第五十二話:領主の天秤と、種蒔きの契約
トーマスの涙が乾いた後も、貧民街の外れに灯った希望の熱は、冷めることを知らなかった。
俺たちが実験農場の小さな小屋に戻った時、外はすでに深い夜の闇に包まれていたが、テーブルを囲む男たちの瞳は、炉の炎よりも熱く、爛々と輝いていた。
その夜、実験農場の小さな小屋は、いつになく熱気を帯びていた。
テーブルを囲むのは、俺と、エレナ様、ゴードン、そして護衛役として常に控えるギデオン。セバスチャンは、主が淹れた薬草茶を震える手で運びながらも、その目はどこか誇らしげだった。
「……すごかったな」
最初に沈黙を破ったのは、意外にも、それまで壁際に控えていたギデオンだった。
「一人の男の、あの涙。……俺は、戦場で多くの血を見てきた。だが、あんなにも尊い涙を、今まで見たことがなかった」
その、あまりにも人間的な呟きに、ゴードンも深く頷いた。
「ああ。……あんな顔をされちまったら、もう後戻りはできねえ。俺の槌は、もう、あいつらのために振るうしかねえんだ」
職人と、騎士。全く違う世界に生きてきた二人の男の魂が、トーマスの涙という一点で、確かに共鳴していた。
「……それで、これからどうするんだ、小僧」
興奮冷めやらぬといった様子で、ゴードンがテーブルを拳で叩いた。
「トーマスのあの顔を見ちまったからには、もう後戻りはできねえ。この『疾風』を、待ってる奴らがいる。だが、こいつを作るには、時間も、鉄も、そして何より俺の魂も、安くはねえんだ。どうやって、貧しい農民たちの手に、こいつを届ける?」
それこそが、この革命における、最大の課題だった。トーマスのような農民に、この特別な鍬を買う金はない。だが、無償で配っていては、ゴードンの生活が成り立たず、生産はすぐに頓挫してしまう。
「……辺境伯様、つまり、お父様にお願いして、領の予算で買い上げていただくというのは、いかがでしょう?」
エレナ様が、名案とばかりに手を叩いた。だが、俺は静かに首を横に振る。
「それは、おそらく最悪の手です」
「まあ!なぜですの?」
「辺境伯様から与えられた農具は、農民たちにとって『施し』になってしまう。彼らは、それをただの便利な道具としか思わず、大切にしないでしょう。トーマスさんが流したような、あの涙の価値を、理解しようとはしない。それに……」
俺は、一度言葉を区切り、部屋の隅に立つ、寡黙な騎士を見た。
「辺境伯領の全ての農民に、この鍬を配るとなれば、莫大な予算が必要になります。その予算は、どこから出るのか。……おそらく、騎士団の武具の予算や、城壁の修繕費を削ることになる。そうなれば、必ず、反対する者が出てくる。この革命は、始まる前に、城の中の政治闘争に、飲み込まれてしまいます」
俺の、あまりにも冷静で、そして現実的な分析に、エレナ様は息を呑んだ。ギデオンは、鉄仮面のような表情のままだったが、俺の指摘が的を射ていることを、その沈黙が肯定していた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
ゴードンが、苛立たしげに声を上げる。俺は、彼の目を真っ直ぐに見返し、静かに、しかし確信を持って、俺の考えを告げた。
俺が提案したのは、誰も損をしない、新しい『約束』の形だった。
「まず、辺境伯様には、種籾を蒔いていただきます。ゴードンさんの工房に、百本分の『疾風』という名の種を蒔くための、最初の恵みです。これは施しではありません。秋になれば、畑が黄金色になるように、領地の税収が何倍にもなって返ってくる。未来への、確かな『種蒔き』です」
「次に、ゴードンさんは、その種から育った苗を、農民たちに『分け与え』ます。無償ではありません。秋に、彼らの畑で穫れた作物の一部を、『ありがとう』の気持ちとして分けてもらうんです」
「ゴードンさんの打った魂が、畑で麦や芋になる。素敵だと思いませんか?」
「そして、農民たち。彼らは、増えた収穫の中からほんの一部を支払うだけで、革命の翼を手にできる。誰かに与えられるのを待つのではなく、自分の汗で、未来を勝ち取ることができるんです」
俺の提案に、部屋は水を打ったように静まり返った。
それは、誰も損をしない、完璧な循環の仕組みだった。
最初に沈黙を破ったのは、ゴードンだった。
「……は、はは……。ははははは!面白い!面白いじゃねえか、小僧!金じゃねえ、『収穫』で対価を受け取る、だと?まるで、俺の打った魂が、畑で実りになるみてえじゃねえか!気に入った!その話、乗ってやる!」
