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24時間で10億円を使い切って死ぬ話

作者: 橘 酒乱
掲載日:2026/08/18

「サインを。これで10億円はあなたの口座に入ります」


黒いスーツの男が差し出した契約書に、俺は笑いを噛み殺しながらペンを走らせた。


条件は一つ。「24時間後に心不全で死亡すること」。


あと何十年生きようが、会社と自宅を往復して、すり減るだけの人生だ。10億円なんて大金、拝めるはずもない。だったら、残りの1日を「本物の大富豪」として派手に使い切って死んでやる。


たった1日で10億円。時給にしたら4000万円以上だ。生涯年収を遥かに超える大金を、俺はたった24時間で使い切る「伝説の男」になってやる。


午前10時。俺のスマホに、10桁の振込を告げた。


「さあ、何から始めようか」



まずは見た目だ。


迎車専用の黒塗りのヴェルファイアを呼びつけ、後部座席にドカッと乗り込む。向かうのは、某老舗百貨店だ。


Tシャツのまま大股で歩き、最高峰のイタリア製ハイブランドのインショップへ飛び込む。


場違いな俺の格好に、一瞬、店員の目が警戒に光った。だが、俺がスマホの画面(10億円の残高)をちらつかせ、「ここで一番高くて、今すぐ着て帰れるスーツを仕立てろ」と告げると、白髪交じりの初老の店員は、一瞬だけ目を見張ったが、すぐにうやうやしく奥のVIPルームへと俺を誘った。


「お客様、こちらは最高級のシルクと超極細ウールを使用した、1着100万円のモデルでございます。当店の既製服の中でも、間違いなく最高峰の一着でございます」


俺は、ハンガーにかかったその布切れを指先で弾く。


「ふーん……たったの100万か。安いな」


「え?」


老店員の完璧なポーカーフェイスが、今度こそ完全に崩れた。


「いや、なんでもない。1分が惜しいんだ。これにシャツと革靴、それからネクタイとチーフも全部お前が選べ。今すぐここで着替えさせろ」


「か、かしこまりました……!」


「お客様、裾上げが必要ですが、いかが致しましょうか?」


「裾上げなんて待てるか。一括で買ってやるんだ。今すぐここで縫い上げろ!」


およそ10分後。


25万円のパナマシルクのシャツ、60万円のクロコダイル革のローファー、12万円のシルクネクタイ、そして3万5000円のポケットチーフ。


全身に200万円以上を纏った俺がフィッティングルームから現れた時、店員たちは一斉に頭を下げた。


100万、200万の金が、まるで小銭のように消えていく。


そのスピード感が、俺の脳のストッパーを完全に破壊していた。





次に向かうのは、道路を挟んで向かい側のビル。


ここは県内一の腕時計の聖地だ。


1階の重厚な自動ドアを潜ると、世界の名門ブランドがずらりと並び、静謐せいひつな空気が漂っていた。


俺は中央のサービスカウンターへ歩み寄る。


「一番高くて、今すぐ俺の腕に巻ける現物を買いたい。数千万でも億でもいい。その場で全額一括決済だ」


応対したコンシェルジュの目が、俺のまとう空気と、その言葉の異常な本気度に、鋭く見開かれた。


コンシェルジュの案内で、俺は最高峰ブランドのサロンへ通された。高級時計に疎い俺でも、その名前だけは知っている。時計界の絶対的な頂点だ。


VIP席に座ると、白手袋をはめたスタッフが、厳重な金庫から一つのケースを運んできた。


ベロアのクッションの上に鎮座していたのは、ずっしりとした18Kの輝きを放つ、文字盤に複雑なカレンダーが刻まれたモデルだった。


「お客様、こちらは『パーペチュアル・カレンダー(永久カレンダー)』を搭載したグランド・コンプリケーション(超複雑時計)でございます。店頭で現物をご案内できること自体が奇跡的な、当店でも最高峰の一本でございます。お値段は、税込みで5500万円でございます」


