狐の神様と遭遇
手宮町裏語
「ねえそこのきみ、道を尋ねたいのだけれど」
そこの、と背後から声をかけられ、良太郎はまさか自分ではあるまいと思いつつも、首をひねった。
人通りの少ない手宮町の裏通り。道路わきの街路樹が心地よい風に吹かれて、サワサワと鳴いている。そこに、六月のやわらかな木漏れ日を浴びて、少女が朗らかに笑って立っていた。
「どうやら迷子になってしまって」
迷子と言うわりに危機感がまったく感じられないのはなぜだろう。
ふわふわっとした茜色のボブに、薄桃色と紺色をあわせた袴姿の、可愛らしい同年代の女の子。クラスで一番人気の小林美羽と、いい勝負に思える。
「あの、どこに行きたいの?」
問いかけて、良太郎ははっとわれに返った。タイプの女の子だから油断していたとか、そういう理由もなくはない。だが、返事をするべきではなかった。
もちろん時すでに遅し。
「ありがとう!」
――しまった。やってしまった。
「わたし、梅ノ木稲荷を探しているのだけど、どこを歩いているのかもわからなくなって……」
初夏の陽射しのような笑顔はすぐに翳った。しゅんとうなだれる彼女はなにやら哀愁を漂わせている。それはつまり、良太郎の純情な心を動かすには充分であった。
――まてまてまて。だまされるな、俺。
良太郎は煩悩をぬぐい去るために、ぶんぶん頭を振った。目の前の少女をキッと見据えて、敢然とした態度で臨む。
ところが、予期せぬ事態に良太郎はぎょっと目を剥いた。
少女の茜色の双眸がうるうる潤みだてし、おまけに大粒の涙がぽろぽろこぼれ落ちたのだ。
「帰れなくなったら、どうしよう……!」
「……梅ノ木って名前かわかんねーけど、神社なら一か所知ってるよ」
「ほんとう?」
毎日通っている青陵高校のすぐそばにある、さびれた神社のことを言っているのだろうと、すぐに察しがついた。
なにせ、稲荷神社はそこしかないのだから。
――ああもう、泣くのはさ、反則だよ。
結局この少女を見捨てることができずに、とどめの一撃を食らった良太郎は、自嘲気味に笑って、肩を落とした。
幸い人気もなく、だれにも見られたり気づかれたりすることはなさそうで、ほっと胸をなでおろす。
下から覗き込んできた少女は、大きな目をパチパチさせてにっこりほほえんだ。残念ながら、良太郎にはついさっきまで流れていた涙の真偽を知るすべはない。
少女が一歩、良太郎に迫った。
「きみ、名前は?」
「……狩野良太郎」
「りょうたろう……わたし、宗谷。よろしくね!」
――やっぱり笑った顔のほうが、反則だ。
彼女の正体に気づかなければ、良太郎はこのまま心をわしづかみにされていただろう。
「よろしく……」
控えめにうなずいて、宗谷の袴の後ろでブンブン揺れるきつねの尻尾を、目で追った。
妙なものには絶対に関わらない、というのが狩野家のしきたりである。
良太郎は十六年間、一応それを守り続けてきた。
妙なもの――有り体に言えば、幽霊や妖怪といった類――に話しかけられても、無視をしなければならない。そうしなければ、最悪命にかかわるぞ、と祖父から脅されもした。
――なんてもろいしきたりだ。
はたから見れば、良太郎は一人でしゃべって、一人で歩いている。
人間じゃないものを見るのは、おまえ才能だ。と、祖父はいつも言う。けれど、そういったものには絶対に関わらないこと、なぜなら、必ずしも良いものとは限らないから、とも言う。
宗谷が良いものかどうかは、まだまだ修行不足の良太郎に判断はつかなかった。だが今は、悪いものではないと信じるほかない。
良太郎は青陵通り――通称、地獄坂と呼ばれる坂道をひたすらのぼっていった。
「こっちの層ではわたしに気づくひとが全然いないから、困っていたの。りょうたろうはすごいね」
