第三十二話:辺境伯の評価と、新たな舞台
「……ありがとう、ございますっ……!ルークスさん……!」
エレナ様の、心の底からの歓喜の涙と、一点の曇りもない感謝の言葉。それは、凍てついた中庭の空気を、春の陽光のように温かく溶かしていくかのようだった。
俺の脳内に響いた「500ポイント獲得」という電子音の余韻も、彼女の純粋な笑顔の前では些細なことに思えた。目の前の令嬢が、そして彼女が大切にする小さな命が救われた。その事実が、ポイントという無機質な数字以上に、俺の心をじんわりと満たしていく。
「……見事だ」
俺たちの背後で、それまで息を殺して成り行きを見守っていた執事のセバスチャンが、絞り出すような声で呟いた。その声には、三日前の侮蔑の色はなく、ただ純粋な驚きと、信じがたい奇跡を目の当たりにした者だけが抱く、畏敬の念がこもっていた。騎士ギデオンも、鉄仮面のような表情こそ崩さないが、その目が驚きにわずかに見開かれているのを、俺は見逃さなかった。
静かな感動に満ちた中庭の空気を破ったのは、ギデオンの、低く、しかし厳粛な声だった。
「……辺境伯様が、お待ちだ」
その一言で、俺たちは現実へと引き戻される。そうだ。俺の試練は、まだ終わっていない。本当の裁定は、これから下されるのだ。
俺は、エレナ様に一度だけ頷いてみせると、踵を返し、再びあの重々しい謁見の間へと向かった。俺の後ろを、ギデオンが、そして咲き誇る雪中花の鉢を宝物のように抱えたエレナ様と、執事のセバスチャンが、静かに続く。
◇
ギギギ……と、重い音を立てて、再び謁見の間の扉が開かれる。
その先に広がるのは、三日前と何も変わらない、荘厳で、冷たいほどの静寂に包まれた空間。そして、その最奥。巨大な玉座に座る辺境伯レオナルドが、俺たちを変わらぬ厳しい眼差しで見下ろしていた。
俺は、ギデオンと共に玉座の前まで進み、再びその場に膝をついた。心臓が、三日前よりもさらに激しく、警鐘のように鳴り響いている。
「……結果を、聞こうか」
辺境伯の、地を這うような低い声が、謁見の間に響き渡る。その問いに答えたのは、俺ではなかった。
「お父様!ご覧ください!」
エレナ様が、感極まった声で叫びながら、玉座の父のもとへ駆け寄った。そして、その手に抱えた植木鉢を、誇らしげに掲げてみせた。
玉座に座ったままだった辺境伯が、その咲き誇る純白の花を認めた瞬間、初めて、その身を乗り出した。彼の、全てを見透かすような厳しい瞳が、驚愕に、ほんのわずかだが、確かに見開かれた。
彼は、玉座からゆっくりと立ち上がると、一段、また一段と、階段を降りてくる。そして、娘が差し出す雪中花の前に立つと、その節くれだった、幾多の戦場を潜り抜けてきたであろう武骨な指で、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと、その純白の花びらに触れた。
「……本当に、咲かせおったか」
その声は、誰に言うでもない、独り言のようだった。だが、その響きには、隠しようのない純粋な驚きと、そして、父親としての安堵の色が、確かに滲んでいた。
彼は、しばらくの間、娘の涙を拭うでもなく、ただ黙って、甦った花の生命力に見入っていた。やがて、彼はゆっくりと顔を上げると、再び、その射抜くような視線を、俺に向けた。
「……見事だ、小僧」
その、初めて与えられた賛辞に、俺は息を呑んだ。
「褒めてつかわす。お前は、我が娘の涙を止め、そして、俺の常識を覆した。……して、褒美は、何が望みだ?金か?土地か?望むものを申してみよ。このレオナルド、約束は違えん」
褒美。その言葉に、俺の頭の中は、瞬時にそろばんを弾き始めた。金貨百枚?いや、千枚か?それだけのポイントがあれば、どんなスキルだって手に入る。俺のスローライフは、盤石のものとなるだろう。
ブラック企業で染みついた思考が、最大の利益を算出しようと猛回転する。だが、その計算高い思考よりも早く、俺の口からこぼれ落ちたのは、全く別の答えだった。
「……何も、いりません」
その、予想外の返答に、今度こそ、辺境伯の顔に明確な驚きの色が浮かんだ。
「俺がしたことは、旅の薬師さんから教わった知恵を使っただけです。それに、一番の褒美は、エレナ様の笑顔と、このお花が元気になったこと、ですから」
それは、俺の本心だった。この三日間で、俺は確かに、ポイントだけでは得られない、温かい何かを受け取っていたのだから。
