竜の里前にて
「そういえば、俺を簡単に乗せて良かったのか?」
『うむ?』
低空を滑空し、草原の植物を容易くなぎ倒す程の風を生じさせながら突き進む竜。
時折羽ばたき、減衰した勢いを取り戻しながら飛空を続けるその背中に座していた黒耀は、腕の中で腹を見せて完全にモフモフされることを受け入れているポチをモッフモッフしながらふと過った疑問を投げかける。
ドラゴンに騎乗している状況で前方に存在していた細く小さな樹木があっという間に横に、後方にと流れていく様は彼にとって興奮材料としては十分であったが、その熱がほんの少し冷めた時にあることに気づいた。
全く体に圧力がかかっていないのだ。
空気抵抗すら無く、滑空速度減衰後の加速の際にもGがかかっている様子が無い。
明らかに外気に晒されている状況で飛んでいるにも関わらず、それが無い。目が乾くことも無い。
何故無いのか、と考えれば簡単にその原因は察することが出来た。
黒耀が背に乗ることを許したドラゴン、アンズォルゲアが何かをしているのだろう、と。
よくよく黒耀自身が感覚を鋭くしてみれば自分を包むように何かしらの膜のような物が生じており、それはアンズォルゲアの体も覆っていた。
しかしアンズォルゲアはさらに他にも何かをしているようで、羽ばたく度に翼に溜めたエネルギーのような物を開放しているように感じられた。
それが一体何なのか、ということは黒耀には分からないが、少なくとも自然とした流れで守られていることは察することが出来る。
けれど、この現実は少々彼のドラゴンに関する常識道から逸れていることに気づいた。
「ドラゴンは他種族を見下すと思っていたことを思い出した。もし見下していたなら、乗せたことを後で他のドラゴンからぐだぐだ言われるんじゃないか?」
『ああ、そのことか……少なくとも、人の住む竜の里の竜に関しては気にする必要の無いことだ』
何やら面倒な事を思い出したとでも言いたげな声音が黒耀の頭に響く。
黒耀はアンズォルゲアの肩部分に乗っており、彼も首を曲げて黒耀の方へ向けず前を向いたままであるため彼がどんな表情をしているのか黒耀には分からない。
ただ言外に〝竜の里に住んでいない竜に対しては気にしないといけないこと〟とほのめかされている、とは理解した。つまりはそういうことなのだろう、と考えた所でアンズォルゲアの念話が続く。
『我らはせがまれて人の子を乗せて空を飛ぶこともあるのでな、里の者であれば抵抗など無いに等しい。基本的に赤子の頃から見ておる者達がほとんどであるし、見守ることはあっても見下すことは皆無であろう。
……もっとも、それは里の者達のことを深く知っているからこそよ。我らも生きるに相応しくない者は大いに見下すぞ』
後半の言葉に偽りが無いことを表すように感情が込められておらず、実際にアンズォルゲアの言う〝生きるに相応しくない者〟と過去に何かが有ったんだろうということを窺わせる。
それが里の者なのか外の者なのか、はたまたどのような条件で相応しくなくなるのかは定かではないが、一先ず自分は背に乗ることを許されているという事実に黒耀は食いつくことにした。
「へぇ……ということは、俺は生きるにふさわしいと認められたってことでいいんだな?」
『少なくとも、その子犬はお主に生きてほしいと思っているように見えるのでな』
『それで十分であろう?』と言いたげな視線を、僅かに頭を動かして黒耀へ向けるアンズォルゲアに、黒耀は何も言わずにただ軽く肩を竦めるだけで済ませる。
黒耀は軽く前に向けていた視線を下ろし、いつの間にか自分の腕の中ですぴーすぴーと寝息を立てていたポチの安らかな寝顔がアンズォルゲアの言葉の答えとも思えたが、とりあえずとして里に着くまでは起こさないようにしようと注意しながらその柔らかな毛並みを指先で優しく撫でていた。
「はてさて、この状況はなんだ?」
