1学期最終日(香奈)
地元の駅に到着した冷房の効いた電車の車内からホームに一歩踏み出した瞬間、むわっとした熱気に包まれて、あたしは思わず呻いた。
「あづ~」
改札を通過して駅舎の外に出ると、アスファルトに照りつける太陽の熱気で陽炎が立ち昇っていて、街路樹にとまっているセミがけたたましく鳴いていて、空には大きな入道雲が立ち上がっていて、もうこれ以上ないぐらいに真夏日だった。
商店街のアーケードがつくりだす陰を縫うように歩いて、あたしは沙羅姉さんの勤めるパン屋さんのドアを開けた。
真鍮のカウベルがカランコロンと店内に澄んだ音を鳴り響かせる。
ほどよく空調の効いた店内に充満する焼きたてのパンのいい匂いに誘発されてお腹が鳴りそうになる。
白衣と帽子に、デニムのエプロン姿の沙羅姉さんが両手にミトンをつけたまま厨房から出てきた。
「いらっしゃいませぇ! ……あら、香奈ちゃんやったん。今日はずいぶん早いやん? まだお昼前やよ」
「へっへ~。沙羅姉さん、今日が終業式やったんですよぅ」
「ということは明日から夏休みやね! だからそんなに嬉しそうなんやね」
「ですです。でも今日は夏休みより楽しみなイベントありますし」
「分かっとるよぉ。香奈ちゃん、免許とって最初に乗るのは絶対[メッキー]にするって乗りたいの我慢しとったもんね」
そうなんだ。原付免許は取ったけど、あたしはまだ運転してない。
沙羅姉さんや佑樹が[もんちー]や[ゴリさん]に乗ってみる? って言ってくれたけど我慢した。あたしは、免許を取って自分で運転する最初のバイクは絶対に[メッキー]にするって決めていたのだ。
その[メッキー]の修理も今日終わる予定で、そのあと佑樹がモンキーの運転の仕方を教えてくれることになっている。
やっと、やっと乗れるんやぁ。
その時のことを想像するだけで、頬がにやけそうになるのを抑えることができない。
あたしが昼食用のパンをいくつか見繕ってレジに持っていくと、沙羅姉さんがそれを袋に詰めながら注意を加える。
「あ、そうそう。分かっとると思うけど長袖長ズボンと手袋を忘れんようにね! 肌がむき出しやと転んだときに大怪我しちゃうからね。ヘルメットはうちの予備を使ってええから」
「はぁい」
「あとこれは、うちからのオマケ」
そう言いながら焼き上がったばかりのメロンパンを一個入れてくれる。
ここのメロンパンは焦がしバターたっぷりのさくさく生地が絶品なんだけど、ちょっとお値段高めなので高校生のお小遣いではたまにしか買えない、そんな代物なんだ。
「わあっ、めっちゃ嬉しい!! ありがと! 沙羅姉さん」
歓声を上げるあたしに沙羅姉さんが優しい笑顔で笑いかける。
「うふふ。今日、[メッキー]に乗れるとええね」
「はいっ!」
その後、店内のイートスペースでメロンパンを食べながら待っていると、お母さんの車がショーウインドー前のパーキングスペースに停まるのが見えたので荷物を持って立ち上がり、沙羅姉さんにあいさつする。
「お母さん来てくれたから一旦帰ります。でもすぐ家のほうにお邪魔しますけど」
「おっけー。うちは今日、四時上がりやから、夕食の買い物して帰るんは五時過ぎかなぁ? 香奈ちゃんも食べてくやろ?」
「いつもお世話になります」
「いいわよぉ! そんなにかしこまらんでも。香奈ちゃんはうちにとって、もう妹みたいな感じやし。……いっそほんとに妹になる?」
冗談めかして聞いてくるその意味に気付いて耳まで赤くなる。
「ゆ、佑樹君はあくまで友達やしっ!」
「あらあら」
沙羅姉さんが困ったように笑う。
「それに、佑樹君にはもう、すごい美人の彼女がいてますし」
「…………そうなん?」
沙羅姉さんがきょとんとして首を傾げる。
「一つ年上の食調の先輩で、美人なのにめっちゃええ人で、あたしなんかじゃ全然太刀打ちできやんってゆうか……」
あ、あたしったら一体何を口走っとるんやろ!?
