エショフール卿
ルーアン大聖堂の内陣。長々と続いた儀式が終幕を迎える。
左手を聖書に置き、右手は聖遺物が納められた祭壇に乗せ、ジロワは誠実宣誓を唱和した。
これは騎士叙任の儀式ではない。既に金の拍車を持つ身(つまり騎士)であるジロワにその儀式は不要だ。
宣誓を終えるとジロワは、ノルマンディー公リシャールより旗幟を下賜された。
旗幟は、封地の支配を示し、授封(領地を与えられること)の証である。
身廊(信者席)に集った参列者から喝采が上がった。
詰めかけた参列者の後方には、急ぎ召されて上洛していたクルスロー領の家宰ロジェ、ル・グロ、娘婿ワセリンらの姿もある。
ここに、ジロワは|エショフールおよびモントライユの領主《シニョール・ダショフール・エト・ド・モントライユ》としての支配権をノルマンディー公により認定された。
彼は『自身の権利としての』エショフール卿およびモントライユ卿となったのだ。
『ノルマンディー公により授封された』ということは、ジロワがノルマンディー公に対して軍役(従軍義務)を負うという事と同時に、ノルマンディー公の保護の下に入るという事を意味する。
つまりジロワに敵対する者が現れた場合、ノルマンディー公がジロワの援軍に現れる(可能性がある)という事だ。封建制度とは、君臣という序列を伴う軍事同盟(契約)である。
ジロワがロジェやル・グロらを呼び寄せたのは、旧エウーゴン領の授封について内示を受けたためだ。
今は主不在となっているエウーゴン領を、早急に接収して支配体制を確立しなければならない。
旧エウーゴン臣下の領主たちは、あらためてジロワ自身との臣従礼を交わす必要がある。
彼らの領地は形式としてエウーゴン卿から授封されたものなので、エウーゴン卿亡き今、彼らの支配権は法的には宙に浮いた形になっている。
臣従礼は個人対個人の契約であり、君主と臣下いずれかが代替わりするにあたっては改めて契約がなされるのだ。
今回は形式的には代替わりではない。法的には本来ジロワに継承の権利がないため、新規に授封されたことになる。
臣従礼が交わされなければどうなるか。
サリカ法の原則は『自力救済』である。
領地を取り上げようとするなら、君主は力ずくでそれを行わなければならない。
逆に臣下の側も、君主を実力で退けられるなら、実質的に独立が可能である。
後々、力関係が逆転した時に介入される口実として残ってしまうが。
法はあっても、実現するためには実力をもって自ら為す必要がある。そうした意味では力が全ての世界だ。
そしてジロワは『ノルマンディー公の臣下』として認められた存在である。
旧エウーゴン卿臣下が、ジロワの下に立つことを良しとせず、戦いを選択するのであれば、その時敵となる戦力にはジロワ自身だけではなく、ノルマンディー公の力も含めて考えなければならなくなる。
辺境であれば介入の隙を窺う他の君主の支援を頼むことも可能だが、ノルマンディー中央部でノルマンディー公に敵対するのは自殺行為であり、まずその様な可能性はなかろう。
しかし、ノルマンディー公の後ろ盾を得て優位とはいえ、新たに君臣契約を結ぶのである。当然、契約(軍役)の内容については厳しい折衝となるだろう。
そうした折衝の実務にあたらせるため、家宰ロジェとル・グロを呼び寄せたのだ。
事は急を要する。
支配体制の確立の遅れは、治安や財政の悪化に直結する。
交渉の主役であるロジェと、その護衛役兼実力行使担当であるル・グロはこの式典の後すぐさま旧エウーゴン家臣らとの会合のため、出立する予定である。
そして、オルウェンに代わりジロワの護衛に付いたのがワセリンだ。