『……まぁ物珍しいだけだ、落ち着け……いや、普通に落ち着いているな。何処の田舎者がこの状況でそのような態度を取れるのやら』
未だ夢の中へ意識を旅立たせている子犬を現に戻さないよう優しく抱えながら動じず静かに燃えるような瞳を向けてくる黒耀の姿に、アンズォルゲアは豪胆なのか鈍いのか分からないと呆れの視線を返す。
しかし、そのような視線を受けようと現状がどうにかなるわけではない。
時間が経てば自ずとなんとかなると暗に伝えてくれているとはいえ、見た目では落ち着いている黒耀も内心警戒を怠っていない。
そもそも、このような事態は予想もしていなかったのだ。
何故か村の入口近くに集っていた十数体のドラゴン達に、到着と同時に囲まれるという事態は。
間近には三体、遠巻きに十余り。
最も圧迫感の大きいその三体はアンズォルゲアよりも小さな体躯とはいえ二十メートルは超えており、黒耀一人ならば一口で丸呑み出来ない存在は居ない。
そんな彼らの巨大な顔を近づけられているのだから緊張しても仕方がないのだが、黒耀はあくまで自然体を崩さない。
それがアンズォルゲアにも黒耀を囲む三体の竜にとっても異様であり、好奇心と警戒心両方を抱かせていた。
『……へぇ、なんか妙なのがアンズォルゲアの体に付いてる気配があると思って来てみれば、人間ねぇ……私は初めて見たけどね、貴方が人間を乗せて連れてくるなんて』
それもこんな面白そうな、と付け加えそうな言い方に、アンズォルゲアはふん、と一つ鼻息を吹かすと話しかけてきたドラゴンへ首をもたげる。
『どうでもよいことだろう、そんなことは』
これ以上は何も言うな、と言外に伝えているような感覚をその姿から黒耀は覚えたが、アンズォルゲアの視線に至って怯んだ様子の見えないそのドラゴンは『ふふふ』と微笑みを浮かべているような念話を伝えてくる。
見た目からドラゴンの感情を察することに慣れていない黒耀も、そのドラゴンの顔は面白い玩具を見つけて喜び、微笑んでいるように見えた。
なんとなく念話で聞こえる声の抑揚や調子が女性の物に感じるそのドラゴンは、アンズォルゲアよりも滑らかな印象の強いフォルムをしていた。
体はアンズォルゲアよりも小振り。線も細く感じるが、アンズォルゲアのような荒々しい鋭利さはなく、流麗な水を思い浮かばせる尖鋭さと滑らかさは黒耀にはっきりと綺麗という感想を与える。色合いが艶やかな水色に近いこともあり、流水をイメージするには十分だった。
アンズォルゲアと同様に生えている二対の翼は彼と違い力強さは無く、洗練された美を感じさせる。見た目から言えばこのドラゴンの方がアンズォルゲアよりも飛行速度が高く思えるが、双方の実力を知らない黒耀はなんとも評価が出来ない。
腕も脚もアンズォルゲアより細く、さらに細い尾の先にはアンズォルゲアには無い明らかな硬質感がある。刺突に使われれば人を容易に貫通する光景が想像できる代物にしか見えない。
黒耀にとって、これが雌でなければ何が雌なのだろう、と思えるほどのドラゴンだった。
その上で軽く見回した黒耀は、どことなく細い印象、というか荒々しさが少ない印象が強いドラゴンとその逆が存在することに気づき、確証は無いまでもこのドラゴンは雌と判断することにした。
『ま、あんたがそう言うならそうなんでしょ』
『……いつも言っていることだが、お主のその含みを持たせる口ぶりは腹が立つな』
『あら、腹が立つ程度には興味を持ってくれてるのかしら?』
『抜かせ』
眉をしかめ、機嫌を損ねているような様子で会話を続けるアンズォルゲアを見てそのドラゴンは面白そうにクスクスと笑う。
ドラゴン同士が腐れ縁な存在と軽口を交わし合っているかのような光景に黒耀は好奇の視線を向けるも、すぐ傍から投げかけられた聞きなれない念話によって意識が逸らされる。
