょっと胸が痛かった。
ガレージで、[メッキー]から取り外した気化器を手に、床に胡坐をかいた佑樹がいつものように説明を始める。
あたしは彼の横に並んでしゃがんで、その手元に注目しながら説明に耳を傾ける。これもいつもの通り。
「キャブレター、通称キャブは、液体のガソリンを細かい霧状にして空気と混ぜた、いわゆる混合気にしてエンジンに送り込む部品な。……そうやなぁ、身体に例えれば肺みたいなもんかな?」
「ふーん。どういう構造しとんの?」
「それは今から説明する。……まず、このレバーがチョーク。今の時期はほとんど使わんけど、寒くなるとガソリンが気化しにくくなるから混合気が薄くなってエンジンがかかりにくくなるんさ。そういう時はこのチョークのレバーを引く。そうすっと流れ込む空気の量が少なくなるよって混合気を濃ぉなるんさ。ちなみに今みたいに暑い時にチョークをかけると混合気が濃ぉなりすぎて逆にエンジンがかからんくなるけどな。おけ?」
佑樹がチョークレバーをカチャカチャといじると、その動きに合わせて空気取り入れ口が開閉するのが分かった。
「うん。これは陸上やってたから原理はなんとなくわかる」
次に、佑樹がキャブレターの外部についている二つの大きさの違うマイナスのねじを示す。
「こっちの大きい方のねじがアイドリングスクリューで時計回りに回せばアイドリングの回転数が上がる。んでこっちの小さい方がエアスクリュー。締めたり緩めたりして空気の量を調整する」
「調整は難しいん?」
「うーん。こればっかりはやりながら覚えていくしかないやろな。実際にエンジンをかけんと調整できんしな。さて、そんなら今から分解するからこれ持って」
「ん」
佑樹からキャブレターとプラスドライバーを受け取る。キャブレターは手のひらに収まるサイズだけど、鋳物だから意外にずっしりと重い。
「スクリューとは別の……これ、この二つのプラスねじを緩めればキャブレターが上下に分かれるから、とりあえずこのねじを二本とも抜いて」
指定されたねじを外すと、キャブレターがあっさり上下二つに分かれた。中は空洞になっている。
「なんなんこの空洞?」
「燃料タンクからキャブに流れ込んできたガソリンが一旦ここに貯まるんさ。で、ここからキャブの上側にあるこの二つの穴、メインジェットとスロージェットっていうんやけど、ここを通って霧状になる仕組みになっとるんよ。……このミニスパナとマイナスドライバーで外せるから、メインジェットとスロージェットも外してみ? ジェットは真鍮製で傷つきやすいよって、扱いは慎重にな」
「はーい」
言われたとおり金色のメインジェットとスロージェットを外してみる。
「おっけ。そんならその穴を覗いてみや?」
「うん。……何も見えんけど?」
「うん。調子の悪い奴はだいたいその穴が詰まっとるな。その穴をきっちり貫通させとかんとガソリンをエンジンに送れへんから、エアーコンプレッサーで穴詰まりを吹き飛ばす。ちょっとメインジェット貸して」
「はい」
あたしから受け取ったメインジェットに佑樹はエアーコンプレッサーの噴出し口を当てて、プシュッと高圧の空気を吹く。
「ほい、もう一回覗いてみや?」
佑樹から返されたメインジェットを覗いてみると、シャーペンの芯よりもうちょっと細いぐらいのトンネルが貫通していた。
「おー、これが正しい状態なんやね?」
「そう。じゃあ同じようにしてスロージェットも貫通させたって。それから、キャブに空いてる穴全部に一回ずつプシュッとしたってや」
スロージェットをたった今佑樹がしてみせてくれたのと同じ要領で貫通させ、キャブレターの各所にある穴――ガソリンや空気の通り道――もコンプレッサーの高圧の空気で穴詰まりや汚れを吹き飛ばす。
エアーコンプレッサーを使いながら、今更だけど、なんで佑樹の家にはこんなにたくさんの作業用の機械や工具があるんやろ? と疑問に思う。このガレージは整備工場もかくやというぐらい設備が整っている。
