愛犬を抱きしめる
新緑のかおりをのせて、涼やかな風がさっと良太郎の髪を吹き抜けてゆく。
学校にいる間ずっともやもやしていた感情を、根こそぎさらっていくような風だった。
やけにまぶしい午後三時半の日差しに目を細めたとき、ふと下校中の生徒であふれかえるバス停に、ここにあってはならないものを、見た。
「な」
人間の二倍、三倍はあろうかという、黒い影。
それはヒグマのようにのっそり立って目の無い顔を生徒に向けている。
あまりにも、唐突な現実。
「なん、だ――」
瞬時にそれが魔、妖怪――狩野家秘蔵の文献でいうところの妖であると察すると同時に、これがいかなる性質のものかを直感した。そして、それと同時に妖の頭部が真横にぱっくり割れて、不揃いに連なる凶悪な牙がむき出しになる。
「……ジョーズっぽい」映画のワンシーンが、脳裏をさっと通過した。
場違いなひらめきは、それの口からしたたるヨダレが健の頭に落ちた瞬間、どこかへ消えた。
「健!」
バス停からの視線が良太郎へ一度に集まる。そこには黒い影のものもふくまれていた。
「おー、なんだよ良太郎すげぇ注目浴びてんぞー!」
手を振ってケラケラ笑う健に猛然と背を向け、家路とは逆方向に全力で駆ける。全身から噴き出る冷たい汗に、いままで感じたことのない恐怖を覚えた。
健の叫ぶ声がどんどん小さくなって、ついにはその姿さえ見えないほど離れた、校舎裏山の舗装路を駆け上がる。
旭日展望台へ続く激坂が良太郎の体力を容赦なく奪っていく。
――もっと、もっと離れろ……!
心臓の悲鳴が聞こえる。
のどの限界の声を聞く。
なにせここは青陵高校の名だたる体育会系部活の部員が走り込む坂。
良太郎の両脚が、もうだめだと叫んだ。
「……く、そっ」
のどがヒリヒリ焼けて、まともに呼吸すらできない。そうして膝をついたときだった。
真横から強烈な打撃を食らって、良太郎の身体が宙に浮いた。コンクリートの上に叩き落ちて、二度、三度転がる。肋骨がきしんだ。
「げっほ、うぐ……」
人生で初めて体験する痛みだった。それでも即死を免れたのは、丈夫な身体に生んでくれた母よし子のおかげだろうか。
グニャグニャゆがんだ視界に飛び込んできたものは、あの黒い影。
どうやら良太郎の思惑通り、あとを追ってきたのだ。
「へ……おまえ、どっから入り込んできた……」
黒い影――妖は、のそりと一歩良太郎に詰め寄った。その、刹那。
何者かの射るような視線を浴びて、良太郎の心臓がドキンと跳ねた。
――なんだ、木の上から……?
正体を探る余裕はもちろん皆無。もしここでわずかな隙でも見せようものなら、目の前の妖に頭からバリッと食われてしまうだろう。
強烈で凶悪な霊気だけを放つ妖は、閉じていた口をふたたび豪快にこじ開ける。そこから飛び散る唾液が、空腹を訴えていた。
「雪丸ッ!」
間髪入れず愛犬の名を呼べば、まるで手品か瞬間移動で現れたように、愛犬の姿が現れた。同時に、素早く親指と人差し指をあわせて印を組む。
「わが名において帰命したてまつる、オン・バサラ・ソワカ!」
真言を唱えれば、雪丸は犬の姿から、巨大な毛むくじゃらの獣の姿に変身する。真っ黒な眼球に血の色をした目、獰猛な口元から身の毛のよだつ咆哮があがった。
目の前の黒い妖をはるかにしのぐ、禍々しい――怪物のような姿。
狗神と呼ばれる、一種の妖――それが。
「雪丸、魂のひとかけらも残さずに、食え」
主の命令に従って、雪丸は鉤爪のついた四肢で地面を蹴る。
咆哮はけものというよりも、むしろ特撮映画の怪獣のそれに近い。
妖の身体は圧倒的な暴力によって引きちぎられていった。
良太郎は足を投げ出して座ったまま、惨く、残虐な食事風景をまばたきをせずに見つめる。そうして食事が終わるまで、雪丸のすべてをつぶさに見つめた。
「おいで、雪丸」
獰猛なうなり声をあげながら、主人の命令に背くことなく、獣は主人の前にこうべを垂れた。だが、目の前の人間を引き裂いてバリバリ食べてしまいたいとでもいうように、獣の口吻から唾液がボトリボトリとしたたる。ナイフのような爪をアスファルトで砥ぐ。
それでも良太郎がその怪物を見つめる表情は、いつも愛犬に向けるそれとまったく変わらない。
「雪丸、ありがとな」
座ったまま、獣の太くて荒い毛に覆われた首に、ふわりと腕を回して抱きしめた。それは良太郎がいつも雪丸に示している愛情表現だった。
「還元せよ」
言って、人差し指と親指をふたたびあわせた。
獣は良太郎の腕の中で愛犬の姿になり変わっていた。
尻尾を振る雪丸を、良太郎はきつく抱きしめる。
「ごめんな、雪丸……お前をこんなふうに……狗神なんかにして」
雪丸は鼻を鳴らして主人の腹部をしきりに舐めはじめた。服の上からでも肋を痛めたことがわかるのだろう、少しでも力になろうとしている姿が、よけいに健気だった。
弾力のある毛に顔をうずめて、つぶやいた。
「お前を死なせて、ごめんな」
頬をペロリと舐められて、ゆるゆると顔を上げた先に、うれしそうに笑う雪丸の顔があった。
いや、犬が笑うはずがないと知っていても、良太郎にはそう見えた。
たとえどんなに後悔しようと、雪丸の主人に対する忠誠心は生きていたあの頃から変わっていない。
それが、より辛かった。
「いてて……助かったよ、あとちょっとで俺、食われるとこだった」
ヨロヨロ立ち上がって、アスファルトに投げ捨てられた鞄を拾う。その当たり前の行為さえも、良太郎には修行僧の苦行に思えた。
「帰ろう、雪丸」
愛犬はぴょんぴょん跳ね回って主人の後にぴたりと添う。
ふと、両側に乱立する木々を見上げた。先ほど感じた射るような視線を探ってみたけれど、すでに気配はどこにもないようだった。
霊気の残り香さえ感じ取れない。
何かが妙だ。
「さっきのあの気配……宗谷、だったのか……?」
良太郎は脇腹に手を添えながら、茜に燃える稜線をその目に映した。
茜色の尻尾を持った、狐霊を思い描きながら。