第六十二話:故郷からの凶報と、天秤の傾き
祝賀の宴での勝利は、一夜にして俺を取り巻く環境を劇的に変えた。
城の中で俺を侮蔑の目で見ていた貴族たちは、今や腫れ物に触るかのように距離を置き、一方で、オーギュスト師匠を筆頭とする料理人たちや、ゴードンのような職人たちとの間には、身分を超えた確かな絆が芽生え始めていた。
実験農場は、もはや単なる畑ではなかった。
春の陽光が降り注ぐその場所は、新しい時代を夢見る者たちが集う、革命の前線基地となっていた。
「すごい……!本当に、油が採れるのですわね……!」
その日も、農場は歓喜の声に包まれていた。
ついに収穫の時期を迎えたひまわりの種を、俺が前世の記憶を頼りに設計し、ゴードンが遊び心で作り上げた小さな圧搾機にかける。すると、その注ぎ口から、黄金色の液体が、とくとくと、まるで光の糸のように流れ出してきたのだ。
それは、ただの油ではなかった。空の太陽と、大地の恵み、そして俺たちの汗と希望が凝縮された、生命の輝きそのものだった。その、ナッツのように香ばしく、そしてどこまでも芳醇な香りに、エレナ様も、セバスチャンも、そして手伝いに来ていたトーマスさんまでもが、うっとりと目を細めている。
「やりましたわね、ルークスさん!これで、あなた様のお母様に、最高の贈り物ができますわ!」
エレナ様が、自分のことのように喜んでくれる。そうだ。これが、俺がこの農場で最初に成し遂げたかった、ささやかな夢の結晶だった。
この黄金色の油を、故郷の母さんに届ける。その日を想像するだけで、俺の胸は温かいもので満たされた。
だが、その陽だまりのような日常に、最初の影が差し始めたのは、それから数日後のことだった。
◇
「先生、どうも様子がおかしいんでさ」
その日、俺の『青空教室』に集まった農夫たちの顔は、一様に暗かった。口火を切ったのは、今や彼らのリーダー格となったトーマスさんだった。
「ゴードンの親父さんが打った『疾風』、辺境伯様のお許しが出たってえのに、一向に俺たちの手に渡らねえんでさ。役所の連中に聞いても、『まだ準備が整わねえ』の一点張りで……」
別の農夫が、悔しそうに言葉を続ける。
「おかげで、春の種蒔きが、全然進まねえ。俺たちの畑は、先生に教わった通り、最高の土になった。あとは、あの鋤さえあれば、去年の倍は穫れるってのに……!」
彼らの声には、焦りと、そして行き場のない不満が渦巻いていた。
俺は、その報告を聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(……始まったか)
バルザックの、静かなる宣戦布告。
彼は、『疾風』という希望を、農民たちの目の前にぶら下げながら、決してその手には渡さない。じりじりと時間をかけて、彼らの期待を焦燥へ、そしていずれは、全ての元凶である俺への憎悪へと変えるつもりなのだ。
俺が築き上げた、農民たちとの信頼関係。その土台を、彼は根っこから腐らせようとしている。あまりにも陰湿で、そして効果的な策略だった。
「……皆さん、落ち着いてください」
俺は、動揺する農夫たちをなだめるように、穏やかに言った。
「鋤が届くのが遅れているのには、きっと何か理由があるはずです。でも、焦ることはありません。僕たちが今やるべきことは、ただ待つことじゃない。鋤が来たその日に、最高のスタートが切れるように、今できる最高の準備をしておくことです」
俺は、彼らにもう一度、土作りの基本と、新しい作物の栽培計画について、丁寧に、そして熱を込めて語り始めた。俺の言葉に、農夫たちの顔から少しずつ焦りの色が消え、再び希望の光が灯っていく。
だが、俺の心の中の嵐は、収まることを知らなかった。これは、時間との戦いだ。農民たちの希望が、絶望に変わる前に、俺はこの見えざる敵の策略を、打ち破らなければならない。
◇
そして、その焦りが、現実の恐怖となって俺の元に届けられたのは、そのさらに数日後の、よく晴れた午後だった。
「ルークス君!大変だ!故郷から、急ぎの報せだよ!」
実験農場に、血相を変えて駆け込んできたのは、行商人クラウスだった。その手には、一通の、泥で汚れた手紙が握られている。
俺は、嫌な予感に心臓が凍りつくのを感じながら、その手紙を受け取った。書かれているのは、村長のハンスさんの、見慣れた、しかし今は恐怖に震えているかのような、乱れた文字だった。
『ルークスへ。
至急、報せる。
村で、原因不明の病が、流行り始めている。
最初に、ゲルトの家の爺さんが倒れた。それから、次々と、老人や子供たちが、高熱と咳にうなされ、今も床に伏せっておる。
奇妙なことに、病に倒れておるのは、**元々体が弱く、冬の間、お前の家のハウスの野菜を、他の者たちよりも少しだけ多く分け与えていたはずの、**老人や子供たちばかりなのだ。
医者も、匙を投げた。
これは、ただの病ではないかもしれん。
もし、何か心当たりがあるのなら……頼む、助けてくれ。
このままでは、村が……』