本来クルスローの留守居となるべき立場であるが、ワセリン以外だとジロワの護衛につけられるのは家宰の息子若ロジェくらいしかいなくなる。
若ロジェは父同様、領地経営の実務向きで荒事はワセリンの方が適任だ。
考慮の末、ジロワの護衛にワセリン、クルスローの留守居に若ロジェという配置に落ち着いた。
オルウェンが姿を消してすでに一週間が経つ。
あやつが簡単にくたばる訳がない、とは言いつつも、五十年も生きていれば人があっけなく死んでゆくのは幾度も見て来た。
不安が無いわけではない。
公子の傅役としてルーアンに常駐するジェラール・フリテールに、オルウェンの消息についての探索を依頼し、ジロワはルーアンを発った。
行く先は、セーヌ下流とリスル川との合流地点からリスル川を遡上してすぐの位置にあるモンフォール・シュル・リスル、ブリヨンヌ伯の館の宴で知己を得た髭のモンフォール卿ユーグの領地である。
式典の後、モンフォール卿から是非わが領地に、と招待されたのだ。
オルウェンのこともあり、また領地支配の確立の大仕事も控えている。
ましてやエウーゴン卿の事件の手掛かりも皆無ときては、実のところ内心はそれどころではなかったのだが。
とはいえ、その招待はジロワだけでなくベレーム卿に対してのものでもあり、ベレーム卿が乗り気なのでジロワだけが断わるわけにはいかなかった。
大領主、宮廷人として最初の社交の一つである。そう考えれば初手には丁度良い、比較的手頃な第一歩ともいえた。
先に触れた通り、ベレーム卿とモンフォール卿は君臣契約を結んだ間柄である。
つまり、モンフォール卿とジロワは同じ勢力の構成員ということになり、この招待はその関係性と無縁ではない。
心の内を隠したまま、これも役目のうち、と己に言い聞かせ、ジロワはベレーム卿らと連れ立ちモンフォール卿の領地を目指した。
ジロワらがモンフォール卿の領地へ向けてルーアンを発った頃、すでにベレーム城下に戻っていた二コラは、不意の来客を迎えていた。
来客というよりも押し入られた、という方が適切かもしれない。
二コラが店を構えている、城下でも怪しげでいかがわしい界隈に、その女性は全く似つかわしくなかった。上流階級に生まれて育ったことが挙措や装いに見て取れる。
はて、誰であったか?
とてもではないが貞淑な生活を送ってきたなどとは言えない二コラであるが、享楽を共にした相手の事はほとんど覚えていなかった。全く興味が無かったのだ。
なので、扉を乱暴に開けて入って来た目の前の女性が誰であるか、見当がつかなかったのだ。
どこで関係を持った女だったかな? 最初に浮かんだ考えはそれであった。
だが、その貴婦人の背後に、赤口のラウルことジャンの相棒として見覚えのある小太りで黒髪の衛兵、アラン(その名を二コラは知らない)がニタニタと厭らしい笑みを浮かべて面白そうに立っていることに気付いて事情を理解した。
これは、タルヴァスの女房か。
確か、下級貴族アルヌルフの娘イルデバーグという名で、既にタルヴァスとの間に一男を儲けている、と聞いた。
以前、タルヴァスが二コラを押し倒した際、結局タルヴァスは逃げ出したのだが、破かれた衣服の前を押さえた二コラの姿を、戸口に立つ黒髪の衛兵が見ていた。
おそらく、二コラの事をタルヴァスに手籠めにされた女だと思い、奥方に密告することで小遣い稼ぎでもしたのだろう。
そして本妻が浮気相手(アランの想像通りだとしても被害者でしかないはずなのだが)を吊し上げに来た、そういう状況か。
理解が及ぶと二コラは可笑しくてしょうがなくなった。なんたる喜劇。
「この薄汚い泥棒猫」
憎々し気に二コラを睨みつけ、吐き捨てる。
無言のまま泰然として反応を返さない二コラに刺激されたのか、貴婦人には相応しからぬ罵詈雑言がとめどなく溢れ出した。