5500万。


一般的なサラリーマンの生涯年収の何分の一かが、この小さな塊に詰まっている。


かつての俺なら、触ることすら恐れ多かったはずだ。


「ふん……いいな。これにしよう」


俺は左腕を差し出し、スーツの袖をガバッと捲り上げた。


「おい、今すぐここで俺の腕に巻いてくれ。箱も保証書も郵送でいい、中身だけ今すぐ持っていく」


「え……? 5500万円でございますが、今すぐ、こちらを……?」


店員の顔から余裕が消え、声が上ずった。


「耳が悪いのか? そうしろと言っているんだ。時間がもったいない」


俺はスマホをテーブルに叩きつけるように置いた。画面に表示された残高が、店のラグジュアリーな照明に照らされてギラギラと光っている。


「か、かしこまりました……! すぐに手続きを進めます!」


数分後、俺の左手首には、ずっしりとしたゴールドの重みと、カチ、カチ、と一秒を正確に刻む、5500万円が巻き付いた。


全身で5700万円オーバー。最高の気分だ。


ビルのガラス扉を蹴破るようにして駅のロータリーに出た時、太陽に照らされた俺の腕は、通行人の誰もが二度見するほどの、暴力的で圧倒的な輝きを放っていた。


金があるだけで、通行人すべてが俺の引き立て役に見える。





俺はその足で、駅の真上にそびえ立つ最高級ホテルへ向かった。


エントランスを潜ると、磨き上げられた大理石の床に、革靴の音が硬く響く。


フロントカウンターへ歩み寄り、俺は用件だけを叩きつけた。


「一番高いスイートルームを開けろ」


対応した女性スタッフは、一瞬たじろぎながらも、すぐにプロの笑みを貼り付けた。


「お客様、大変申し訳ございません。当ホテル最上階のプレジデンシャルスイートは、本日満室となっておりまして……」


「予約で埋まってるってことか」


「はい。既にご予約済みのお客様がいらっしゃいまして」


「その客に、200万払うと伝えろ」


スタッフの顔が、明らかに強張った。


「そ、そのようなことは、規定上……」


「断るなら、その客の連絡先を寄越せ。俺が直接交渉してやる」


「し、少々お待ちください……!」


スタッフは震える手で電話を取り、支配人らしき人物を呼び出した。


やってきた中年の支配人は、俺の全身――特に左腕の腕時計に、一瞬だけ視線を走らせた。


その一瞬で、値踏みが終わったのが分かった。


「……お客様、大変失礼いたしました。ご滞在中のお客様とは、私どもで交渉いたします。」


「200万くらいでいいか?」


「……それだけあれば、十分すぎるほどかと」


支配人の声が、わずかに掠れた。


数十分後。


俺はエレベーターに乗り込み、最上階へと運ばれていく。


支配人自らの案内で辿り着いた部屋の扉が開いた瞬間、視界が一気に開けた。


地上200メートル以上の最上階スイートルーム。


広大なリビングと、全面ガラス張りの窓から、街並みが一望できる。


「次は飯だ。ミシュラン三ツ星の寿司屋に電話しろ。『3000万払うから、店を臨時休業にして今すぐ最高級の食材を全部持ってこの部屋に出張してこい』とな」


3000万円。通常の貸し切りの10倍以上の、常軌を逸した金額。


相手に考える隙を与えず、一発で「はい」と言わせるための札束の暴力だ。


わずか1時間後、部屋にはミシュラン三ツ星の高級寿司の職人が、本マグロや最高級のウニ、1本600万円のロマネ・コンティを携えて来た。


目の前で握られる寿司を口に放り込み、ヴィンテージワインで流し込む。


「……美味い。美味すぎるな、ハハハ!」


脳汁がドバドバと溢れ出る。これだ、俺が欲しかったのはこの全能感だ。最高級の美味いものも、最高級の空間も、すべて俺の足元にある感覚。


午後2時過ぎ。俺の暴走は止まらない。最高級の肉を取り扱う星付きレストランも呼び寄せ、給仕たちを顎で使った。大富豪の気分は最高だった。


満腹になった俺は、ソファに深く腰掛けた。5500万円の腕時計の秒針が刻む音が、心地よいBGMのように鳴っている。


(くそ、まだ喰いたいものは山ほどあるのに、胃袋は一つしかねえ。金があっても、これ以上は詰め込めねえ)


カチ、コチ、カチ、コチ。


秒針の音が、急に耳障りなほど大きく聞こえ始めた。


ふと、頭の芯が冷えるような感覚がよぎる。


俺は今、何をやっているんだ?


