狡猾な兎は日だまりの里にいる。
女性、それも美少女にカテゴライズされる相手に迫られるというのはある種の夢である。
しかしながら、俺も一人の男児であり、ささやかながらプライドもある。
だから、衆人環視のこの教室で為す術もなくキスを迫られているのは嬉しくもあり、切なくもーー
「良い香りがしますわね」
俺の喉を撫で上げながら美少女が目を細める。
薄い唇は妖艶に紅く柔らかそうだ。
「ふふっ。頂きます」
迫る美少女の唇を見つめながら、俺は思い返していた。
どうしてこうなった?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝、入学式と同じく三人で学校にきた俺たちは廊下に張り出されているクラス分けを見上げた。
「みんな同じクラスね」
佐奈が呟いた通り俺と佐奈、佐也香の三人は揃って一組だ。
これなら佐也香のフォローも完璧にこなせるだろう。その点では最高の布陣といえる。
「早く教室に行くぞ」
佐奈と佐也香を促して一組の教室に向かう。
今日中に生徒会長と副会長の写真を手に入れ、聞き込み調査をするのだ。入学式にできた佐也香ファンクラブの対処も忘れてはならない。
やることは山積みだ。
教室では既に半数近くの生徒が新たな友人を増やすべく交流をはかっていた。
同級生の視線が新たな仲間の姿を見ようと一斉に俺達へと降り注ぐ。
「え、双子?」
「新入生代表だよな、あれ」
「どっちが一昨日の人だ?」
「……さぁ?」
囁き合う同級生たち。
俺は佐奈と視線を交差させる。
(なによ、この気まずさは)
と、佐奈の瞳が語っている。
俺の知った事か。
(どうするのよ。教室に入るタイミング失っちゃったけど)
さり気なく佐奈が教室を目で示す。
俺も同じく教室の入り口で足が止まっているのだ。良い案の持ち合わせがあるはずもない。
(あんたの取り柄は空気が読めないことでしょ。何とかしなさいよ)
厨二病は卒業したと言ってるだろう。
俺と佐奈が視線でやり取りしている間に佐也香は忍び足で教室の隅に隠れた。
そのまま俺たちを囮に、気配を消した佐也香は席に着く。我が分身ながら要領の良い奴だ。
佐也香の姿に感心していると背後に人が立つ気配を感じた。
振り返ると見知らぬ女子生徒が廊下の窓から射し込む清々しい朝日を受けて佇んでいた。
その涼やかな立ち姿に思わず息をのむ。
彼女が柔らかく微笑むと周囲の空気が澄み渡った。そして、白椿のような美しく白い両手を優美な所作で俺の両頬に当てる。
心を込めて作った雪兎が壊れないように包みこむ、そんなやさしい動作だった。
しかし、その瞬間シルバーフレームの細いメガネの奥で彼女の赤茶色の瞳が光った気がした。
「美味しそう」
「……え?」
いきなり不穏な一言が耳に届く。
発言者である目の前の女子生徒は庭先で可憐な花を愛でる無垢な童女の顔で俺を見つめていた。
横目で佐奈に助けを求めるが、彼女は女子生徒の雰囲気に飲まれているのか茫然としたままだ。余程の事が起きない限りは使い物にならないだろう。
「一昨日から想っておりましたわ」
女子生徒が春風みたいな暖かい吐息で告げる。
一昨日、ということは入学式の日か。
「多分、人違いだ」
入学式で目立ったのは佐也香だからな。
恐らく、この女子生徒はファンクラブの人間だろう。
「人違いなどではありませんわ。見分けはついておりますもの」
女子生徒はそう言ってちらりと佐也香を見る。
佐也香は我関せずとばかりに鞄を机の横に引っかけているところだ。
「あぁ、その生意気そうな目元。……いじめたく、なりますわ」
なんかすごいこと言われた!?
「ちょっと待て、あんたギャップが凄いぞ」
「獲物を狩るときには無害を装うものですわ。それと、あんた、ではなく兎里緑と申します」
そんなサバイバル知識に興味はない。というか、名前まで無害を装ってやがる。
全てを慈しむ暖かい微笑をたたえた兎里は俺の頬から両手を離した。
その隙を逃さず兎里から距離を取ろうとした俺だったが、彼女に腕を掴まれた。
合気道の技を応用でもしているのか、巧みに俺の重心を操った兎里は近くの机に俺を仰向けに組み敷いた。
余りにも見事な技を見せつけられた同級生達が感嘆の声を漏らし、拍手する。
ーー助けろよ。
「お使いの歯磨き粉の香りはミントでしょうか?」
顔を寄せながら兎里が囁き落とす台詞に背筋が冷える。
彼女の視線は真っ直ぐに俺の唇に注がれていた。
このままだと喰われる。性的に喰われる!
