第二十九話:謁見の間と、領主の眼
『風と街道亭』で迎えた朝は、リーフ村のそれとは全く違っていた。
鳥のさえずりの代わりに聞こえてくるのは、遠い鐘の音と、まだ夜が明けきらぬうちから活動を始める街のざわめき。俺は、生まれて初めて眠るふかふかのベッドの上で、ほとんど一睡もできずに、その朝を迎えた。
「……時間だ」
部屋の隅の椅子で、石像のように夜を明かした騎士ギデオンが、静かに立ち上がる。その声には、昨夜よりもさらに鋭い緊張感がこもっていた。
俺は、ベッドから降りると、村を出る時に母さんが持たせてくれた、一番上等な服に着替えた。と言っても、何度も繕われた、ただの麻のシャツとズボンだ。この街の子供たちが着ているような、小綺麗な服とは比べ物にもならない。
「……行こう」
俺は、腕の中にフェンを抱き、懐の木彫りの人形を強く握りしめると、ギデオンの後に続いた。宿屋の一階では、すでに出発の準備を終えていたクラウスが、俺たちを待っていた。
「ルークス君!いよいよだね!大丈夫、君ならきっとできるさ!辺境伯様を、君の奇跡で驚かせておやり!」
彼は、そう言って力強く俺の背中を叩いた。その、いつもと変わらない陽気な声が、凍てつきそうだった俺の心を、ほんの少しだけ温めてくれた。
外に出ると、冬の朝の冷たい空気が、一気に肺腑を刺した。俺たちは、まだ人影もまばらな石畳の道を、街の中心に聳え立つ、あの城へと向かって歩き始めた。
近づくにつれて、その巨大さが、現実の重さを持って俺にのしかかってくる。リーフ村の家々が、十軒はゆうに入ってしまいそうな、天を衝くほどの巨大な城門。その上には、レオナルド家の紋章である「剣を掲げる獅子」が、威圧的に彫り込まれていた。
城門の前では、俺たちが村で会った騎士とは比べ物にならないほど、重厚な鎧に身を包んだ衛兵たちが、鋭いハルバードを手に、微動だにせず立っている。その視線は、まるで魂まで見透かすかのように、冷たく、そして鋭い。
ギデオンが、衛兵に羊皮紙の召喚状を見せると、衛兵たちは無言で道を開けた。
俺たちは、分厚い城壁の内側へと、ついに足を踏み入れたのだ。
城の中は、外の喧騒が嘘のような、静寂に包まれていた。磨き上げられた石の床に、俺たちの足音だけが、やけに大きく反響する。壁には、この地の歴史を描いたであろう巨大なタペストリーが掛けられ、所々には、歴戦の勇士が使っていたであろう、美しい装飾の施された武具が飾られていた。
その全てが、このレオナルド家が、いかに長く、そして力強く、この辺境を治めてきたかを、無言で物語っていた。
(……場違いだ)
俺は、心の底からそう思った。ここは、俺のような、辺境の農民の子供がいていい場所ではない。前世のブラック企業で、初めて大企業の役員会議室に通された時の、あの息が詰まるような感覚が、鮮やかに蘇る。
俺が、その圧倒的な威圧感に気圧され、足がすくみそうになった、その時。
腕の中のフェンが、俺の胸に、くん、と鼻先を押し付けてきた。その小さな温もりが、「大丈夫だよ」と、何よりも雄弁に語りかけていた。
俺は、一度だけ、ぐっと唇を噛みしめると、再び顔を上げた。
◇
やがて、俺たちは、ひときわ大きく、そして荘厳な彫刻が施された、樫の木の扉の前で足を止めた。ギデオンは、扉の前に立つ二人の衛兵に目配せをすると、重々しく扉を三度、ノックした。
中から、「入れ」という、低く、威厳に満ちた声が響く。
ギギギ……と、重い音を立てて、扉が開かれた。
その先は、謁見の間だった。
天井は、村の教会よりもずっと高く、壁にはめ込まれたステンドグラスから差し込む朝の光が、床に敷かれた深紅の絨毯の上に、幻想的な模様を描き出している。
そして、その絨毯が続く遥か先。数段高くなった壇上の、巨大な玉座に、一人の男が座っていた。
彼が、この地の領主、辺境伯レオナルド。
年の頃は、四十代半ばだろうか。日に焼けた、厳つい顔立ち。短く刈り込まれた髪には、白いものが混じり始めている。彼が着ているのは、王侯貴族が着るような華美な衣装ではなく、上質だが、動きやすさを重視した、実用的な服装だった。それは、彼が玉座に座る統治者であると同時に、戦場に立つ将軍でもあることを、何よりも強く示していた。
そして、その瞳。
俺は、その瞳を見た瞬間、背筋に氷の刃を突き立てられたかのような、鋭い戦慄を覚えた。それは、クラウスやギデオンが言っていた、「嘘を見抜く」という言葉の意味を、一瞬で理解させる、全てを見透かすような、深く、そして厳しい眼差しだった。