『にしてもよ、この人間は何なんだ? どうにも俺にゃあ美味そうにしか見えねぇんだけど?』
『止めなさい、そのような野蛮な物言いは』
『あ゛あ゛!? てめぇもそう思ったからこそジッと見てたんだろうがよぉ!? 自分を棚に上げてほざくんじゃねぇよ!!』
『言葉に気をつけろと言っているのです!! 貴方の粗野な品性が私達竜種の全てに繋がると思われてはどうしますか!!』
『んだとゴラァ!! てめぇこそそんな気の強えことばっか言ってっから一向に貰い手も見つからねぇんだろうがこの駄竜が!!』
『言わせておけば……っ!! 貴方こそ誰も貰って欲しいなどと思わない野蛮竜でしょう!! 地竜の流れを組むのであれば大地の如く泰然自若とした態度を取りなさいこの駄竜!!』
『あ゛あ゛!?』
『何か文句でも!?』
何やら話し始めたかと思いきや、今度は翼の無い、しかし他と比べて何もかもが太く力強い見た目の茶色の竜と水色の竜よりも細く、翼が三対で明らかに飛ぶことに特化しているかのような黄蘗色の竜がすぐさま会話から口喧嘩へと段階をシフトさせる。
茶色の竜は荒々しい男の、黄蘗色の竜は喋りが丁寧な女の声のように黒耀は感じるが、その念話にすら敵対心が滲み出ていた。人間で言う馬鹿という単語に相当しそうな駄竜という言葉を互いに使う辺りからもそれが窺える。
これが人間同士ならばまだ良いが、圧倒的に黒耀よりも巨体のドラゴンが放つ咆哮の応酬が念話とは別に行われ、今にもどちらかが飛びかかりそうな睨み合いが為されている様は人間にとってエマージェンシー甚だしいとしか思えない状況である。
もし竜の同士の争いに巻き込まれてしまえば、普通の人間であればまず明日の陽は拝めない。それもわりと近くに立っている黒耀は現状で争いが起きてしまえば巻き込まれることが確実に違いない。
けれど黒耀は特に怯まず、というか咆哮の影響で起きてしまったポチを軽くあやしながら、不思議そうな目で二体のドラゴンを見つめ、ポツリと呟いた。
「これが喧嘩をするほど……という奴か?」
『む? なんだと?』
「いや、なんでもない。気にするな」
黒耀が何かしらを呟いたことに気づいたが、何を言ったかは咆哮が邪魔をして聞き取れなかったらしく、アンズォルゲアが視線を移動して問いかける。
しかし、黒耀は詳細を答えずに起きたポチを抱き直し、小さな顎の下を指先で擦り始める。
ここで何かを言ってしまえばむしろ悪い方向へ進むかもしれない。竜にも存在するのか分からないとある事情がもし人間と類似しているのであれば、下手な手出しは危ないことこの上ない。
現状を掻き回すとどのような事態に陥るか分からないため黒耀は進んで手を引くも、少々興味深そうに周囲を見渡す。
竜が人間のような感情を持っている時点で興味深い上に、個体毎に随分と体の構造が異なっている。そしてファンタジーの代名詞たる彼らに囲まれている。
なんとも幻想染みた現実に気付き、黒耀は内心テンションを上げていた。
異世界二日目でドラゴンに囲まれる。
幸先が良いのか悪いのか。その審議はさておき、己の未来でどのようなファンタジーに会えるのかと期待に胸が膨らむ黒耀だった。
「それにしても、俺が美味そう? 目が悪いんじゃないか?」
男よりも女の方が明らかに美味そうだろうに、とアンズォルゲアへ黒耀は軽く首を傾げながら視線を向ける。
特に意図はなく、ただ気になったために聞いてみた問い。しかし、真っ直ぐに見つめられた紫紺の竜は、視線を逸らすように目を別の所へ向けた。
それは戸惑い故の物ではなく、明らかに思い当たる節が有りその上で隠そう、ごまかそうとしている態度に見え、黒耀ももしやとばかりに追撃を加える。
「……まさかアズ竜も俺が美味そうだと?」
『『『……アズ竜?』』』
