第九十五話:ギルドの白旗と、黄金色の揚げ音
「……参りました。我々の、負けです」
その言葉が発せられた瞬間、実験農場の小屋の中に張り詰めていた緊張の糸が、ふつりと切れた。
目の前で深々と頭を下げているのは、ランドールの商業ギルドを取り仕切る長、ベルナルドだ。普段は恰幅の良い腹を突き出し、ふんぞり返っていると評判の男だが、今の彼はまるで空気が抜けた風船のように萎んで見えた。その顔色は悪く、目の下には濃い隈ができている。
「ソフィア・ローレンツィ夫人を筆頭に、貴族の奥方様たちからの突き上げが……もう、限界なのです。『なぜ市場にあの素晴らしい油が出回らないのか』『ギデオンが流通を阻害しているなら、夫に言いつけて商売をさせなくしてやる』と、連日連夜の抗議でして……」
ベルナルドは、脂汗をハンカチで拭いながら、悲痛な声で訴えた。
ソフィア様の「美と流行」戦略は、俺たちの予想を遥かに超える破壊力を発揮していたようだ。家庭内での妻の機嫌は、夫である商人や貴族たちの意思決定に直結する。ギルドの幹部たちは、家庭と社交界の両方から挟み撃ちにされ、完全に逃げ場を失っていたのだ。
「……分かりました、ベルナルドさん。頭を上げてください」
俺は、努めて冷静に声をかけた。ここで勝ち誇ってはいけない。目的は相手を叩き潰すことではなく、こちらの要求を通すことだ。前世のブラック企業で学んだ「Win-Win(という名の妥協点)」を探る交渉術が、脳内で高速に組み立てられる。
「ひまわり油の卸売を、商業ギルドにお任せします。ソフィア様たちへの納品も含め、全ての流通ルートを正規の手続きで行いましょう」
「お、おお! それは本当ですか!?」
ベルナルドが、地獄で仏に会ったような顔をする。彼らにとって、このドル箱商品の利権に絡めることは、喉から手が出るほど欲しい救済措置だ。
「ただし」
俺は、人差し指を立てて、彼の言葉を遮った。ここからが本番だ。
「条件があります。一つ、ひまわり油の価格は、俺たち生産者側が決めた適正価格を守ること。不当な吊り上げや、買い叩きは許しません」
「も、もちろんですとも!」
「そして、もう一つ。これが一番重要です」
俺は、隣に控えていたトーマスさんを、前に促した。彼は緊張で体を強張らせていたが、その目には強い意志が宿っていた。
「トーマスさんたち、近隣の農夫たちが作った野菜。……これらも全て、適正な価格で、ギデオンの正規ルートで買い取ってください。『肥料がどうこう』という難癖をつけて、二度と受け取り拒否をしないと、ここで誓約書を書いていただきます」
「なっ……!」
ベルナルドが言葉に詰まる。それは、彼らに圧力をかけていたバルザックの意向に、真っ向から逆らうことになるからだ。
「……無理ですか? それなら、ひまわり油の話もなかったことに。俺たちはこれからも、ソフィア様たちと直接取引を続けますが」
「ま、待ってください! やります! やらせていただきます!」
ベルナルドは、慌てて叫んだ。バルザックの不興を買う恐怖よりも、今まさに目の前にある「奥方たちの怒り」と「莫大な利益の損失」への恐怖が勝ったのだ。商人の天秤は、最後には必ず「損得」へと傾く。それを読み切っての、俺の勝利だった。
その場で羊皮紙にさらさらと誓約書が書かれ、ギルドの正式な印章が押された。
それは、ランドールの農業革命が、経済的な「壁」を乗り越え、確固たる地位を築いた瞬間だった。
◇
ギルド長が逃げるように帰った後、小屋の中は爆発的な歓声に包まれた。
「やったな、先生! これで、みんなの野菜が売れる! 生活が楽になる!」
トーマスさんが、俺の手を両手で握りしめ、涙目で上下に振る。
「見事な交渉術でしたよ、ルークス君。飴と鞭の使い分け、古狸の私でも舌を巻くほどだ」
クラウスさんが、満足げにワイン(祝杯用にと持参していた)の栓を抜く。
「へっ、あの太っちょが青い顔してペコペコ頭下げやがって。いい気味だぜ!」
ゴードンも、豪快に笑い飛ばした。
俺は、安堵の息を吐きながら、椅子に深く腰掛けた。
(これで、経済封鎖は解けた。バルザックも、ギルドという手足をもがれれば、しばらくは手出しできないはずだ)
「……ルークスさん。お疲れ様でしたわ」
エレナ様が、そっと紅茶を差し出してくれた。その笑顔は、どんな勝利の美酒よりも、疲れた心に沁み渡った。
◇
その日の夕刻。
俺たちは、この勝利を祝して、ささやかなパーティーを開くことにした。
主役はもちろん、今回の勝利の立役者である『ひまわり油』と、トーマスさんたちが丹精込めて作った『春野菜』だ。
「今日は、この二つを使って、最高に美味しい料理を作りますよ」
俺は、厨房(といっても小屋の隅のスペースだが)に立ち、腕まくりをした。
