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ジロワ 反撃の系譜  作者: 桐崎惹句
クルスローの騎士
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イスラムの秘薬

 軍勢が解散したのち、ジロワらはマイエンヌ卿アモンを伴ってクルスローへ帰還した。ベレーム勢は現地解散であったが、帰還方向はほぼ皆同じであったので、実質的にはベレーム城下で解散した状態である。

 

 夜明け早々撤退を決め、一日がかりでベレーム城下まで帰着。その日はベレームで一泊し、翌朝クルスローへ出立した。

 ベレームからクルスローまでは3リュー(10km弱)ほど。小勢に分かれてめいめいの移動であれば急げば半日の距離である。

 ベレームから東北東コロナールの村を目指し、そこから北上して森の中の(こみち)を抜けクルスローに帰着したのは、夜襲の夜の翌々日の正午頃であった。

 

 クルスローの近傍を流れるメルドロー川は更に北のユイヌ川の支流であり、ベレームまでは届いていない。この時代の主要交通手段である水路は使えなかった。

 ただし、ユイヌ川は下流でル・マンを流れるサルト川に合流しているため、北側を大きく迂回する経路であれば、(サルト川区間は曳舟(トウパス)遡上(そじょう)することとなるが)ル・マンまで水路を用いて旅することが可能だ。

 

 クルスローの領主館に着き、マイエンヌ卿に居所をあてがうなど、当面必要な一通りの諸事を片付けた後の午後、ジロワは館の広間にマイエンヌ卿を招き入れた。


 夜襲明けの朝、身体検査と帳簿への記載を終えた後、マイエンヌ卿の身柄はジロワに引き渡されていたが、クルスローに着くまで直接対面し会話することは無かったため、これが久し振りの対話となる。


 室内には、ジロワのほか家宰ロジェ、サラセン人修道士マルコ、ル・グロ、オルウェン、ワセリンらが同席していた。

入室したマイエンヌ卿は、修道士の姿が目に入った際には驚きを隠せなかった。


 予備知識無くこの修道士に直面すれば、異教徒がキリスト教修道士の衣装を(まと)冒涜(ぼうとく)(どちらの教えに対して?)を犯している、としか見えない。


「かようなむさ苦しき田舎屋敷にご滞在いただかねばならないこと、まずはお詫び申し上げる」

ジロワが口を開き、口上を述べる。


「……」

マイエンヌ卿は無言で頷くが警戒の色は隠せない。


「これなるは我が家の家宰を務めるロジェ、隣は我が娘婿で従騎士ワセリン、こちらは衛兵長格ル・グロことタースティン・エイリークソン、その隣は森林管理官のオルウェン・アプ・スィール、そして」

次々居並ぶ一同の紹介を進め、

「当地に逗留(とうりゅう)中のマルコ・デ・サレルノ修道士殿。マルコ殿はモンテカッシーノ修道院の修道司祭にあられます」


「修道司祭!?」

マイエンヌ卿が驚きの声を上げる。

 修道司祭は、修道士でありながら司祭として聖別を受けた、修道院内でも地位のある立場である。しかもモンテカッシーノの様な名のある大修道院の修道司祭ならば、一廉(ひとかど)の人物である。

 

 モンテカッシーノ修道院は、「西欧修道士の父」と呼ばれる聖人、ヌルシアのベネディクトゥスが六世紀頃創設した、由緒ある大修道院だ。

 ベネディクトゥスが定めた修道院会則は、中世ヨーロッパの修道制度の基礎となった。このベネディクトゥスの戒律に従う修道会の一つがベネディクト会であり、そこからクリュニー会やシトー会などの分派が生まれた。


 以後、ヨーロッパの学芸の中心として栄え、度々異民族の侵入により破壊されるも再興を繰り返した。この時代にも、優れた修道士たちの集う学問の都としてその名は輝き、やや後の時代には修道院長デジデリウスがウィクトル三世として法王に就任するなど、西方教会における位置付けは極めて高いものがあった。


 その大修道院の修道司祭である。マイエンヌ卿の言葉遣いも改まったものになった。

「し、失礼ながら……司祭殿は、その……」

「僭越ながら、お応え申し上げます。確かに拙僧にはサラセンの血が入っております。我が父はイスラム医学を修めたる者でございましたが、サレルノの学寮に医学の講義のため招聘(しょうへい)され、当地に滞在する間に改宗して我が母を(めと)り、産まれたのが私めでございます。ゆえに、サラセンの血は入っておりますが、信仰においては生粋のキリストの信徒にございます」


 現代からは想像が難しいが、当時、科学・哲学・医学・教育などにおいて、イスラム世界はヨーロッパ世界よりも格段に進展し最先端であった。


 そして、のちに十字軍によるイスラム世界との接触以降、本格化するのがヨーロッパへのイスラム医学の導入であり、その中心となったのが先行していたサレルノ大学である。サレルノの医学はパリ大学の神学、ボローニャ大学の法学と並び称される看板学部となった。

 

 このサレルノ大学に大量のイスラム医学の書籍をもたらし、サレルノ大学の医学を最先端に押し上げ名声を確立させたのが、チュニジア生まれのイスラム教徒の医師で、のちにサレルノの教授となってキリスト教に改宗したコンスタンティヌス・アフリカヌスである。ただし、それはまだ数十年後の事だった。


 そうした時代に先立ち、長らく停滞していたヨーロッパ医学を担っていたのは修道院群であり、その中でもモンテカッシーノは先進のイスラム医学への取り組みに熱心であった。


 サレルノ、モンテカッシーノ、イスラム医学、これらが帯びる結びつきに、なるほどそうしたこともあるのか、と感心したマイエンヌ卿アモンだったが、

「……それは、また数奇な……なれど、モンテカッシーノの修道司祭たるお方が、何ゆえこのような辺鄙(へんぴ)な寒村、あ、いや失礼、その……」


正直過ぎる失言に苦笑しつつ、ジロワが応える。


「マルコ殿はとある使命を帯びて旅の途中、盗賊に襲撃されて怪我を負い、当地に滞在されるようになったのです」


 盗賊に襲撃されて、の部分でル・グロが視線を逸らした事にマイエンヌ卿は気が付いていない。

自ら手を下した訳ではないが、その盗賊の一味であったル・グロとしては、今でもやや気まずいのだ。


「使命、とは……?」


「とある罪人を追っております」


罪人、とマイエンヌ卿がオウム返しに呟くのに続け、修道士は静かに、だが、力を込めて応える。

「イスラム秘儀の毒薬製法を奪い、逃走した我が父の弟子でございます。かの者を野放しにしては世に(わざわい)を呼びましょう」

目を伏せた修道士が続けた。


「そして、き奴めは、我が父の仇でございます」

次回「ル・マン金貨とランゴバルド」、2/21投稿予定です。

長くなった分の後半2/3です。この流れは後の伏線というか布石になるんですが、回収するのはずっと先だなぁ。下手すると第二部?まぁ、一部二部に分けるかどうかも決めてないのですが、少なくとも子の世代の話です。

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