第六十六話:絶望の底の反撃、炭と煙の祈り
涙は、もう涸れていた。
マキナの熱い手を握りしめ、己の無力さに打ちひしがれたあの瞬間。父アルフレッドの、無言だが何よりも力強い手のひらが俺の肩に触れた時、俺の中で凍てついていた何かが、確かに音を立てて砕け散った。絶望の底で、俺は再び立ち上がった。救世主でも、司令官でもない。ただ、愛する妹と、この村を守り抜くと決めた、一人の兄として。
「……ギデオンさん」
俺は、マキナの寝床のそばで、石像のように静かに成り行きを見守っていた寡黙な騎士に向き直った。彼の鉄仮面のような表情の下で、俺の覚醒を確かに捉えたであろう、鋭い光が揺らめいている。
「お願いがあります。今から、村中の家を回り、暖炉に残っている『炭』を、できる限り集めてきてください。それを、細かく砕いて、布袋に詰める作業を手伝っていただきたい」
「……炭、だと?」
ギデオンの低い声には、純粋な疑問の色が浮かんでいた。だが、彼はそれ以上問わなかった。俺の目が、もはやただの子供のものではないことを、彼は本能で理解している。
「承知した」
短く、しかし確かな信頼を込めて頷くと、彼は音もなく部屋を出ていった。その背中を見送り、俺は再びマキナに向き直る。熱に浮かされた寝顔は、苦しげではあったが、ほんの少しだけ、穏やかになったようにも見えた。
(待ってろ、マキナ。必ず……)
俺は、彼女の額に滲む汗を、そっと拭ってやった。
◇
父アルフレッドは、風のように森へと駆け込んでいた。
ルークスから託された、あまりにも曖昧な指示。『すーっとする、鼻が通るような匂いがする、背の高い木』。それは、まるで子供の謎かけのようだった。だが、父は疑わなかった。あの子の目は、真実を告げていた。そして、あの子が見つけ出したものが、この村を救う唯一の希望なのだと、魂が告げていた。
彼は、長年、この森と共に生きてきた。どの沢に水芭蕉が咲き、どの尾根に熊が巣を作り、どの木が雷に打たれやすいか。森の全てが、彼の庭だった。
だが、あの『匂い』を持つ木には、心当たりがない。それは、この辺境の森には存在しないはずの植物の特徴だった。
(それでも……。あの子は、俺を信じて託したんだ)
父は、足を止めなかった。己の知識と経験だけではない。森そのものに問いかけるように、五感を研ぎ澄ませ、風の匂いを嗅ぎ、鳥の声に耳を澄まし、地面に残る獣の足跡を読む。
やがて、彼は森の奥深く、普段は誰も足を踏み入れない、湿り気の多い谷間にたどり着いた。そこに、一本だけ、他の木々とは明らかに違う、異様な姿をした大木が聳え立っていた。
樹皮は白く滑らかで、空に向かって伸びる枝には、鎌のような形をした、青緑色の葉が密生している。その葉を一枚ちぎり、指で揉んでみる。
「……!」
ツン、と。鼻腔の奥を突き抜けるような、強烈な、しかしどこか清涼感のある香りが放たれた。それは、ルークスが言っていた匂いそのものだった。なぜ、こんな場所に、この一本だけが?まるで、誰かが意図的に植えたかのように。父は、その奇妙な感覚を振り払うように、手斧を握りしめた。そして、感謝と畏敬の念を込めて、その大木に、最初の一撃を振り下ろした。
◇
一方、村の中では、静かな、しかし困難な戦いが始まっていた。
ギデオンと共に炭を集めようと家々を回る俺たちを迎えたのは、固く閉ざされた扉と、窓の隙間から覗く、恐怖と敵意に満ちた村人たちの目だった。
「……何の用だ」
「暖炉の炭を、分けていただけませんか。病を、治すために必要なんです」
「炭だと?ふざけるな!お前が持ち込んだ『呪い』を、これ以上広める気か!」
扉越しに、怒声が飛ぶ。彼らにとっては、俺こそが全ての元凶。俺に協力することなど、自ら死を招く行為に等しいのだ。
「……下がっていろ」
俺の隣で、ギデオンが静かに前に出た。彼は、扉に向かって、ただ一言、低く告げた。
「辺境伯騎士団の名において、命じる。扉を開けよ。これは、領主様の命である」
その、有無を言わせぬ威圧感。そして、何よりも『領主の命』という、抗うことのできない言葉の重み。