俺の言葉を聞いて、辺境伯は、初めて、声を立てて笑った。それは、腹の底から湧き上がるような、豪快で、力強い笑い声だった。
「くっくっく……はっはっはっは!面白い!実に、面白い小僧だ!金にも土地にも興味がない、か!欲のない人間は信用ならんと言うが、お前のその目は、嘘をついておる目ではないわ!」
ひとしきり笑い終えると、彼は再び真剣な表情に戻り、俺に告げた。
「よかろう。褒美が要らぬというのなら、こちらから、お前に『役割』を与えてやる」
役割。その言葉に、俺は嫌な予感しか感じなかった。
「お前のその『薬師の知恵』、この辺境伯領のために使え。この城に留まり、我が領地の農業技術顧問として、その知識を余すことなく、民に広めるのだ」
農業技術、顧問。
俺の頭の中で、その単語が何度も反響する。スローライフとは、かけ離れた、あまりにも重すぎる役職。
「……お断り、します」
俺は、反射的に、そう答えていた。
「俺は、リーフ村の、ただの農民です。家族の待つ、あの村へ、帰ります」
俺の、決然とした拒絶。謁見の間の空気が、再び凍てつく。辺境伯の目から、笑みが消えた。
「……小僧。お前は、誰に口をきいているか、分かっておるのか?」
殺気にも似た威圧感が、俺の小さな体を押し潰さんとばかりに、のしかかってくる。
「分かっています。ですが、俺の夢は、この領地を発展させることじゃありません。家族と、村のみんなと、温かいスープを飲んで、静かに暮らすこと。ただ、それだけなんです」
俺が、必死の思いでそう訴えた、その時だった。
「お待ちください、お父様!」
これまで黙って成り行きを見守っていたエレナ様が、俺と辺境伯の間に、割って入った。
「この方を、無理に城に縛り付けるのは、おやめください。この三日間、わたくしが見たこの方は、土に触れ、自由に発想することで、まるで魔法のような奇跡を起こしました。この方の知恵は、きっと、窮屈な城の中だけでは、輝きを失ってしまいますわ」
娘からの、予期せぬ口添え。レオナルドは、眉をひそめた。
「ならば、どうせよと申すのだ、エレナ」
「はい。この方に、この城壁都市ランドールに、小さな『実験農場』をお与えください!」
実験農場。その、全く予想もしていなかった提案に、俺は目を丸くした。
「この方の故郷は、遠い辺境の村。家族と離れては、きっと寂しい思いをされるでしょう。ですが、この街に、自由に研究ができる畑があれば、この方は、きっと、家族に会うために村へ帰りながらも、この街のために、その素晴らしい知恵を貸してくださるはずですわ!」
彼女は、俺の方を振り返ると、悪戯っぽく、しかし真剣な眼差しで、にこりと微笑んだ。
「それに……わたくし、もっと、ルークスさんから、植物のこと、教えていただきたいのですもの」
それは、俺を城に縛り付けようとする父への、見事な妥協案であり、そして何より、俺の「スローライフ」という夢を尊重し、守ろうとしてくれる、彼女なりの最大限の配慮だった。
辺境伯は、娘の聡明な提案に、ぐっと言葉を詰まらせた。そして、俺の顔と、娘の顔を交互に見比べると、やがて、諦めたように、大きく、深く、ため息をついた。
「……好きに、せよ」
それは、承諾の言葉だった。
こうして、俺の処遇は、思いもよらない形で決定した。
辺境伯領の城壁都市ランドールの一角に、小さな土地を与えられ、そこで自由に農業の研究を行うこと。時折、エレナ様に家庭教師として植物の知識を教えること。そして、いつでも故郷のリー-フ村へ帰る自由を、保障されること。
それは、スローライフとは少し違う、だが、決して悪くはない、新しい日常の始まりを告げていた。
俺の、辺境の農民から、辺境伯お抱えの天才農学者(仮)への道が、今、思いがけず、開かれようとしていた。
【読者へのメッセージ】
第三十二話、お読みいただきありがとうございました!
ルークスの試練の結果、そして辺境伯との息詰まる交渉劇、いかがでしたでしょうか。エレナ様の機転の利いた提案が、物語を新たなステージへと導きました。
「辺境伯、笑うと怖いけど魅力的!」「エレナ様、賢くて優しい!」「実験農場、ワクワクする!」など、皆さんの感想や応援が、ルークスの新しい畑を耕す力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
ついにランドールの街に、自分だけの「城」を手に入れたルークス。彼の知識は、この城壁都市にどんな革命をもたらすのか。新たな仲間、新たな出会いの予感が、彼を待ち受けます。次回も、どうぞお楽しみに!