いつの間にか隣に並んで歩く宗谷が、にっこり笑って、良太郎の自尊心をくすぐってくる。
――どうして俺の純情な心を揺さぶるんだ。
それでも神社へ送り届けるまで、なるべく関わらないように努めて、足早に宗谷の前を歩く。慌てて追いかけてくる足音が健気だった。
「ほ、ほんとうは、オサキトウガとトウガモリは離れちゃいけないんだけど、今日は特別だから、わ、わたしひとりで町をぶらぶらしてたの。そうしたら、ちょっと、迷子になってしまって」
「へー」
平静を装って黙々と歩く。あともう一息で稲荷神社の石柱が見えてくるはずだ。
聞き慣れない単語が気にならない、とは言わないが、聞くわけにはいかなかった。
「ウ、ウカ様がっ……、異層の往来規定を、すこーしゆるめてくださったから、こ、こちら側に、よく来るのだけど、やっぱり……っ、眷属のみんなに心配かけるし……あ、りょうたろう、待って……!」
しゃべりながら追いかけてくる宗谷が、とうとう息を切らして立ち止まった。そうとう早足だったんだろうかと、ほんの少し申し訳ない気持ちに胸がキリッと痛んだ。
彼女が隣に並ぶまで、良太郎は黙って待っていることにした。
「宗谷、そこが稲荷神社だ」
くすんで灰色がかった鳥居を指で示す。草がぼうぼう生えた、古びた神社。すぐそばにくずれた石柱の一部が転がっていた。たしかに「梅ノ木稲荷神社」と石に刻まれている。
「よかった! ありがとう、りょうたろう!」
肩で息をしていた宗谷が元気を取り戻し、あぜ道から雑草だらけの神社の敷地を駆けていく。髪の毛と同じ茜色の尻尾が楽しそうに揺れているのを見ていると、良太郎の胸の重みがすうっと取れていく気がした。
ふと、鳥居の前に誰かが立っていることに気付いた。
宗谷がその人物に手を振る。
「那智ー!」
背の高い、赤毛の男がふいと顔を向けてきた。驚くことに、男にも赤毛の尻尾が生えている。身なりも着物姿で――宗谷と違って黒装束ではあるが――、どうやら腰に差してあるのは日本刀のようだ。
良太郎は情けなく口をポカンとあけて、ふたつの尻尾を眺めた。
「宗谷様、心配したんですよ。三つ刻までにはここに戻るといったでしょう」
腰に手を当て、こどもを叱るように男がぴしゃりと言った。
会話からして、男はどうやら宗谷の部下らしい。けれど、たしなめている様子からすると、発言力がある人物なのだろうと、察しがついた。
――ちょっと偉そうでムカつく。
「ごめんなさい。すこし見て回りたくて……でも、りょうたろうが親切にしてくれたの」
宗谷がぱっと顔を向けてきて、良太郎の心臓がドキッと跳ね上がった。むろん、嬉しさからではない。
――マジかよ、こっちに振るなよ!
すぐに立ち去らなかったことを悔いて、男の鋭い視線を一身に浴びる良太郎は小さく会釈した。
この小心者、と強気の自分が頭の中で叱責する。
「りょうたろうは、わたしたちが見えるのよ!」
それ以上しゃべらないでくれ、と胸のうちで呪文のように何度も唱えた。
「そこの、少年」
低く鋭い声が、首筋に突き立てた刃に思えた。ぎくりと全身が強張るのがわかる。
「……当主を無事に連れてきてくれたこと、深く感謝する。礼はいずれ――刻限が迫っているので、われわれはこれで失礼する」
無愛想に言って、男はつんと視線を外した。宗谷は大きく手を振り、今まで以上の笑顔を恩人に向ける。
「りょーたろー! ありがとうー! またねーっ!」
やはりその笑顔は特別可愛らしかった。
こんな笑顔が返ってくるならば、助けた甲斐もあろう。
鳥居をくぐると、ふたりは幻のように消えてしまった。いままで隣にいたのが嘘のように、あっという間の別れだった。
「おいおい……お稲荷さんに会ったの、はじめてだぜ……」
ぼんやりひとりごちて、良太郎は我が家へ向けて歩き出した。