あと十数時間で消えてなくなる俺の命に、高級食材をどれだけ詰め込んだところで――何になる?


ふと視線を落とすと、真っ白なシーツの敷かれたベッドが、やけに寝心地の良さそうな棺桶に見えた。


このままここにいたら、頭がどうにかなりそうだった。


俺は上着を引っ掛けて、スイートルームを飛び出した。


エレベーターで一階まで下り、ロビーを抜けて、外の空気を吸う。


夕方には早い、気だるい午後の日差しが、やけに眩しく感じた。


当てもなく歩く。


信号待ちで、ふと、スマホの画面を点けた。


連絡先の一覧を、上から下へなぞる。


止まったのは、ずっと下の方――「母」という、たった一文字の登録名だった。


最後に電話をしたのがいつだったか、思い出せない。


正月の挨拶すら、ここ数年はメッセージ一本で済ませてきた。


(……何を今さら)


自分でも、馬鹿げていると思う。


だが、気づけば通話ボタンを押していた。


コール音が鳴る。


出ないでくれ、と思う自分と、出てほしい、と願う自分が、同時に胸の中でせめぎ合っていた。


「……もしもし?」


その声を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。


「あ……俺。久しぶり」


「え? ちょっと、急にどうしたの。何かあった?」


母の声に、隠しきれない戸惑いが滲む。


無理もない。何年も、こちらから連絡した記憶がない。


「いや、別に……ちょっと、声が聞きたくなっただけ」


自分で言って、白々しいと思った。


(俺、明日にはもう死ぬんだ)


(今まで、ろくに顔も見せなくて、ごめん)


(育ててくれて、ありがとう)


喉元まで出かかった言葉は、どれも音にならなかった。


「……そう。元気ならいいけど。ちゃんとご飯食べてるの? 体壊してない?」


いつも通りの、小言みたいな心配。


10億円あれば、世界中のどんな高級料理だって、俺の目の前に並べることができる。


なのに――「ちゃんとご飯食べてるの」という、たった一言にすら、まともに答えられなかった。


「……食べてるよ」


「そう。ならいいけど」


会話が、途切れる。


沈黙が、痛いほど長く感じた。


「……あの、さ」


「うん?」


母の声が、わずかに身構えたのが分かった。


言え。


今しかない。


あと十数時間しかないんだ。


――なのに。


「……いや。なんでもない。じゃあ、また」


「え、ちょっと――」


俺は、逃げるように通話を切った。


スマホの画面が、暗くなる。


静かになった手のひらの中で、それだけがやけに重かった。


10億円あれば、なんでも思い通りだと思っていた。


けれど、母に「ありがとう」の一言すら、告げることはできなかった。


(——時間が、足りない)