思わず黒耀の口から出た愛称に、今にも喧嘩を始めようとしていたドラゴン達まで首を傾げて反応する。彼らにとってその愛称は全く馴染みなく、そのニュアンスからアンズォルゲアのことを指していることはなんとなく察することが出来たが、それが本当だとは少々信じられない気持ちがある故の疑問符だった。
それに対し、黒耀はしっかりとアンズォルゲアのみを見続け、一切視線を逸らす気配を見せない。その様子に誰も邪魔をしようとはせず、ジッとアンズォルゲアの反応のみを待つ竜達。
沈黙すら居座り始めた場の空気が明らかに反応しなければならない物になりつつあることを察したのか、紫紺の竜は人であればため息をついていそうな雰囲気で仕方ないという風に黒耀へと視線を向けた。
『……はっきり言って理由は知らん。ただ我にとっては美味そうな匂いがするだけだ。見た目はただの不味い人間と変わらん』
「匂い? そんなことは言われたことが無いんだが……ポチ、俺の匂いは美味そうか?」
「クゥ?」
主に問いかけられ小さな頭を傾けるポチ。その仕草はとても愛らしく、黒耀の頭に呻き声のような念話が届く。
大方ドラゴンの誰かがこの愛らしさにハートを撃ちぬかれたのだろう、と即座に予想したがそれが誰か特定する気は無いため黒耀は特に反応を示さずポチの答えを待つ。
しばらくは何かを考えるようにジッと体を動かさなかったポチだったが、いつの間にか夢の続きを追うために意識を落としたらしく、スピーと寝息を立て始めた。
その様子にほんわかし、答えは聞けなかったものの確かな正体不明の充足感は得られたため黒耀は匂いのことを気にしないことにした。抱いた手でモフモフしながら空いた手で小さな柔らかい肉球をプニプニする。
そしてそのまま顔を上げてみれば、アンズォルゲアに喋りかけていた水色の竜がポチに視線を釘付けにして身悶えていた。どうやら呻き声を上げたのは彼女だったらしい。
『あ、愛称のことからかおうと思ったのに、その子犬卑怯だわ、可愛すぎて何も考えられない……!! 私も肉球触りたい……!!』
『……そういえばお主、このような類が好きであったな。クヨウ、どうだ。触らせてやれぬか?』
「いや、起こさないというのであれば別にいいぞ、と言いたい所だが流石にでかすぎる。触るにしてもほとんど感覚なんて分からんと思うぞ?」
手の平大の子犬とアンズォルゲアよりも小さめとは言え二十メートルは確実に超えている体躯を持つ竜。
触れるにしても力加減次第では爪の先でポチを刺すか切り裂いてしまう未来しか思い浮かべることができない現状に対し、黒耀は暗に拒否する。
だがしかし、流石は最強種が一つと名高き竜種。優に黒耀の心配など飛び越えた。
「じゃあこれでどうかしら?」
「……ああ、うん……なんという……」
唐突に生じた目の前の事態に、黒耀は静かに目をつぶる。
その声には驚きと呆れ、そして事実の受け入れをするための苦心が表れており、生じた動揺をその一言でなんとか沈み込ませる。
そして完全に受け入れ、もう一度目を開けて目の前の〝人物〟を視界に収める。
そう、人物である。
見た目はホモ・サピエンスなヒト、しかも妙齢の女性で大多数の男達が放っては置かない程の美女が、〝一瞬発光した水色の竜が消えた場所〟に立っていた。
先程まで居たはずの水色の竜はそこにおらず、元からそこに居たように水色の髪の女性が柔和な笑顔を携えている。
まるで神官のようにゆったりとした髪よりも薄い水色の服を着ており、決して薄着ではない。しかし、腰部分を締めるような藍色の帯の影響で力を込めれば折れてしまいそうな細い腰を形作り、豊満な母性を確かな物として強調していた。
足元ほどまであるスカートも含め柔らかな印象を持たせる彼女は腰ほどまで伸ばされている髪をそよ風に靡かせる。
そこまで女性という存在に興味を抱かない黒耀の目から見ても抜群のスタイルと美貌を持つことを認識させる程の美女がそこに君臨していた。
「……確認なんだが、さっきまでそこに居た水色の竜がアンタか?」