奥方が叫び続けて息を切らしたところで、やっと二コラは口を開く。
「奥方様は誤解されていらっしゃいます。誓って、御夫君様は妾めに何もされていません。それを証明することも可能ですが……」
そこでチラッと戸口の方へ顔を向けて言い繋いだ。
「それには妾めの身体を検分いただかなければなりませぬが、卑しきこの身とて恥じらいはございます。お供の方には外で戸を閉めてお待ちいただきたく」
腹に溜った悪意を大声で吐き出し、やや落ち着いていたこともあり、奥方は二コラの要望を受け入れてアランを戸外に立たせて扉を閉めた。
「さあ」
奥方の急かす声に二コラは着衣を脱ぎにかかる。
だが。
そんな不用心なことではいけませんな。ほくそ笑みながら二コラは、床に隠してあった縄の輪を爪先で引っ掛けて引いた。
ほぼ無音で動作するため誰も気付かないが、これで扉には隠し閂が掛かる仕組みだ。同時に裏手口も同様に閂が掛かっている。
最低限の、自衛のための仕掛けである。使い道はごく限られた状況だけだが、今回はこれが役に立つ場面だった。
このうえに逃走が必要な場合は、炊事場の床に隠している入り口から床下のトンネルを通じて外に逃れるのだ。
密閉された空間の中で、二コラが脱いだ衣を床に落とし、その体が露わになる。
奥方の目は股間の一点に釘付けになり、それから思い出した様に視線を上にあげて二コラの顔を見た。
そして虜になった。
先ほどまでヴェールに隠されていた二コラの魔性の美貌が、今は遮るものもなく艶然とした笑みを湛えていたのだ。
魅了された奥方は目を見開き、凍り付いたように身動きも、声を出すこともできなくなっていた。
二コラはゆっくりと歩み寄り、そして、優しく奥方を抱きしめてその唇を奪った。
二コラが腰紐を解いてブリオーを脱がせ始めても、奥方は熱に浮かされたように大人しくされるがまま。
奥方の耳元で、二コラが囁く。
確かに事には至らなかったものの、身体を見られるまでは、御夫君は私を手籠めにしようとしていた。
あの様子だと、他所でも同様の事をしているだろう。
貴女がいかに貞淑であろうとも、御夫君の性は治まらない。
貴女だけが忍耐を強いられるいわれはない、悪いのは御夫君だ。
繰り返し、奥方の罪悪感を打ち消し、タルヴァスの悪行の所為に転嫁する考えを植え付けてゆく。
シェーンズも剥ぎ取られた奥方を、二コラは両腕に抱えて長椅子へと運ぶ。奥方は二コラの頸に両腕をまわし、心はもはや夢の中にあった。
奥方を長椅子に横たえると、二コラは再び唇を重ね、ついで体を重ねてゆく。
室内は甘く湿った空気で満たされ、密やかな睦言と嬌声が繰り返された。
ひとしきり快楽を貪ったあと、衣裳を整えたタルヴァスの奥方が二コラの店を出たのは、日が傾き始めた頃であった。
来たのは丁度真昼の頃であったので、場所柄を考慮すれば相当長い時間、滞在していたことになる。
戸外で待ちぼうけしていたアランはさすがに不審を感じていたものの、二コラの事を女性と思い込んでいたので女性にありがちな長話だろうと片づけていた。
奥方を見送った二コラが背後の気配に気付いて振り返ると、そこには不機嫌を露わにしたアーレッテが立って彼を睨んでいた。
奥方が現れる前から、痴態の繰り広げられている間中、店の奥に隠れていたのだ。
アーレッテは手近にあった動物の頭蓋骨を掴むと、それを二コラに向かって投げつけ、そっぽを向いたまま裏口から出て行ってしまった。
すんでのところで頭骨を受け止めていた二コラは、肩を竦めて苦笑いし、胸中に呟く。
タルヴァスよ、俺からのギフトだ。受け取れ。
それは、ジロワとタルヴァス、両者の子孫にとって重要な意味を持つ置き土産となった。




