第三十三話:実験農場と、二つの太陽
城の一室で迎えた朝は、静かすぎた。
リーフ村の朝は、夜明けを告げる鶏の声で始まり、父さんが畑へ向かう物音、母さんが朝食の準備をする匂い、そしてマキナの寝息、その全てが混じり合った、温かい生活の音で満ちていた。
だが、この豪奢な客室には、音がない。分厚い石壁が外の喧騒を完全に遮断し、ふかふかすぎるベッドが俺の体の自由を奪う。窓から差し込む光だけが、新しい一日が始まったことを、無機質に告げていた。
(……家に、帰りたい)
その思いが、喉までこみ上げてくる。だが、俺はそれをぐっと飲み込んだ。感傷に浸っている暇はない。俺は、この場所で結果を出すことで、故郷へ帰る「自由」を勝ち取ったのだから。
俺が身支度を整えていると、部屋の扉が控えめにノックされた。ギデオンだ。
「……準備は、できたか」
「うん。いつでも」
俺は、腕にフェンを抱き、父さんの木彫りの人形が確かにあることを懐で確認すると、彼の後に続いた。
俺たちが向かったのは、城の通用口だった。昨日通った荘厳な正面玄関とは違う、兵士や使用人たちが行き交う、活気に満ちた場所だ。そこには、すでに一台の荷馬車が用意されていた。
「これに乗れ」
ギデオンに促されるまま荷台に乗り込むと、馬車はゆっくりと城の敷地を出て、ランドールの街へと進み始めた。
昨日歩いた大通りとは違う、石畳が少しだけ古びた、職人たちが暮らす地区のようだった。鍛冶屋から響くリズミカルな槌音。パン屋から漂う香ばしい匂い。そして、道端で遊ぶ子供たちの屈託のない笑い声。そこには、大通りにあったような華やかさはないが、地に足の着いた、人々の確かな生活の営みがあった。
(……村とは違うけど、こういうのも、悪くないな)
俺が、移り変わる街の景色を興味深く眺めていると、馬車は、やがて街の南側にある、ひときわ高い壁の前で止まった。
「……着いたぞ」
ギデオンがそう言って指さした先には、古びた、しかし頑丈そうな木の扉があった。彼は、懐から取り出した大きな鉄の鍵で、その錠前を開ける。
キー、と錆びついた蝶番の音を立てて、扉が開かれた。
その先に広がっていた光景に、俺は、昨日、この街に着いた時とはまた違う、純粋な歓喜の声を、心の中で上げていた。
「ここが、お前の『実験農場』だ」
そこは、ただの畑ではなかった。
高い城壁の内側に広がる、日当たりの良い、広々とした一区画の土地。その広さは、リーフ村にある俺たちの畑の、三倍はゆうにあるだろう。そして何より、その土地の隅には、小さな、しかし雨風を凌ぐには十分な、石造りの質素な小屋まで建てられていたのだ。
それは、ただの畑ではない。寝泊まりできる小屋と、生活に必要な井戸まで備わった、一つの独立した「家」だった。
「……すごい」
俺の口から、思わず感嘆の声が漏れた。辺境伯は、俺の想像を遥かに超える、破格の舞台を用意してくれた。それは、彼が俺に寄せる期待の大きさそのものだった。
俺は、荷馬車から飛び降りると、駆け出すようにして畑の中央へと向かった。そして、その場に膝をつき、黒々とした土を、両手ですくい上げる。
ひんやりとして、湿り気を帯びた土の感触。指先から、大地の生命力が伝わってくるようだ。
(スキル『鑑定』!)