彼は、心の底から楽しそうに、腹を抱えて笑った。
「……ルークスさん。あなた様は、やはり……」
エレナ様は、もはや感嘆のため息しかつけない、といった様子で、尊敬の眼差しを俺に向けている。
そして、ギデオンは。
彼は、何も言わなかった。ただ、その厳しい瞳で、俺の顔をじっと見つめていた。その視線は、もはやただの子供を見るものではない。一つの巨大なプロジェクトを動かす、末恐ろしい司令官を見るかのような、畏怖の念すら含んだ光を宿していた。
◇
翌朝、俺たちは、再びあの荘厳な謁見の間へと、足を踏み入れていた。
昨日とは違う。今日は、俺は挑戦者として、この場に立っている。俺の後ろには、エレナ様、そして、まるで俺の言葉の重みを保証するかのように、ゴードンとギデオンが、微動だにせず控えていた。
玉座に座る辺境伯レオナルドは、昨日と変わらぬ厳しい眼差しで、俺たちを見下ろしている。その隣には、昨日俺たちの農場を訪れた文官の長、バルザックが、苦虫を噛み潰したような顔で控えていた。どうやら、俺たちの動きは、すでに彼の耳にも届いているらしい。
「……して、本日は何の用だ。我が娘まで伴って、騒々しいことよ」
レオナルドの、地を這うような低い声が響く。
「お父様!わたくし、昨日、この目で見ましたの!一本の鍬が、人の人生を変える瞬間を!」
エレナ様が、感極まった声で口火を切る。彼女は、トーマスの畑で起きた出来事を、その感動の全てを込めて、熱っぽく語り始めた。だが、レオナルドは、その話を黙って聞いていたが、途中で静かに手を上げて制した。
「……エレナ。お前の気持ちは分かった。だが、俺が聞きたいのは、感傷的な物語ではない。事実と、そして、それによって我が領地に何がもたらされるのか、だ」
彼は、その射抜くような視線を、俺に向けた。
「ルークス・グルトよ。お前が、申せ」
試されている。俺は、ごくりと唾を飲むと、一歩前へ出た。
「はい。昨日、ゴードンさんの手によって、革命が産声を上げました。それは、全ての農民を、長年の苦役から解放する『翼』です。ですが、その翼は、まだ飛ぶことができません。辺境伯様、あなた様の『最初のひと押し』がなければ」
俺は、昨夜小屋で語った、新しい『約束』の形を、今度は領主である彼に理解できる言葉で、語り始めた。
「辺境伯様にお願いしたいのは、施しではございません。未来への、『種蒔き』にございます。ゴードン殿の工房に、百本分の『疾風』という名の種を蒔くための、最初の恵みを。秋になれば、畑が黄金色に実るように、必ずや、領地の税収が、何倍にもなってお戻りになることを、お約束いたします」
俺の、堂々とした口上に、玉座のレオナルドは、面白そうなものを見るかのように、片眉を上げた。だが、その隣で、バルザックが、ついに我慢しきれないといった様子で、口を挟んだ。
「お待ちください、辺境伯様!あまりにも馬鹿げた話にございます!領地の貴重な予算を、農民の道具ごときに注ぎ込めと申すか!しかも、その見返りが、秋にならねば分からぬ『収穫物』だと?国庫に必要なのは、麦や芋ではございません!硬貨にございますぞ!」
彼の、ヒステリックな声が、謁見の間に響き渡る。
「それに、農民にそのような便利な道具を与えれば、彼らは増長し、いずれ我ら貴族の支配を脅かすことにもなりかねません!秩序が、乱れますぞ!」
保守派の、典型的な反論。だが、それも全て、俺の計算のうちだった。
「バルザック殿」
俺は、静かに、しかし凛とした声で、彼に問いかけた。
「あなたは、この辺境伯領の『力』とは、一体何だとお考えですか?」
「な……!何を愚かなことを!決まっておる!辺境伯様の威光と、我ら騎士団の武力にございます!」
「いいえ、違います」
俺は、きっぱりと断言した。
「この領地の本当の力。それは、北の獣人族との長い睨み合いを支え、冬の飢えから民を守る、畑で穫れる、たった一粒の『麦』です。兵士も、腹が減っては戦えません。民も、腹が減っては、子を産み、育てることもできない。全ての力の源は、『食』にございます」
「『疾風』は、その麦の収穫を、倍にします。倍になった麦は、兵士を強くするだけではない。余剰分の作物は、他領へ売ることもできる。それは、この辺境に、鉄や薬ではない、全く新しい『富』を生み出すのです。富は、城壁を厚くし、兵士に新たな鎧を与える力となる」