家の中から、逡巡する気配が伝わってくる。やがて、ギィ、と重い音を立てて、扉がわずかに開かれた。
俺たちは、一軒、また一軒と、村中の家々から、燃え残った炭を集めていった。それは、物理的な重さ以上に、村人たちの疑念と恐怖という、重苦しい荷を背負う作業だった。
集めた炭は、家の前の広場で、石を使って細かく砕かれ、母さんが用意してくれた古い布袋に、次々と詰められていく。その単調な作業を、俺は一心不乱に続けた。砕かれる炭の一つ一つが、病魔を打ち砕く祈りの槌音のように、俺には聞こえた。
やがて、村中の家に行き渡るのに十分な数の、炭袋が完成した。
「母さん、これを」
俺は、まずマキナの枕元に、炭袋を置いた。そして、母さんに、他の病人の家にも配ってくれるよう、頼んだ。母さんは、俺の意図を完全には理解できていないだろう。だが、その目には、息子を信じる母親の、強い光が宿っていた。彼女は、黙って頷くと、重い炭袋を抱え、一軒、また一軒と、閉ざされた扉を叩き始めた。
◇
日が、中天に差し掛かる頃。
父さんが、森から戻ってきた。その背には、俺が求めた、あの『すーっとする匂い』を放つ木の、葉と枝が、山のように背負われている。
「……これで、いいのか」
俺は、その葉を一枚手に取り、匂いを確かめる。間違いない。この強烈な芳香。これなら、いける。
「ありがとう、父さん!最高だよ!」
俺は、父さんとギデオン、そして様子を見に来たハンスさんの力を借りて、村の広場の中央に、集めてきた葉と枝を、高く積み上げた。まるで、祭りのための巨大な篝火のようだ。
「……ルークス。一体、何を始めるつもりじゃ」
ハンスさんが、不安げに尋ねる。
「煙です。この煙が、村に溜まった『悪い空気』を、祓ってくれます」
俺は、きっぱりと答えた。そして、父さんが持っていた火打ち石を借りると、迷うことなく、その緑の山に、火を放った。
最初は、湿り気を帯びた葉がくすぶるだけだった。だが、やて炎は勢いを増し、バチバチという激しい音と共に、天を衝くほどの、濃密な白い煙となって立ち上り始めた。
風に乗って、その煙が、村全体へと広がっていく。
煙と共に、あの強烈な、しかしどこか清涼感のある香りが、村の隅々にまで満ちていく。咳き込む者、窓を閉ざす者、そして、ただ呆然と、その異様な光景を見上げる者。村は、期待と不安が入り混じった、異様な静寂に包まれた。
ゲルトの家からも、白い煙がもうもうと立ち上っているのが見えた。ゲルトの母親が、藁にもすがる思いで、家の窓を開け放ち、煙を中に招き入れているのだろう。
俺は、煙が立ち上る空を、祈るように見上げていた。
これで、打つべき手は、全て打った。
あとは、待つしかない。
俺の知識が、父さんの森の知恵が、そして、母さんの祈りが、この絶望に閉ざされた村に、夜明けをもたらしてくれることを。
その時、家の扉が開き、母さんが、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「ルークス……!マキナの、様子が……!」
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
【読者へのメッセージ】
第六十六話、お読みいただきありがとうございました!
絶望の底から、ついに始まったルークスの反撃。父の活躍、ギデオンの助力、そして村人たちの抵抗。様々な想いが交錯する中、ついに実行された「炭」と「煙」による浄化作戦。この緊迫感と、最後のマキナの容態を巡るクリフハンガーを、楽しんでいただけましたでしょうか。
「父さん、すごい木を見つけた!」「ギデオン、頼りになる!」「マキナ、どうなっちゃうの!?」など、皆さんの感想や応援が、この物語の次のページをめくる、何よりの力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
ついに実行された、ルークスの反撃策。しかし、その効果は…?そして、マキナの容態は!?物語は、息詰まる展開を迎えます。次回、どうぞお見逃しなく!