工具って結構値段がするから、高校生のお小遣いじゃこんなに揃えるなんて不可能だ。
「なぁまぁ、いまちょっと思ったんやけど、なんでここにはこんなに工具とか機械が揃っとんの? こういうのってけっこう高いやろ?」
ざっと見回しただけでも、各種ドライバー、ラチェットレンチにメガネレンチにスパナ、ペンチやニッパーやプライヤー、リムプロテクターやシザーズホルダーやバンドホルダー、シックネスゲージやチェーンカッターやスクレイパーといった一般的な工具から特殊工具に至るまでずらっと並んでいるのが確認できる。
「ああ、そっか、そうやな。香奈ちゃんにはまだ話しとらんかったな」
佑樹がちょっと寂しげな表情を浮かべる。
「?」
「ここの工具とか機械はみんな、親父の遺品なんだわ。親父はMotoGPのレーサーやったんやけど、プライベートでは自分でバイク弄るんが趣味でな、そんな親父がバイク弄るんをずっと横で見とったから、俺も自然と整備を覚えたんさ」
「!」
何気ない質問のつもりだったけど、思い切り地雷を踏んじゃったみたい。
佑樹のお父さん、もう亡くなっとるなんて……。母子家庭なのは知っとったけど、てっきり離婚だと思ってた。
「俺が中一やったからもう三年前やな。親父がレース中のクラッシュで急逝したんは」
「……ご、ごめんなぁ。つらいこと思い出させちゃって」
「いや、まぁ大丈夫やに。今はもう立ち直っとるし。そりゃたまに寂しくなることもあるけど、親父が大事にしてたこの[しるばー]を弄ったり、乗って走ったりしとる時とか親父と今でもどこかで繋がっとるような気ぃするしな」
爽やかに笑ってみせる佑樹がたまらなく愛しくて、あたしは彼を思い切り抱きしめたいという衝動に駆られた。
両手が塞がってなかったらたぶんそうしてたと思う。
いつも飄々と笑っている佑樹も沙羅姉さんも、人生の辛い時期を乗り越えてきて、立ち直って、こんな風に自然に笑えるようになったんだ。
強いなぁと尊敬と憧憬の気持ちがこみ上げてくる。
参ったな。なんだかますます好きになっちゃうやん。
「……ま、昔話はここまでな。エアーコンプレッサー、かけ終わったな?」
「あ、うん」
「よし。じゃあ、今の分解と逆の手順で組み直したって?」
メインジェットとスロージェットをキャブ本体に差し込んでマイナスドライバーで締め、二つに分かれていたのを元のように合わせてプラスドライバーで締め直す。
「はい。できた」
組み上がったキャブレターをあたしから受け取った佑樹がざっとねじの締め具合をチェックする。
「ん、おけ! じゃあ、俺がこいつを[メッキー]に取り付けるから、横で見とってぇな」
「うん」
佑樹が整備の終わったキャブレターを[メッキー]に取り付け、外してあったスロットルバルブや燃料チューブも元の場所に取り付けていく。
「香奈ちゃん、パワフィル出して」
「はい」
元々ついていたHONDA純正のエアクリーナーは空気の吸入効率が悪くてエンジンのポテンシャルを十分に引き出せないので、吸入効率のいい社外品のエアクリーナー、所謂パワーフィルターを購入した。空気の吸収効率のいいフィルターに変えるだけでエンジンの燃焼効率が上がってパワーアップするらしい。
あたしが差し出したパワーフィルターを佑樹がキャブレターの空気取り入れ口に装着する。これがないとキャブレターが空気と一緒に塵や砂を吸い込んでしまって故障の原因になる。
パワーフィルターの取り付けねじを締め終えた佑樹がドライバーを置いてふぅと息を吐く。
「よしっ。これで一通り終わり!」
「完了? これで修理完了っ?」
はやる気持ちを抑えきれずに訊くと佑樹が笑顔でうなずく。
「おぅ。あとは実際にエンジンをかけてからキャブの調整をするだけや」
そう言いながら佑樹がオイルで汚れた作業用の手袋を外しながら立ち上がる。
モンキーの改造は、排気量を上げる所謂ボアアップから入る人が多いですが、まずは吸排気系の強化から始めるのが良いとされています。