「そうよ? この体なら文句はないでしょう?」
黒耀の問いに即座に答える女性は先程まで頭に響いていた声と同様の声調を持っており、確認も取れたために水色の竜がこの女性であるとイコールで繋げる。
まさに竜が人に変じるというファンタジー極まりない事象が目の前で生じ、本気で質量保存の法則を足蹴にしている事実で笑えそうだと思うも、いや俺もそれくらいなら出来るなと思い直す。
主な使用方法が収納となっている太極帳はその一つに違いなかった。しかも見た目二十ページ程しかない手帳には〝数えきれない程のページが存在している〟のだから、質量なぞ有って無いような物だった。
ちなみに、過去にどれほどページがあるのかページ数を書き込みながら確認をし、五億ページを超えた辺りで腱鞘炎になりかけた幼少期は懐かしい思い出であり、実は願えば自動でページ数を記入してくれることに気づいた時は幼いながらも少々絶望感に苛まれた事実は黒耀の軽いトラウマと化しているのだが、今は関係がない話に違いない。
「膂力は竜状態と同じで力調節が出来ないということは?」
「無いわね。少なくともここにいる連中は千年超えて人と一緒に暮らしてるもの、それくらい覚えるわ」
千年と聞いてドラゴンの寿命事情を把握していない黒耀は軽く唖然としかけたが、それよりも実際に目にしたドラゴンが人間に変わるという事象の方が刺激が強かったためおくびにも出さない。
ファンタジーの柱とも言える存在なのだから千年という人間にとって途方も無い時間を生きても不思議ではない、とむしろ納得出来るほどであった。
だが黒耀はあることに気づき、苦笑を浮かべる。
近くまで歩み寄ってきた女性の金色の瞳には明らかに期待の感情が込められており、まるで純真無垢な子どものようにキラキラさせていた。
その目はアズ竜と呼ばれる餌付け済みドラゴンが餌をぶら下げられた時に見せる目と酷似しており、違う竜であるはずの彼女が同様の反応をするという発見は面白かった。
恐らく種として根底から似通っている部分があるという一先ずの結論を据えて考察を深めることはせず、とりあえずはポチに悪い扱いをすることは無いだろうと判断し、黒耀は慎重に彼女へと渡す。
渡した瞬間身動ぎをして起きるかと身構えるも、すぐに安らかな表情で眠りを継続させたのを見て体の緊張を解くが、その姿が妙に気持ちよさそうに見えたのは寝床の柔らかさの違いかと思うと黒耀は少々切なさを覚える。
圧倒的母性など、若き男である黒耀に手に入れる術など無かった。そもそも術が有っても手に入れる気は無かった。
「ところで、アンズォルゲアは人になれないのか? そうか、なれないのか……」
『待て待て、勝手になれないものとするでない。竜の里では子どもの頃から覚えさせられる魔法の一つだぞ』
勝手に人化出来ないものとして扱われほんの少し気落ちした気配を見せた黒耀にアンズォルゲアは慌てて訂正を求める。
その際、黒耀は何かに反応するようにほんの僅かに目を細めたが、その言葉で己の意見を変える気が無いのか、黒耀は残念なものを見る目を紫紺の竜へと向けた。
「なれないから今もならないんだろ? まぁ出来ないことを強制するのは間違っているしな、強く言う気は無い。
……首が痛くなりそうだ」
『お主、明らかに最後の言葉が本音であろう? 顔を上げているのが面倒になったのであろう? とっとと楽な視線の位置に来いと言っているのであろう? なれると分かっていて煽っているのであろう? そうであろう?』
視線を女性へ向けながらポツリと漏らした言葉を完全に聴きとったアンズォルゲアが何度も確認をするように黒耀へ詰め寄る。
巨大な顔が近寄り、僅かに開いた口の影響で今にも噛み付きそうな気配が黒耀の横で漂うが本竜にその気は無い。