作るのは、前世の日本で愛された、野菜の甘みを最大限に引き出す料理――『かき揚げ』だ。
小麦粉と冷水をさっくりと混ぜ、そこに細切りにしたタマネギ、ニンジン、そして春の若菜を投入する。
鍋には、黄金色のひまわり油をたっぷりと注ぎ、熱する。油の温度が上がると、香ばしいナッツのような香りがふわりと立ち上った。
(……いい香りだ。この油なら、きっとカラッと揚がる)
俺は、タネを油の中に滑り込ませた。
**ジュワアアアアアッ!**
小屋の中に、小気味よい音が響き渡る。黄金色の泡がタネを包み込み、野菜の水分を飛ばしながら、旨味を閉じ込めていく。
「まあ! なんていい音!」
「これが料理の音かよ? まるで雨音みてえだな」
エレナ様やゴードンたちが、興味津々で鍋を覗き込む。
衣がきつね色になり、箸で触れてカリッとした感触が伝わってきたら、引き上げ時だ。
「さあ、揚がりましたよ。熱いうちにどうぞ」
俺は、揚げたてのかき揚げに、軽く塩を振って差し出した。
最初に手を伸ばしたのは、やはりエレナ様だった。
「いただきますわ」
彼女は、上品に、しかし熱さにふうふうと息を吹きかけながら、かき揚げを口に運んだ。
サクッ。
軽快な音が響く。
「……!」
彼女の目が、まん丸に見開かれた。
「……サクサクですわ! 噛んだ瞬間に、衣がほどけて……中のお野菜が、とっても甘くてジューシー! 油を使っているのに、全然しつこくありません! いくらでも食べられそうですわ!」
「おう、どれどれ……。うめえ! 何だこりゃ! 野菜がこんなに美味くなるのかよ!」
ゴードンも、一つを丸ごと放り込み、目を白黒させている。
トーマスさんも、一口食べて、言葉を失っていた。
「……これが、俺たちの作った野菜……。こんなに、美味いもんだったのか……」
自分たちの苦労が、最高の味となって報われた瞬間。彼の目には、またうっすらと涙が浮かんでいた。
「わんっ!」
足元では、フェンが「俺にもくれ」と尻尾を振っている。俺は、冷ましたかき揚げを少しちぎってやると、彼は嬉しそうに平らげた。
小屋の中は、黄金色の揚げ音と、笑顔と、そして「美味しい」という言葉で満たされた。
それは、俺が夢見た『温かい食卓』そのものだった。
――ピロン♪
【商業ギルドとの交渉に勝利し、農作物の公正な取引ルートを確立しました。地域の経済基盤を安定させ、多くの人々に豊かさをもたらした功績により、ボーナスが付与されます。1,500ポイントを獲得しました。】
【現在の所持ポイント:2,189pt】
(……千五百ポイント。大きい。これで、また一歩、目標に近づいた)
俺は、仲間たちの笑顔を見つめながら、静かに拳を握った。
だが、油断はできない。光が強くなれば、影もまた濃くなる。バルザックが、このまま黙って引き下がるとは思えない。
◇
その頃、城の一室。
バルザックは、報告に来た部下を追い返すと、無言で窓の外を睨みつけていた。その手には、ぐしゃぐしゃに握りつぶされた、ギルドからの「協力不可」の手紙があった。
「……小僧。どこまでも、私の邪魔をするか」
彼の目には、もはや激情の色はなかった。あるのは、氷のように冷たく、そして底知れぬ深淵のような、静かな殺意だけだった。
「経済封鎖も、役所の妨害も効かぬとなれば……。もはや、手段を選んでいる場合ではないな」
彼は、引き出しの奥から、一枚の古びた地図を取り出した。そこには、赤インクで印がつけられた、ある場所が示されていた。
それは、『蛇の舌』のさらに奥。人が決して近づいてはならないとされる、禁忌の地。
「……もはや後戻りはできぬ。ならば、地獄の底まで突き進むのみ」
彼の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
黄金色の革命を飲み込むための、どす黒い嵐が、今まさに解き放たれようとしていた。
【読者へのメッセージ】
第九十五話、お読みいただきありがとうございました!
ついに商業ギルドとの戦いに決着がつきました。ルークスの知恵と交渉術、そして仲間たちの結束がもたらした勝利の味(かき揚げ)、楽しんでいただけましたでしょうか。校閲指示に基づき、ポイント残高とバルザックの台詞を修正いたしました。
「かき揚げ、最高に美味しそう!」「ギルド長、ざまぁ!」「バルザック、ついに禁断の手に…!?」など、皆さんの感想や応援が、ルークスたちの明日を守る力になります。下の評価(☆)や感想、ブックマーク(お気に入り登録)も、ぜひよろしくお願いいたします!
勝利の祝杯も束の間、追い詰められたバルザックは、ついに禁断の領域へと手を伸ばそうとしています。『蛇の舌』の奥に眠るものとは?そして、開拓村に迫る最大の危機とは?物語は、クライマックスへと向けて加速していきます。次回も、どうぞお見逃しなく!