「……ユウ君に彼女? う~ん、ほんまに? え~、だって……」
どうにも納得がいかないみたいでしきりに首を傾げながら独り言をいう沙羅姉さん。
「響子さんっていう人ですけど」
「キョーちゃんが? やー確かにあの子は人目を引く美人やし、めっちゃええ子なんも分かっとるけど、ええ~だってユウ君は……」
あたしをちらちら見ながら眉根を寄せて考え込む沙羅姉さん。なんか頭がこんがらがってしまってるみたい。
沙羅姉さん的には自分の知らないところで佑樹君に彼女がいることにびっくりしちゃったんだろう。姉弟仲いいし。
「……とりあえず、お母さんを待たせとるんで帰りますね」
「……あ、うん。またあとでな」
「は~い。ではでは~」
ドアノブに手を伸ばしたあたしの背中から声が掛かる。
「あ、香奈ちゃん。一つ言い忘れとった」
「あ、はい」
振り返ると、沙羅姉さんがレジカウンターの上で組んだ手の甲にあごを乗せて、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「キョーちゃんは確かに美人やけど、香奈ちゃんやってすっごく可愛いんやから自信持たなあかんよぉ! ちなみにユウ君がポニーテール好きってゆうんはここだけの話ね!」
「いやいやいやいや、あたしと佑樹君はそういう仲っちゃうし」
……なるほど、ポニテか。
あたしは再び真鍮のカウベルの音を鳴り響かせながら店を出てお母さんの車に駆け寄った。
「ごめんな、お母さん。お待たせ~」
「ああっ、早よ閉めて! 冷気が逃げるやん!!」
「暑いねー、今日も」
お母さんの車の助手席に乗り込むと、お母さんがパン屋さんの前に停まっている[もんちー]に目を移した。
「香奈がお師匠クンのところで修理しとるバイクってこれと同じなん?」
「うん。ヘッドライトの大きさがちょっと違うけど、ほとんど同じ形やね」
「なんか玩具みたいやね」
「なかなか性能は馬鹿にできないんやよ。ちっちゃいくせに力持ち! このギャップに萌えんねん」
「ふふふ、楽しそうやね。……正直、女の子がバイクってどうなん? って思っとったけど、香奈が昔みたいに明るくなったから、今はよかったって素直に思えるわ」
「暴走族になるかもって心配やった?」
「そういう心配はしとらんけど、ほら、やっぱりバイクって女の子ってイメージっちゃうやん」
「……うん。言いたいことはわかる。でも、4miniは男女問わず人気があるんやよ」
「ヨンミニ? なんそれ?」
「バイクのエンジンには2サイクル式と4サイクル式の二種類があって、スクーターとかはほとんど2サイクルなんやけど、モンキーとかは4サイクルなんね。それで、4サイクルのエンジンを積んだミニバイクのことを4miniっていうんやって」
「……なんか、私にはついていけへん世界だけど、香奈もずいぶんバイクに詳しくなったんやね」
「えへへー。師匠の受け売りやけどね」
ちょっと得意な気分。
「今日もお師匠クンのところに行くん?」
「うん。今日で修理が終わる予定やから、そのあと、初めて運転する予定なんよね」
「そう。でも、バイクも乗り方次第やと危険なものになるってことだけは忘れちゃあかんよ。本当に、安全を心がけて運転せなかんよ? バイクで事故してしもたら、今度こそアキレス腱だけじゃ済まんくなるかもしれんからね」
お母さんの心配と不安の入り混じった嘆願に、お母さんの複雑な心境を垣間見た気がして、あたしの浮かれ気分がちょっと治まった。
あたしが陸上で無茶な練習を続けていたときも、大会で怪我をして病院に運ばれたときも、陸上を断念してふさぎ込んでしまったときも、お母さんはいつもあたしのことを心配してくれていた。
もうこれ以上心配をかけたくない。
「うん。分かっとる。無茶せんように気をつけるから」
 