「これは、農民を甘やかすための計画ではございません。この辺境伯領という国の、土台そのものを、根底から作り変えるための、百年の計にございます」
俺の言葉に、謁見の間は、水を打ったように静まり返った。
バルザックは、ぐっと言葉に詰まり、悔しさに顔を歪めている。俺の論理は、彼の感情論を、完全に凌駕していた。
そして、ギデオン。彼は、俺の言葉を聞きながら、その鉄仮面の下で、わずかに、本当にわずかに、頷いたように見えた。俺の言葉が、彼の騎士としての魂に、確かに届いた証だった。
玉座のレオナルドは、何も言わなかった。彼は、深く、深く、玉座に身を沈めると、腕を組み、目を閉じた。その厳しい顔の上を、様々な思惑が、嵐のように駆け巡っているのが見て取れた。
娘の、純粋な願い。
職人の、燃えるような魂。
騎士の、無言の肯定。
そして、目の前の小僧が提示した、あまりにも合理的で、そして壮大な、未来への設計図。
長い、長い沈黙の後。彼は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや俺を試すような色はなかった。代わりに宿っていたのは、一つの国の未来をその双肩に担う、領主としての、冷徹な決断の光だった。
「……面白い」
彼は、三日前と同じ言葉を、しかし、全く違う重みを持って、呟いた。
「面白いではないか、ルークス・グルト。お前の言う『百年の計』、このレオナルドが、買ってやろう」
その一言が、この辺境伯領の、新しい時代の幕開けを告げた。
「ただし」
彼は、挑戦的な笑みを浮かべた。
「俺は、気が短い。百年も待ってはおれん。……最初の収-穫は、この秋だな。その時、お前の言葉が真であったか、嘘であったか、その結果を、この目で見せてもらう。もし、実りが俺の期待に満たななんだ時は……分かっておるな?」
その言葉は、脅しではなかった。領主と、挑戦者の間で交わされる、血よりも濃い、魂の契約だった。
「はい。この、首を懸けて」
俺は、深々と、頭を下げた。その瞬間、俺の脳内にだけ、静かだが、今までで最も重々しい電子音が響いた。
【世界の根幹に関わる、大規模な社会変革プロジェクトが承認されました。世界の発展への多大な貢献として、ボーナスが付与されます。合計で、3,000ポイントを獲得しました。】
(……さんぜん、ポイント……)
俺は、顔を上げることができなかった。今、手に入れたこの莫大なポイントは、辺境伯の、そしてこの領地の未来そのものの重みだ。トーマスさんの涙、ゴードンの魂、エレナ様の願い、そしてギデオンの期待。その全てが、この無機質な数字に変わって、俺の双肩にのしかかってくる。
逃げることは、もう許されない。
俺は、自分のステータスウィンドウを開いた。
【現在の所持ポイント:5,124 pt】
ついに、超えた。次なるスキル『土壌改良』を取得するための、四千という大きな壁を。
これは、俺の戦いが、次のステージに進んだことを示す、号砲だった。
謁見の間を出た俺たちの足取りは、来た時とは比べ物にならないほど、力強かった。
エレナ様は、喜びのあまり、俺の腕に飛びついてきた。ゴードンは、「やってくれるじゃねえか、小僧!」と、俺の背中を力任せに叩く。
その、歓喜の輪の中で、俺は空を見上げた。春の、どこまでも青い空。
(父さん、母さん。俺の革命は、今、本当に始まったよ)
俺は、手の中の木彫りの人形を、強く、強く握りしめた。その温もりは、俺がこれから進む、長く、そして険しい道のりを照らす、何よりも確かな、道しるべだった。
---
【読者へのメッセージ】
第五十二話、お読みいただきありがとうございました!
ついに辺境伯を動かし、壮大な革命の第一歩を踏み出したルークス。彼の知略と、仲間たちの熱い想いが、皆さんの心にも届いていれば幸いです。領主との息詰まる対決、そして、魂の契約。物語が大きく動き出す、その瞬間の興奮を感じていただけましたでしょうか。
「ルークスのプレゼン、最高!」「辺境伯、器がでかい!」「3000ポイントきたー!」など、皆さんの感想や応援が、この革命を成功へと導く、何よりの力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
ついに莫大なポイントと、領主の承認を得たルークス。彼の次なる一手は、もちろん、あのスキルの取得。辺境伯領の、全ての大地を生まれ変わらせる、本当の革命が、ここから始まります。次回も、どうぞお見逃しなく!




