表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

『全米が泣いた』の定義

 裁判二日目。今日は朝方から雨がしとしとと降り始め、お昼をまわったあたりから本格的に大雨になり始めた。裁判が始まるこの直前、雨の音と、検察部のひそひそ話と、傍聴人の控えめな雑談だけが、法廷に響いている。

 そして、裁判長が入廷し、起立する面々。

 ――開廷だ。


「さて、昨日言った通り、本日は『アメリカ人が泣いたのか』および、『全米は割と簡単に泣かない』、そして『全米が泣いた』の定義について話し合ってもらう。ではまず検察部、主張を」


 裁判長は特に挨拶を交わすわけでもなく、検察部にそう告げる。これもいつも通りで、岡崎は、はい、と端的に答えて起立する。極めて事務的な対応とも取れるこの言動が、この法廷に無駄な緊張感を生み出していることに、彼らは気付いているのだろうか。


「まず『全米が泣いた』の定義について。『全米が泣いた』のそれぞれの意味についてお話したいと思います。全米とは即ち、全てのアメリカ人、つまりアメリカの人口――約3億人のことを指しています。ここで、3億という膨大な数の人間と分かりやすくするために、私達の才盤高校と比較してみたいと思います。才盤高校の生徒数は、新聞部が4月に発行した校内新聞に載っていましたので、ここから引用させていただきたいと思います。生徒数は720人。アメリカの人口はここ、才盤高校のおよそ416667倍になるということです。多すぎてあまり意味が分かりませんが、アメリカの人口、3億という数字は膨大であるということは分かっていただけるかと。そして次に『全米が泣いた』の泣いた、についてお話したいと思いますが、これは涙を流すことと定義したいと思います。つまり『全米が泣いた』の意味は、そのまま捉えれば、3億の人間が涙を流した、という意味になります」


 そこで岡崎は一呼吸おいて、くくっと、堪えきれないといった風に笑った。


「――あり得ません」

「異議あり!」


 俺は裁判長に向かって発するとともに立ち上がる。


「今の検察部の発言はなんら根拠がありません!」

「今から言うんです」


 つまらなそうに言って、再び資料に目を落とす。


「では弁護部、そして原告にお聞きしますが、あなた方は『全米が泣いた』という謳い文句を、そのまますべてのアメリカ人が泣いたとするべきという主張をしています。これはそのまま『全米が泣いた』の定義と議論が被るわけですから、もちろんそちらは、3億人の人間が涙を流した、という立場をとるわけですよね」


 俺は岡崎を睨みつけて答える。


「その通りですが、なにか?」

「問題になっている映画のアメリカの興行収入は6億ドル。ちなみに興行収入とは映画館での入場料から得られる売上の合計のことです。アメリカの映画の入場料は平均で約8ドル。単純計算すると七千五百万人のアメリカ人がこの映画を見たことになりますが――おかしな話です。弁護部にお聞きしますが、どこがおかしかったのでしょうか。もしよかったらお答えいただけますか?」

「……答える義務を有しません」

「そうですか、ならば私から言わせて頂きます。『全米が泣いた』を全てのアメリカ人が泣いた、とするのであれば、アメリカ人3億人が泣く必要がある、つまり3億人がこの映画を見ていないと駄目というわけになりますが、この映画を見た人間が全てのアメリカ、つまりアメリカの人口3億人を下回っており、これはあきらかな矛盾と言えます。だとするのであれば『全米が泣いた』とは一体何なのか――これは単なる誇張表現に過ぎません。なにを誇張した表現なのか、それはおそらく『全米が泣いた』の全米の部分を、映画を見たすべてのアメリカ人とし、泣いたの部分を、なにかを感じ取った、ということだと思われます――検察部の主張は以上です」


 岡崎が言い終わると傍聴席から、おおーっという歓声があがった。拍手まで聞こえてくる始末だ。初めて裁判を傍聴した一年生か、それとも検察部と親しくしている新聞部か、はたまた検察部部員かもしれない。


「静粛に――次に弁護部の主張を」


 裁判長がぴりゃりと言い放つと、法廷内は再び静けさを取り戻した。そして、はいと返事をして、俺は立ち上がる。


「弁護部は『全米が泣いた』というものを、全てのアメリカ人が泣いた、という定義だと主張させていただきます。まず、先程検察部が仰ったように、この映画を見た人間の数はアメリカ国内において3億人を下回っており、その点においては確かに矛盾と言えますが、この主張は論点を正しく理解していない、勘違いの末の結論と言えます」


 その瞬間、岡崎の端正に整った顔が、少しだけ歪む。それに優越感を覚えながら、俺は続けた。


「まず、今回問題になっている映画は、ノンフィクションだということを思い出して下さい。実際に起こった海難事故であり、1500人もの乗客乗員の方たちが海に投げ出され、凍死や心臓麻痺などにより亡くなられました。これは今なお、語り継がれている史上最悪規模の事故です。そしてこの事故は、映画やドキュメンタリー、そして小説にもなっています。つまり、私がなにを言いたいのかと言うと――『全米が泣いた』というものは、ただ今回問題になっている映画を見ただけの人間を指しているわけではなく、タイタニック沈没の事故や、映画、小説、ドキュメンタリー、それらタイタニックに関することで泣いた人のこと、というわけなのです」