「ミントも良いのですが、柑橘系の香りの方がきっと似合いますわ」
だまれ、匂いフェチ。
「今度、プレゼントしますわね」
大きなお世話だ。
「ふふっ。頂きます」
兎里の紅い唇が近づく。
彼女に押さえつけられて身動き一つ出来やしない。
もはやこれまでか。バイバイ、俺の純情。じゃあな、俺のファーストキス。
「ダメぇえぇぇ!」
刹那に悲鳴混じりの制止が響く。
俺は組み敷かれていた机ごとひっくり返されて床を転がった。
しこたま打った頭を片手で押さえながら体を起こし、教室を見回して何が起きたのかを確かめる。
佐奈が真っ赤な顔で兎里を睨んでいた。
「な、何考えてるのよ。あんた!?」
教室が震える程の大声で佐奈が怒鳴る。
彼女の剣幕に兎里は眉一つ動かさず、たおやかに佇んでいた。
「朝食を頂こうかと、思いまして」
意味深に俺へ横目を流す兎里。
目があった途端に俺の全身を寒気が走る。
兎じゃなくて蛇だろう、この女。
それに朝食ってなんだ。昼には何を食べる気だ。
兎里は視線を戻して佐奈と向き合う。
「ところで、あなたは?」
「棚宮佐奈、こいつの幼なじみよ」
指差すな、視線が集まるだろうが。
どさくさに紛れて逃げ出す計画がおかげさまで潰れたぞ。
「つまり貴女は、数年間ただ指をくわえて見ているだけで明確に好意を示す勇気もなく今の立場に甘んじていたのですわね?」
窓辺で寝そべる子猫に話しかけるような声色で毒を吐く蛇、じゃない兎里。
「ーーっ!?」
「ただの幼なじみである貴女が人の恋路を邪魔しないでくださいまし」
必死に言葉を探す佐奈を兎里が待つはずもない。
重力を感じさせない軽い動作で兎里は佐奈に背を向ける。
後ずさる俺を意に返さず兎里は一歩を踏み出す。水面に水滴が落ちる程度の小さな足音が一歩、また一歩と近づいてくる。
まずい。喰われる。しゃぶり尽くされる。
「美味しく頂きますわね」
舌なめずりすんなぁ!
背中に硬い感触を感じて慌てて後ろを確認する。
机だった。その机の持ち主、佐也香が俺を見慣れた無表情に見下ろしている。
「浮気ですか?」
「断じて違う!」
「本気ですか?」
「全く違う!!」
どう見ても一方的に狙われているだろうが!!
静かな足音がすぐ傍で止まった。
「妹さん、宗也さんを頂きますわね」
兎里の腕が俺の首に回される寸前、佐也香がその手首を掴んだ。
兎里が初めて驚きを見せる。
「宗也さんは渡しません」
佐也香がきっぱりと宣言した。
「あらあら、宗也さんは貴女の物ではないでしょう?」
「あなたは私に対して『頂きますわね』と断りを入れました。宗也さんは私の所有物だと思ったからですね?」
穏やかな微笑を浮かべる兎里に佐也香は素早く切り返す。
「一応の礼儀として、ご家族に声をお掛けしたにすぎませんわ」
「一応の礼儀すら蔑ろにするんですか?」
佐也香と兎里、二人の視線がぶつかり、火花が散る。
当事者であるはずの俺に存在感がないのは何故だろう。
「……負けましたわ」
しばし目で牽制し会っていた二人だったが、先に折れたのは兎里だった。
「あの入学式を成功に収めただけはありますわ。頭の回転が早くていらっしゃる」
俺に抱きつこうとしていた腕を引き戻す兎里は悔しさを一切見せない。未だに春の日だまりを思わせる微笑みを浮かべている。
「今回は譲りましょう。貴女には貸しがありますもの」
貞操の危機が去ったのを感じ取り、俺は立ち上がりながら聞き返す。
「……貸しって何のことだ?」
「あら、ご存知ありませんのね」
微笑を苦笑に変え、即座に愛想笑いへと切り替えた兎里はその場で優雅に一礼し、
「わたくし、兎里緑は」
ーー佐也香ファンクラブ会長ですわ、と自己紹介した。