手紙は、そこで途切れていた。
俺は、その場で、立ち尽くした。頭の中で、何かが、音を立てて砕け散る。
バルザックの、あの氷のような目が、脳裏に蘇る。
『奴の故郷。ここが、奴の唯一の弱点だ。……この村に、ほんの少しだけ、「不幸な事故」が起きるように、手配しておけ』
事故、だと?ふざけるな。
これは、事故などではない。明確な、そして卑劣極まりない、『攻撃』だ。
栄養価の高い野菜を食べていたはずの、最も弱い者たちから倒れていく。なんと悪魔的な策略だろうか。これは、ただの病ではない。村人たちの心に、救世主への疑念と、隣人への嫉妬という、最も治癒しがたい毒を打ち込むための、巧妙に仕組まれた罠だ。
「……ルークスさん?」
俺の、あまりの形相に、隣にいたエレナ様が、青い顔で俺の腕に触れた。
「……故郷で、何か……?」
「……はい」
俺は、震える声で、手紙の内容を、仲間たちに伝えた。
静まり返る、実験農場。
最初に沈黙を破ったのは、ギデオンだった。
「……辺境伯様に、報告を。直ちに、城の医師団を派遣するよう、要請する」
「ダメです!」
俺は、叫ぶように、彼の言葉を遮った。
「これは、ただの病気じゃない。城の医者では、おそらく治せない。……俺が行きます。俺が行かなければ、ダメなんです」
俺の、ただならぬ気迫に、ギデオンは言葉を失った。
「お待ちになって、ルークスさん!あなた様お一人で行くなど、危険すぎますわ!わたくしも、お供いたします!」
エレナ様が、悲痛な声で言う。だが、俺は、彼女の目を真っ直ぐに見返し、静かに、しかしきっぱりと首を横に振った。
「いいえ、エレナ様。あなたには、ここに残って、この農場を、そして、街の農民たちを、守ってほしいんです」
「ですが……!」
「これは、俺の戦いです。俺が、この街に来たことで、始まってしまった戦いだ。だから、俺が、終わらせなければならない」
俺は、彼女の肩に、そっと手を置いた。
「このひまわりたちが、枯れないように。トーマスさんたちの希望が、絶望に変わらないように。……俺の留守の間、この城を、お願いします」
それは、弟子への、初めての、そして最大の、信頼の言葉だった。エレナ様は、ぐっと唇を噛みしめ、その青い瞳に涙を溜めながらも、やがて、深く、深く頷いた。
俺は、ギデオンの方を向いた。
「ギデオンさん。あなたの馬を、お借りします。最速で、リーフ村へ」
すると、彼は、こともなげに、こう言った。
「……何を言っている。辺境伯様からの命令は、『ルークス・グルトを護衛せよ』だ。お前が行く場所に、俺が行かないという選択肢は、存在しない」
その、あまりにも無骨で、あまりにも頼もしい言葉。俺は、もう何も言えなかった。ただ、深く頭を下げる。
「オーギュスト師匠、ゴードンさん!」
俺は、報告を聞いて工房から駆けつけてきた二人の仲間に向き直った。
「俺がいない間、あの男たちの好きにはさせないでください。この街の希望を、お願いします」
「……当たり前だ、小僧」
ゴードンが、地鳴りのような声で言った。オーギュストも、静かに、しかし力強く頷く。
俺は、仲間たちの顔を、一人一人、目に焼き付けた。そして、俺の足元で、不安げに俺を見上げる、小さな相棒に声をかける。
「フェン。……行くぞ。家に、帰るんだ」
その夜。
俺とギデオンは、黒い疾風となって、闇夜の街道を、北へと駆けていた。
故郷で、俺の帰りを待つ、家族と、村人たちを救うために。
その、悲壮な旅立ちを、ランドールの街の、最も高い鐘楼の影から、一人の男が、楽しそうに、見下ろしていた。
フードの奥で、ジルヴァの口元が、三日月のように歪んだ。
「ああ、素晴らしい。家族(NPC)の安否を気遣い、故郷(初期マップ)へと駆け戻る。実に、実に『主人公』らしいムーブじゃないか。君の『救世主』という仮面が、焦りと無力感で剥がれ落ち、ただの無力な少年(初期ステータス)に戻る瞬間が、楽しみでならないね」
春の嵐を告げる、黒い雲が、北の空を、急速に覆い始めていた。
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【読者へのメッセージ】
第六十二話、お読みいただきありがとうございました!
ひまわりの収穫という光の描写から一転、故郷からの凶報、そして仲間たちとの絆を胸に、決死の旅立ちを決意するルークス。物語が、大きな嵐へと突入していく、その緊迫感を感じていただけましたでしょうか。
「故郷が危ない!急geルークス!」「仲間たち、頼もしい!」「ジルヴァ、ついに…!」など、皆さんの感想や応援が、ルークスが駆る馬の、何よりの力となります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
ついに始まった、宿敵ジルヴァとの直接対決の序章。故郷でルークスを待ち受けるものとは、一体何なのか。そして彼は、この絶望的な状況を、覆すことができるのか。次回、どうぞお見逃しなく!