しかしその気は無くとも明らかに普通の人間であれば喰われると怯えを見せること請け合いな光景は、黒耀にも確かな怯えを抱かせる……事も無く平然と無視される。
如何に口調を強めて言外の言葉を補填しようとも静かに無視される。怯えの取っ掛かりなど一切見えなかった。
「こんな小さくてモフモフで可愛いなんて反則だわ……肉球もプニプニでずっと触っていたいくらい」
「小声で起こさないように感想を言うのはいいが触るのを強くするなよ? それだけで起きるぞ」
『ええい、無視をするな、無視を!! これでよかろう!!』
全くもって反応を示さない黒耀に業を煮やしたらしく、声を荒らげてからその体を瞬かせる。すると三十メートルの巨体はその場から消え去り、百八十センチ程の黒耀よりも少し高めの身長を持つ男が残っていた。
髪は紫紺、目は金色。黒耀よりも線は細い印象があるが、ピンと伸ばされている背筋が体に一本の芯が通っているように思わせ弱々しくは感じない。
男は女性よりも濃い青の神官服のような物を身にまとい、胸の前で腕を組み、端正な顔を不満げに歪め、仁王立ちしながらどうだと言わんばかりに鋭い視線を黒耀へと飛ばしていた。
黒耀は無視した。
「ってちょっと待て!! お主の望み通りに人になったのに何故特に反応を示さんのだ!!」
思ってもいなかった反応をされ思わず歩み寄る男、アンズォルゲア。しかし、それでも黒耀の反応は素っ気なかった。
「え、すいません貴方誰ですか? 貴方のような方には今までお会いした記憶が無いのですが……」
「確かにお主の前では初めて人化したがネルキュアビアに対する物と全く反応を異ならせる理由が分からんぞ!? というかお主敬語は使えたのか!? 普通は人ではなく竜の姿の時にそれを使わぬか!?」
「見知らぬ方に言われることではないと思うのですが。後、私のペットが起きてしまいますので少々お静かにお願いします」
「何なのだこの扱いの違いは……」
予期せぬ反応をされたことが余りにも衝撃的だったのか、アンズォルゲアは地面に手と膝をつき落ち込むポーズの典型を見せる。言われた通りポチを起こさないよう声を落とした辺り律儀だった。
ちなみに、敬語の時は迷惑そうな顔をしていた黒耀は思った通りの反応をしたアンズォルゲアの姿に対し、満足そうに意地の悪い笑みを浮かべている。
本当ならば詰め寄ってきた時点で「やかましい」という言葉をぶつける所だったが、それを我慢してここまで上手くいくと面白いにも程があった。黒耀の中でからかう対象として彼が認定された瞬間である。
そしてそんな黒耀の姿を見て、女性は「あらあら」と興味深そうに黒耀とアンズォルゲアの間を交互に視線を動かす。
「初対面の竜種をからかえるなんて面白いわね、貴方。それも良い弄り方だわ、参考にするわね」
「何を不穏なことを言っているのだお主は!? ってクヨウ、お主謀ったな!?」
「大げさだな。ちなみに、この場合はからかわれる方が悪いと思うぞアズ竜」
「同感ね」
「ぐぬぅっ……」
仲間の心無い言葉にアンズォルゲアは驚愕の視線を女性に向け、その際に見えた黒耀のニヤけ顔でからかわれたことを察する。そしてさらにフォローの無い言葉を浴びせられ、アンズォルゲアは不満そうに唸る。
人間が竜種相手に物怖じしないにも程が無いかと声高らかに言いたかったが、ポチが依然として眠っているため起こさないよう何も言わない。この竜も大概ポチに甘かった。
『なんなんだろうな、この状況……ま、いいわ。とりあえずアンズォルゲアの意外な一面を見れたってことで終わらせっか。そんじゃ、俺は地中に戻るぜ』
『そうですね、話はまた今度聞かせていただきましょう。私も空へ戻ります』
人間に手玉に取られるという珍しい光景を実現させている竜の姿は黒耀への警戒心を薄めさせたのか、二体の竜はそれだけを言って行動を起こす。
