第六十五話:父の背中と、絶望の底の灯火
涙が、止まらなかった。
司令官としての冷静さも、救世主としての自信も、全てが剥がれ落ち、そこには、ただ、愛する者を失う恐怖に怯える、無力な一人の少年がいるだけだった。
「……ごめん……」
俺の口から、声にならない声が漏れる。
「ごめんな、マキナ……。兄ちゃん、力が、ないばっかりに……」
後悔が、前世の記憶と重なり、黒い津波となって俺の心を飲み込んでいく。あの時も、そうだった。ただ無力で、ただ見ていることしかできなくて、そして、失った。もう、あんな絶望は味わいたくないと、そう誓ったはずなのに。
俺が、マキナの冷たくなり始めた手を握りしめ、嗚咽を漏らしていると。
不意に、背後に、大きな影が立った。
父さんだった。
彼は、薪割りを終えたのか、その手にはもう斧はなく、ただ黙って、俺の背中を見下ろしていた。
怒られるだろうか。泣いている暇があるなら、手を動かせと。
だが、父さんは何も言わなかった。ただ、その節くれだった、土と汗の匂いが染みついた大きな手で、俺の震える肩を、一度だけ、力強く、しかし優しく、ぽん、と叩いた。
言葉は、なかった。
だが、その手のひらから伝わってくる、不器用な温もりは、どんな慰めの言葉よりも雄弁に、俺に語りかけていた。
『お前は、一人じゃない』
その、あまりにも単純で、あまりにも力強い事実。
その温もりが、絶望の氷で覆われていた俺の心の、ほんの一点を、じんわりと溶かしていく。
俺は、しゃくりあげながら、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先に、父さんが先ほどまで割っていた、薪の山が見える。
薪。
呪いの、薪。
燃やすと、毒のガスが出る。
そのガスは、空気より重く、床に溜まる。
閉め切った部屋で、長時間吸引すると、命を蝕む。
(……待てよ)
俺の、涙で濡れた脳の片隅で、忘れかけていた前世の記憶の断片が、閃光のように瞬いた。
ブラック企業の深夜残業。疲弊しきった頭で、ぼんやりと眺めていた、テレビのドキュメンタリー番組。それは、古代文明の遺跡から発掘された、疫病の謎を解き明かす、という内容だった。
『古代の人々は、疫病が流行った際、特定の香木を焚き、その煙で家々を燻すことで、邪気を払ったと記録されています。これは、単なる迷信ではありません。香木に含まれる成分には、実際に殺菌効果や、空気中の有害物質を中和する効果があったと考えられています……』
煙。
そうだ、煙だ。
ゲルトの母親が言っていた。『甘ったるい、香の匂い』。
あれは、ジルヴァの手先が残した、痕跡。
だが、もし、あれが、ただの痕跡ではなかったとしたら?
毒の胞子を薪に付着させる際、目印として、あるいは、別の目的で、何らかの『香』を、同時に焚いていたとしたら?
いや、違う。もっと、直接的な繋がりがあるはずだ。
毒そのものが、甘い匂いを放つのか?いや、それならもっと早く気づいていたはずだ。
(……薪を、燃やす……)
俺の思考が、急速に回転を始める。
毒の胞子は、燃えることで、無味無臭の毒ガスを発生させる。
だが、もし、その化学反応の過程で、別の『何か』も、同時に発生しているとしたら?
(分解……。そうだ、分解だ)
黒カビの胞子という有機物が、炎によって熱分解される。その過程で、主要な成分は毒ガスへと変わる。だが、ごく微量に含まれる別の成分が、あの『甘い香り』を持つ、全く別の物質へと変化しているのではないか?
毒そのものではない。だが、毒が発生していることを示す、確実な『サイン』。
見つけた。
敵の、尻尾を。
そして、もう一つ。古代文明の知恵。煙による、浄化。
毒が、気体であるならば。その毒を、中和する、あるいは吸着する、別の『何か』も、存在するはずだ。
(炭だ……!)
前世で、キャンプ好きの同僚が、熱っぽく語っていた知識が蘇る。
『炭って、すごいんだぞ。目に見えない小さな穴が無数に空いてて、そこに匂いとか、不純物を、全部吸い着けてくれるんだ。最高の、天然の空気清浄機なんだよ』
俺の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つの絵となって、はまった。
敵の正体。
そして、その敵を打ち破るための、武器。
涙は、もう流れていなかった。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや絶望の色はない。代わりに宿っていたのは、獲物を見つけた狩人の、冷徹で、そして飢えた光だった。
俺は、父さんの方を、振り返った。
その目は、もう子供のものではなかった。
「父さん。手伝ってほしいことがある」
俺の、あまりにも変わったその様子に、父さんは、わずかに目を見開いたが、何も問わなかった。ただ、その顔には、「分かっている」と、深い信頼の色が浮かんでいた。
「村中の家の、全ての暖炉から、燃え残った『炭』を、残らず集めてきてほしい。できるだけ、細かく砕いて。それを、布の袋に詰めて、病人の枕元に、置いてほしいんだ」
「炭……だと?」
父さんの、初めての問い。
「ああ。炭は、悪い空気を吸ってくれる。旅の薬師さんが、そう教えてくれた。……それから、もう一つ」
俺は、森の方を指さした。
「森で、この匂いのする木を探してきてほしい。葉をちぎると、すーっとする、鼻が通るような匂いがする、背の高い木だ。その葉と枝を、できるだけたくさん。集めたら、村の広場で、盛大に燃やすんだ。その煙を、村中に届かせる」
俺が口にしたのは、この辺境には自生していないはずの、『ユーカリ』の木の特徴だった。だが、俺は賭けた。この世界のどこかに、似たような効果を持つ植物が、必ず存在するはずだと。そして、それを探し出せるのは、誰よりもこの森を知り尽くした、父さんしかいないと。
父さんは、俺の、常識では理解不能な要求を、黙って聞いていた。
そして、一言だけ、こう言った。
「……分かった」
彼は、俺の肩を、もう一度だけ、力強く叩いた。そして、壁にかけてあった、使い慣れた手斧を手に取ると、風のように、家の外へと駆け出していった。
その、頼もしい背中を見送り、俺は、再びマキナの寝床へと向き直った。
傍らには、いつの間にか戻ってきたギデオンが、静かに立っている。彼の目もまた、俺の覚醒を、確かに捉えていた。
俺は、マキナの、熱い手を握りしめた。
「待ってろ、マキナ。……今度こそ、助ける。兄ちゃんが、必ず」
俺の、反撃の狼煙が、今、静かに上がった。
それは、絶望の底から見上げた、ほんの小さな灯火。
だが、その灯火は、やがて、この村を覆う暗い闇を、焼き尽くすほどの炎となって、燃え上がることを、俺は確信していた。
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【読者へのメッセージ】
第六十五話、お読みいただきありがとうございました!
絶望の底で、父の無言の励ましを胸に、ついに反撃の糸口を見つけ出したルークス。彼の涙が、冷たい決意へと変わる瞬間を、楽しんでいただけましたでしょうか。
「父さん、かっこいい…!」「炭と煙の浄化、なるほど!」「ついに反撃開始!」など、皆さんの感想や応援が、この物語の次のページをめくる、何よりの力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
ついに始まった、ルークスの反撃。父が託された探索、そして、炭による浄化作戦。果たして、彼の知恵は、この村を救うことができるのか。そして、この村には、まだ隠された伏線が…。次回、どうぞお見逃しなく!