金は、まだ有り余るほどある。


なのに、勇気を出す時間が、俺には残っていない。


――忘れよう。今夜は、派手に騒いで、全部忘れてやる。


その前に、俺は車のショールームへ向かった。


30万円の革靴が、硬い足音を立ててショールームの床を叩く。


ガラス張りの店内には、眩いばかりのボディが並んでいる。


正直、車なんて欲しくもなかった。


それでも、視界に飛び込んできた一台の赤いスーパーカーに、俺は吸い寄せられるように歩み寄った。


「これ、今すぐ持って帰れるか」


対応に出た若いスタッフは、一瞬、嬉しそうに顔を輝かせた。


「お客様、こちら弊社のフラッグシップモデルでして、お値段は3億5000万円になります」


「値段はいくらでもいい。今すぐ、ここで金を払う。今日中に俺の手元に来るか?」


スタッフの表情が、みるみる曇っていく。


「申し訳ございません……ご購入いただけましても、登録や整備、輸送の関係で、どんなに急いでも納車までに数日はいただく形になりまして」


「金なら払う。倍払ってもいい。今すぐ用意しろ」


「お気持ちは大変ありがたいのですが……こればかりは、システム上どうにも」


その言葉に、頭の芯がカッと熱くなった。


これまで、金を積みさえすれば、どんな問題も一瞬で消えてなくなった。店員の顔色も、順番も、常識というルールも。


なのに、こんなところで――。


「大変申し訳ございません」


スタッフが深々と頭を下げる。


その姿を見ても、苛立ちは少しも収まらなかった。


金は、腐るほどある。だが、たった数日すら、今の俺には待つ時間がない。


生まれて初めて、金より先に「時間」の方が尽きるという事実に、正面からぶつかった気がした。


「くそ! だったらいらねえよ!」


叩きつけるようにそう言い捨て、俺はショールームを飛び出した。


背後で、スタッフが慌てて何か言っているのが聞こえたが、振り返らなかった。


大股で歩きながら、腹の底で燻る熱を持て余す。


――分かってる。悪いのは、あの店員じゃない。


苛立ちの正体は、もっと別のところにあった。


さっきの電話。母の、何の変哲もない小言。言えなかった言葉。握り潰したはずのそれが、まだ胸の奥にわだかまっている。


俺はスマホを取り出し、検索エンジンに指を這わせた。


行き着いたのは、繁華街で一番だと噂される高級風俗店だ。


ランキングの一番上、指名料だけで五桁を超える、店で一番人気の女の子。


電話口で、俺は要求を突きつけた。


「今日一日、その子の予約を全部買い取りたい。他の客の分は、俺が全額補償する」


電話の向こうで、スタッフが息を呑む気配がした。


「確認いたします」


数分後、折り返しの電話が鳴った。


「調整がつきました。本日の予約分と、キャンセル補償を合わせまして、280万円になります」


「…問題ない」


金の力は、こういうところでも遺憾なく発揮された。





案内された部屋は、まるでリゾートホテルの一室のようだった。


淡い間接照明。バラの花びらが浮かぶ、大理石造りの浴槽。甘い香油の匂いが、部屋いっぱいに満ちている。


「今日は、思う存分甘えてくださいね」


出迎えた女性は、柔らかく微笑んでそう言った。


その笑顔が、本物か偽物か。考えるだけ無駄だと分かっていた。


金で買った時間の中で、金で買った笑顔に包まれる。それだけのことだ。


わかっていたはずなのに。


彼女の指先が、強張った肩に触れた瞬間――柄にもなく、泣きそうになった。


誰かに優しく触れられたのが、いつ以来か思い出せなかった。


「……お兄さん、緊張してます?」


「……いや。ちょっと、疲れてるだけだ」


「そうですか」


彼女は、それ以上何も聞かなかった。ただ、静かに手を動かし続けた。


湯気の向こうで、彼女が笑う。その優しさに、俺は溺れるように身を委ねた。


――けれど。


どれだけ肌を重ねても、どれだけ甘い言葉を注がれても、胸の奥の穴は、少しも埋まらなかった。


むしろ、優しくされればされるほど、それが「金で買われたもの」だという事実が、鋭く胸に刺さってくる。


(……本当に欲しかったのは、こんなものじゃない)