茶色の竜は大地へ溶けこんでいくかのようにあっという間に姿を消していき、黄蘗色の竜は一筋の光が天へと登ったと思った瞬間跡形もなくその場から消えていた。
それを見てか、少々距離を置いて囲んでいた竜達もそれぞれの動きでその場から離れていく。
彼らは全て二体とは違い遅い動きで離れていき、黒耀は音も無くその巨体を消したという事実が相対的に二体の実力を表しているように思えた。
しかし、流石に黒耀もドラゴンに囲まれて何時襲われるのかと緊張していたのだろう。その二体の姿が消え、囲んでいた竜達も離れていったのを見て、彼は少々張っていた気を緩めて女性へと視線を向ける。
「それで、アンタは何処かに行かないのか?」
「私は元々暇だったから面白い物見たさに来たような物だもの、それにこの子をまだ触っていたいし。そういえば自己紹介してなかったわね。私はネルキュアビア、好きに呼んでもらって構わないわ」
「ならアビアとでも呼ばせてもらおうか。俺は逆盛黒耀、逆盛が姓だ。気軽に黒耀と呼んでくれ。そいつはポチだ」
「待て、何故我はアズ竜でそやつがアビアなのだ」
「なんとなくだな」
「理不尽だなお主……」
「まぁ確かに人の姿でアズ竜は無いな、また考えることにしよう。それはそれとして、もう村に入ってもいいんだな?」
未だポチを起こさないように声を抑えているアンズォルゲアは律儀だったが、黒耀はそれに何も言わずに楽しげな笑みを浮かべながら確認を取る。
村から少し離れた所で降りさせられ、検問紛いのこともされたが彼はそれに怒る気は更々無い。大方背に乗せてくれた竜が話していた〝生きるに相応しくない者〟、それに準ずる者を里に入れたくないからだろう、と見当がついているためである。
詳細を知らない黒耀も不審者を己が住処の近くに近づけたくはなく、竜達の気持ちも分からないではなかった。
そしてこの二竜が己の〝監視役〟であることも承知していた。念話の際に漂う僅かなエネルギーの気配が誰も喋っていない時に何度も漂ってきていたことは分かっていたし、竜達が陰で何かしらを話し合ったことは少し考えれば簡単に行き着く結論だった。
陰で話し合われたことに言及するか? それは否である。黒耀は警戒されたいのでも敵対されたいのでもなく、親睦を深めたいのだ。故に行動する前に確認も取るし、愛するペットをネルキュアビアに手渡してもいる。
そもそも文化レベルの低い世界でいきなり余所者を信頼しろという方が元来無理な話なのだ。昨日道ですれ違った人が山賊やら暗殺者やらである可能性も無い話ではないのだから、地道な心がけで信頼してもらうしかない。
正直他の存在と親しくなろうとした経験が別世界の住職を相手にした時くらいしか無く、従姉妹並びに地域の自称子分、そして同級生の幾人かには勝手に懐かれたため気を回した事が無い黒耀は慣れない心がけでストレスが溜まっているものの、望んでいない面倒事はただただ面倒であり、好き好んで引き起こす物ではないため我慢をすると割り切っている。
しかし、問われたアンズォルゲアは村に入ることに首肯した後、こう付け加えた。
「だがお主には最初に長老の所に行ってもらう。案内はそれからだ」
長老。
竜の里の長老。
その言葉に黒耀は面倒事が訪れた気がしたが、竜の里に滞在するためには恐らく通らないという選択ができない道であることを察し、まぁしょうがないかと受け入れる。
しかしこの時、彼の気が緩んだために甘くなった思考で思い描いた幾つもの長老の姿に正解は無かった。
竜の里アルゼルフが長老にして里長。
千を超え万すら超えた年月を生きる竜。
竜の里の創始者であり竜種の頂点が一つ。
〝慈壊龍〟ベルオターリア。
伝承にて〝殲滅龍帝〟と呼ばれ、数少ない龍種であり〝世界最強の一角〟と謳われる生きる伝説。
今この時、世界を越えた仙人との邂逅を果たすこととなる。
木陰ですやすやと気持ち良さ気に昼寝をする、十歳程の少女の姿で。