【ランドール南地区の土壌】
【状態:良好】
【特徴:火山灰を多く含み、水はけが非常に良い。リン酸が豊富だが、窒素分がやや不足している。過去数年間、休耕地だったため、地力は十分に回復している。】
(……最高の土地だ)
俺の口元が、自然と綻ぶ。窒素不足など、馬糞や堆肥でいくらでも補える。何より、この水はけの良さと、休耕によって蓄えられた地力は、金では買えない価値がある。
俺の脳内コンピュータが、猛烈な勢いで回転を始める。この土地なら、何を育てられる?リーフ村のトマトやナスはもちろん、もっと日照を好む、カボチャやトウモロコシだって、きっと見事に育つだろう。いや、それだけじゃない。この街の市場で高く売れる、香辛料や薬草はどうか?ポイント効率を考えれば、それも悪くない選択だ。
俺が、来るべき収穫と、それによってもたらされるであろう莫大なポイントに思いを馳せ、一人悦に入っていると、背後から、凛とした、しかしどこか弾むような声がした。
その間、腕の中から解放されたフェンは、自分の新しい縄張りができたことを全身で喜ぶように、ふかふかの土の上を駆け回り、時折、架空の獲物を追いかけては楽しそうに跳ねている。
「ここが、あなたの新しいお城ですのね」
振り返ると、そこには、昨日と同じ美しい絹のドレスを身に纏ったエレナ様が、執事のセバスチャンを伴って立っていた。その手には、昨日とは比べ物にならないほど生き生きとした、純白の雪中花が、誇らしげに抱えられている。
「エレナ様。どうして、ここに?」
「ふふ。わたくしが、お父様にお願いしたのですもの。あなたの最初の弟子として、この農場の始まりを見届けないわけには、まいりませんわ」
彼女は、そう言うと、楽しそうに畑の中を歩き回り始めた。その姿は、まるで初めて見るおもちゃ箱に心を躍らせる、無邪気な子供のようだった。
「まあ、土がふかふかですわ!リーフ村の土とは、また違うのですのね?」
「はい。ここの土は、火山の神様からの贈り物がたくさん混じっているんです」
俺がそう答えると、彼女は「火山の神様!」と目を輝かせた。
その、あまりにも微笑ましい光景を、しかし、執事のセバスチャンは、苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。
「エレナお嬢様。土の上をそのような靴で歩かれては、汚れてしまいます。それに、その者との過度な接触は、辺境伯家令嬢としての品位を……」
「まあ、セバスチャンは堅苦しいことばかり。良いではありませんか。わたくし、今、とても楽しいのですもの」
エレナ様は、そう言って悪戯っぽく笑うと、高価な絹のドレスの裾が土で汚れるのも全く意に介さず、俺の隣にふわりとしゃがみ込み、興味津々といった様子で尋ねてきた。
「それで、ルークスさん。この素晴らしい畑で、最初に、何をお育てになるのですか?」
その、純粋な問いに、俺は少しだけ考える。そして、この実験農場で最初に育てるべき、たった一つの作物の名を、彼女に告げた。
「……ひまわり、です」
「ひまわり?」
俺の、あまりにも意外な答えに、エレナ様は不思議そうに首を傾げた。野菜でも、薬草でもない、ただの花。それも、この辺境ではあまり見かけない、南国の花だ。
「なぜ、ひまわりなのです?もっと、皆の役に立つ、お野菜の方が……」
「ひまわりは、ただ綺麗なだけじゃないんです」
俺は、彼女の青い瞳を真っ直ぐに見つめ、説明を始めた。
「ひまわりは、太陽が大好きなお花です。太陽の光をいっぱい浴びて、大きく、大きく育ちます。そして、その種からは、とても美味しくて、栄養のある油が搾れるんです。その油があれば、母さんが作る料理が、もっともっと、美味しくなる」
俺の言葉に、エレナ様は、はっとしたように息を呑んだ。彼女は、俺が語る言葉の裏にある、本当の意味を、聡明にも理解したのだ。
俺が、この新しい畑で最初に作りたいもの。それは、金儲けのための作物でも、領主を喜ばせるための献上品でもない。ただ、遠い故郷にいる家族を笑顔にするための、ささやかな贈り物だった。
「……素敵ですわ」
エレナ様が、ぽつりと呟いた。その声は、うっとりとするような響きを帯びていた。
「太陽の光を浴びて育ったひまわりが、あなた様のお母様の食卓を、太陽のように明るく照らすのですね」
「……はい」
俺が少し照れながら頷くと、彼女は立ち上がり、空を見上げた。冬の、弱々しいが、しかし確かな温もりを持った太陽の光が、彼女の美しい金髪を、キラキラと輝かせている。
「決まりですわね。この農場の最初の仕事は、太陽を育てること。わたくしも、全力でお手伝いさせていただきます!」
そう言って、彼女は高らかに宣言した。その笑顔は、空に輝く太陽と同じくらい、眩しく、そして温かかった。
こうして、俺の、城壁都市ランドールでの、新しい日常が始まった。
この街には、空に輝く太陽と、そして、俺の隣で微笑む、もう一つの太陽がいる。
その二つの太陽に見守られながら、俺の小さな実験農場は、やて、この辺境伯領全体を揺るがすほどの、大きな奇跡を生み出すことになる。
だが、それは、まだ誰も知らない、未来の物語だ。
【読者へのメッセージ】
第三十三話、お読みいただきありがとうございました!
ついに始まった、ランドールでの新しい日常。辺境伯から与えられた素晴らしい舞台と、エレナ様との微笑ましい交流、いかがでしたでしょうか。この「溜め」の時間が、今後の大きな物語への助走となります。
「実験農場、夢がある!」「エレナ様がどんどん可愛くなる!」「ひまわりの話、泣ける…」など、皆さんの感想や応援が、この新しい畑に蒔かれる最初の種となります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
「太陽を育てる」ことを決めたルークス。しかし、ひまわりの種は、どこで手に入れるのか?彼のポイントシステムが、再び真価を発揮する時が来ます。次回、新たな挑戦の始まり。どうぞお楽しみに!