「ありがとう」も、「愛情」も、「優しさ」も――金では、絶対に買えない。


そんな当たり前のことに、10億円を手にして、俺は初めて気づかされた。


俺は結局、逃げるように店を出た。


すっかり日が傾いた空に、ネオンの明かりが灯り始めている。満たされるどころか、腹の底の穴は、さっきより少しだけ大きくなった気さえした。


――もう、これ以上、何も考えたくない。


もっと騒ごう。もっと浴びよう。


何も感じなくなるまで。





午後7時。夜の街へ繰り出した俺は、高級キャバクラのVIPルームを貸し切った。


ボトルを何本も開けさせ、着飾った女の子たちに囲まれて、浴びるように酒を飲む。


令和の酒池肉林。それを実現して死んでやるつもりだった。


「すごーい!社長さん、一体何者なんですか!?」


煌びやかなドレスを纏った女の子たちが、興味津々といった様子で俺を取り囲む。


――俺は、何者なんだろうか。


残りの人生を売って、10億円を手に入れた男。それを、何と呼べばいい。


「どうしたんですか?急に黙っちゃって」


美女の一人が、俺の顔を覗き込む。


「……あ、いや。なんでもない。おい、もっと飲むぞ! そこ、飲んでねえだろ!」


俺は、無理やり声を張り上げた。


だが、一度生まれた違和感は、シャンパンの泡のように、次から次へと膨らんでいく。


目の前で笑っているこの子たちは、明日も生きている。


今日出会った人間も、これまで関わってきた人間も、みんな当たり前のように、明日を生きる。


だけど、俺は――。


「あ、明日さ、朝からみんなで旅行でも行かねえか?俺がプライベートジェット手配するから」


焦ったように、俺は言った。


女の子たちは、顔を見合わせる。


「えー、嬉しい! でも私、明日は昼からエステの予約入ってて……」


「私も、来週大学の試験あるから、ちょっと無理かも」


明日。来週。


彼女たちにとって当たり前に存在する「未来」という言葉が、俺の胸を鋭く突き刺した。


俺には、明日すらない。


どれだけ豪遊しても、何を買い漁っても、すべては「明日には、もう俺のものじゃない」という事実に突き落とされる。


金を使えば使うほど、残された時間が音を立てて削られていく――そんな恐怖だけが、腹の底に積もっていった。


「社長、次どこ行きます?」


何軒ものハシゴを繰り返し、気に入った子を見つけてはアフターに連れ出す。


後ろには美女を引き連れて、それだけで嫌でも人目を引いた。


ボトルと、何度も繰り返したシャンパンコール。気前よく配ったチップ――気づけば、たった数時間で3000万円近くが消えていた。


気づけば、日付はとっくに変わっている。


「……」


なんだか、飽きてきた。


一人になりたい。


「……そろそろ帰るわ。また今度、みんなで飲もうぜ。また来るからさ」


「ええーっ!」


最初こそ引き止められたが、俺は呼びつけたタクシーに乗り込み、ホテルへと戻った。


昼間の喧騒が嘘のように、ロビーはガランとしている。


浴びるほど飲んだアルコールを抜くように、備え付けのジャグジーとサウナ、外気浴を順番に楽しんだ。


――そして、深夜3時。


腹が、盛大に鳴った。


ルームサービスは、とっくに終わっている。


仕方なく、タクシーを走らせた。


行き先は、24時間営業の牛丼屋だ。





高校の頃、部活帰りに友達とよく通ったチェーン店。


店の自動ドアが開くと、懐かしい匂いが、鼻を抜けた。


俺はカウンターに座った。


「肉だく牛丼、大盛り」


「はい」


「ねぎだくの小鉢、半熟玉子、とん汁、お新香も」


「かしこまりました」


少し待つと、目の前に並んだ。


紅生姜を乗せて、口に運ぶ。


「……うまい」


気づけば、涙が落ちていた。


とん汁をすすり、トロッとした玉ねぎとシャキッとしたお新香をつまみ、いいタイミングで半熟玉子を丼に落としてかっこむ。


どんな握り寿司よりも、どんな高級肉よりも、美味かった。


どんな高級酒よりも、とん汁が染みた。


明日、この店で牛丼を食べる人間がいる。


仕事帰りに。


学校帰りに。


家族と。


恋人と。


一人で。


そいつらは、明日を生きる。


それだけで。


――10億円以上の価値がある。


俺は箸を置いた。