 そう、それならば3億人という数字をクリアできる。検察部の指摘した矛盾は、矛盾ではなくなる。

 ここで俺の主張は終わりで、自らのイスに座ってエースの方を見る。


「検察部、なにか意見はあるか?」


 岡崎は腕組をして、さらに足まで組んで見下すようにこちらに視線を送る。

 この裁判は、もはや裁判と言えるものではなく、討論に近い性質を持っている。お互いが自らの意見を主張し、それに対し反論をするというスタイルだからだ。しかしそうなってくると、さきほど岡崎がしたように矛盾を突いて完璧に論破する以外、この討論を終わらす術は無くなってくる。そこで裁判長の出番だ。弁護部、検察部両方の主張や反論を聞き、どちらがより論理的に主張出来ているか、また、どちらが優勢に議論を進めているかなどによって判決が下される。

 だからこそ、完璧に論破したと思っていた岡崎は、イラついているのだ。

 無駄に裁判を長引かせている、そう思っているのだろう。

 それは同時に、自分の主張が受け入れられると信じ込んでいる彼女の自信とも言える。


「……弁護部にお聞きしますが、タイタニック号沈没の事故や、映画、小説、ドキュメンタリー、それらタイタニック号に関連する事柄で3億人のアメリカ人が泣いたと主張されているわけですよね」

「そうです」

「この3億人というのは、いつの3億人になるのでしょうか」

「質問の意味が不明です」


 背もたれにどっかりと体を預けて、見るからに面倒くさそうな態度をとりながら、岡崎は言う。


「一から十まで説明しないといけないというのであれば、説明します。そもそもタイタニック号沈没は今から100年以上前に起こった事故であり、このタイタニック号沈没のニュースを当時聞いて泣いたアメリカ人は、ほとんど生きていないでしょう。また、映画や小説やドキュメンタリーもそれと同じことが言えます」

「…………」

「つまり、さきほどの弁護部の主張は、ただ単に我々検察部の指摘した矛盾――映画を見た人間の数が3億を下回っている――この矛盾を解消しただけ、と私は捉えています。確かにアメリカは3億人の人口を抱えており、全米→3億人という式が成り立ちますが、3億人→全米という式は成り立ちません。ともすれば、さきほどの弁護部の主張は、論点を正しく理解してない、勘違いの末の結論と言えるのでは?」


 言い終わり、満足そうな表情をしている岡崎。法廷内も、俺の言葉をそのまま使った岡崎の反論に、どよめきがうまれいてた。

 しかし、その程度で引くわけにはいかない。こちらの主張は、決して間違ってなどいないのだから。


「いまいち意味が分かりませんね。私が言った言葉を使ってわざわざ言い返すようなことをするよりも、もっと分かり易く言ってください」

「ですから、タイタニック号沈没は今から100年以上も昔に起こった事故であり、タイタニックに関連するもので泣いた人間の全員が全員生きているわけではないんです。死んだ人間は、いくら生前アメリカ人であったとしても、死後アメリカ人ではなくなります。そしてさらに、今までタイタニックに関連する事柄で泣いた人間が3億人だとするのであれば、それはただの合計であって、すべてのアメリカ人とは言えません。言いかえるとすれば、タイタニック関連で泣いた人間の数、というだけです」

「おかしな話です。死んだ人間は確かにアメリカ人ではないが、アメリカ人であった頃にタイタニック関連で泣いたというのであれば、それは全米と言えます」

「ですね。それは確かにそうです。では――新しく生まれたアメリカ人はどうなりますか?」

「…………」


 予想通りの展開。

 岡崎が新しく生まれたアメリカ人の部分を攻めてくるのは、わかっていたことだ。


「これも意味が不明ですか? それともただのだんまりですか? まあ一応説明させていただきますけど。新しく生まれたアメリカ人、残念ながらアメリカ人が1日に何人生まれるのかは知りませんが、アメリカは日本とは違って人口減少の国ではありませんし、そしてさらに3億人という人口を有している超大国といっても過言ではない国です。わずか1日であろうとも多くのアメリカ人が新しく生まれているということになります。つまり、人口が増え続けているアメリカで、常に『全米が泣いた』を主張するために、この新しく生まれたアメリカ人である赤子たちも、泣く必要があるということになります。そう、たった今生まれた赤子でさえ、そちらの主張している『全米が泣いた』を事実とするためには、タイタニック関連の事柄で泣く必要があるのです。お分かり頂けるでしょうが、それは現実的に考えて不可能です」

「――それは少し違いますね」


 岡崎の目をまっすぐに捉えて、俺は言う。


「『全米が泣いた』というのは見てもらったらわかるように過去形です。つまり、全米が泣いた事がある、と理解していただくと分かり易いと思います。新しく生まれた赤子が泣く必要はどこにもありません」

「ふ、なにを言うのかと思えばそんなことですか。確かに、その解釈の仕方であれば、アメリカ人が生まれる度に、その赤子が泣く必要は無くなりますが、それでも赤子が泣く必要はあるということでもあります。冷静になって考えてください、赤子がタイタニック関連のことで泣くでしょうか?」

「その可能性がないとは言い切れません」

「…………」


 今度は岡崎が黙り込む。眉間に手を当てて下を向き、まるで怒りを堪えているような仕草である。

 そして顔を上げたかと思うと、俺の方を見ることなく裁判長の方を見る。


「検察部はもうけっこうです。評決を、お願いします」


 それを受けた裁判長がこちらを見る。


「弁護部は、まだなにか意見はあるか?」

「いえ、こちらもこれでけっこう。評決を」

「……うむ。1時間ほど休廷とし、その後、判決を言い渡す。解散」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