「……なんだよ、それ」


笑いながら、また涙が出た。


会計は、1700円だった。


その数字の落差に、また笑いがこみ上げた。


ホテルに戻っても、部屋に入る気にはなれなかった。


俺は夜の街を、当てもなく歩いた。


そして、巨大なビルに掲げられた屋外ビジョンを見上げた。


その瞬間。


頭の中に、一つの考えが浮かんだ。


「……そうだ」


俺はスマホを掴んだ。


電話をかける。


相手は、日本最大手の広告代理店。


深夜だろうが構わない。札束で叩き起こしてやる。


「今すぐ、スクランブル交差点を囲んでる、一番デカいビジョンを買いたい」


相手は、絶句した。


「……お客様、恐れ入りますが、あちらは複数のスポンサー様の契約が入っておりまして、一日でも……」


「今から5億円振り込む」


言葉を遮って、俺は言った。


「今契約してる連中には、通常の10倍で買い取ると伝えろ。それでも渋る奴がいたら、俺が直接頭を下げに行く」


電話の向こうが、しばらく静まり返った。


「……少々、お時間をいただけますか。各スポンサー様への確認と、放映システムの調整が必要になります」


「朝までに間に合うか?」


「……正直、綱渡りです。ですが、やってみます」


金は、簡単には動かない壁も、無理やりこじ開ける力を持っている。


それでも、一発の電話だけで即座に「はい」とはならなかった。


その事実だけが、少しだけ俺を安心させた。


――何もかもが、金だけで動くわけじゃない。


俺は夜を徹して、自分が世界に遺す「メッセージ」を考え続けた。


説教をしたいわけじゃない。偉そうなことを言いたいわけでもない。


ただ、この身を焦がすような気づきを、誰かにぶつけたかった。





午前8時。


ホテルの窓の外には、眩しい朝の光が満ちていた。


通勤バッグを抱えたサラリーマンたちが、駅へ向かって歩いている。


――かつての、俺だ。


みんな、死ぬほどつまらない人生を生きている。


そう思っていた。


でも。


あいつらには、俺が全財産を差し出しても手に入らないものがある。


今日より先。


明日。


その先の、一週間。


一か月。


一年。


十年。


俺は、手に入れられなかった。





午前9時。


俺はスクランブル交差点の中央に立っていた。


見上げた先、交差点で一番大きなビジョンが、ふっと暗転する。


次の瞬間、白地に黒の太い文字が浮かび上がった。


【今、死のうと思ってるお前へ。


聞いてくれ。


俺は今日、10億円を使い切って死ぬ。


金は、また稼げる。誰かがそう言ってた。


だが「今日」だけは、二度と取り戻せない。


俺は、それを知らずに売った。


お前が当たり前に持ってるその一日は、


俺の全財産より、価値がある。


俺が、身を挺して証明した。


だから、頼む。


生きろ。】


通行人たちが、次々と足を止めてビジョンを見上げる。


スマホを掲げ、写真を撮る者もいた。


俺は、何も言わずにそれを見上げていた。


自分の人生を切り売りして得た10億円。


もう俺の手元には、ほとんど残っていない。


でも。


たった一人でもいい。


今日、死ぬはずだった人間が。


この文字を見て、明日まで生きてくれたなら。


それでいい。





午前9時50分。


俺は、自分が育った小学校の近くにある公園へ来ていた。


昔、よく遊んだブランコに腰を下ろす。


5500万円の腕時計が、最期の時を刻んでいく。


世界は、いつも通り。新しくて、眩しい。


今の俺は、この世界を呪ってはいない。


昨日までの俺なら、この世界をつまらないと思っていた。


何も変わらない。


何も与えてくれない。


だから、金で全部変えてやろうと思った。


でも、違った。


世界がつまらなかったんじゃない。


俺が、世界を見ようとしていなかっただけだ。


午前10時。


胸の奥が、ドクンと大きく跳ねた。


俺は、ゆっくりと目を閉じた。


――俺の「明日」は、もうない。


でも。


この国のどこかで、何人かの人間が、死ぬのをやめたことを――


誰かの「明日」が残ったことを、俺は信じている。

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