ギデオンは、俺を伴って玉座の前まで進むと、片膝をつき、深く頭を垂れた。
「辺境伯様。リーフ村より、ルークス・グルトを、お連れいたしました」
俺も、見様見真似で、その場に膝をつく。心臓が、今にも張り裂けそうなくらい、大きく、激しく脈打っていた。
レオナルドは、何も言わなかった。ただ、その厳しい眼差しで、玉座から俺を、じっと見下ろしている。その沈黙は、まるで永遠のようにも感じられた。
やがて、彼は、重々しく口を開いた。その声は、謁見の間全体を、ビリビリと震わせるかのようだった。
「……顔を、上げよ」
俺は、おそるおずると、顔を上げた。
「お前が、ルークス・グルトか。聞けば、齢八つにして、干ばつで枯れた村に井戸を掘り当て、雪降る冬に、夏野菜を実らせたそうだな」
その言葉には、感情がこもっていなかった。ただ、事実を確認するかのような、冷たい響きだけがあった。
「……はい」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く、そして上ずっていた。
「行商人クラウスが、献上してきた品々、確かに味わった。野菜の味、そして『プリン』とかいう菓子の味、いずれも見事なものだった。……して、問おう。その知恵、一体どこで手に入れた?」
来た。核心を突く、質問。
俺は、クラウスとギデオンの助言を、必死で思い出す。「小細工は、するな」「誠実であれ」。
俺は、一度目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。そして、父さんが作ってくれた木彫りの人形の感触を、懐で確かめる。
俺は、嘘をつく。だが、その嘘に込める「心」だけは、本物でなければならない。
俺は、再び目を開くと、辺境伯の厳しい瞳を、真っ直ぐに見返した。
「……昔、僕の村に、旅の薬師さんが立ち寄ったことがあります」
俺は、練習した通りの物語を、しかし、感情を込めて語り始めた。
「その人は、僕に、土のこと、植物のこと、そして、人を笑顔にするお菓子の作り方を、たくさん教えてくれました。僕の村は、貧しくて、冬はいつも食べるものに困っていました。干ばつの時は、母さんの作る温かいスープも、飲めなくなってしまいました。……僕は、ただ、もう一度、家族みんなで、温かいスープを飲んで、笑い合いたかった。それだけ、なんです」
俺の言葉に、謁見の間の空気が、わずかに揺らいだように感じた。辺境伯の隣に控えていた、執事らしき老人が、ほんの少しだけ、目を見開いた。
レオナルドは、相変わらず無表情だった。だが、その瞳の奥の光が、先程よりも、さらに鋭くなったのを、俺は見逃さなかった。
「……旅の、薬師か」
彼は、まるで吟味するかのように、その言葉を繰り返した。
「その薬師、名は、何と申す」
予想外の、追加質問。俺の背中に、冷たい汗が流れた。
「……それは……」
俺が、言葉に詰まった、まさにその時だった。
「――お父様!」
謁見の間の静寂を破り、玉座の横にある小さな扉から、一人の少女が、慌てた様子で駆け込んできた。
年の頃は、十歳くらいだろうか。陽光を編み込んだような美しい金髪に、空の色を映したような青い瞳。上質な絹のドレスを身に纏ったその姿は、俺のような農民とは、住む世界が違うことを、一目で理解させた。
「エレナ!今は、謁見の最中であるぞ!控えよ!」
レオナルドが、厳しい声で叱責する。だが、エレナと呼ばれた少女は、その言葉にも怯むことなく、父である辺境伯のもとへ駆け寄ると、その手に持っていたものを、必死の形相で差し出した。
それは、一つの、小さな植木鉢だった。そして、その鉢に植えられているのは、寒さで完全にしおれてしまい、今にも枯れ果てようとしている、一輪の白い花だった。
「お父様、ご覧ください!わたくしの『雪中花』が……!今朝から、こんなに元気がなくなってしまって……!このままでは、枯れてしまいます!」
その、悲痛な叫び。
辺境伯レオナルドは、娘の乱入に、深く、深いため息をついた。だが、その厳しい表情は、娘に向けられる時だけ、ほんの少しだけ、父親のそれへと和らいでいるように見えた。
彼は、枯れかけた白い花と、絶体絶命の窮地から、図らずも救われた俺の顔を、交互に見比べた。そして、その目に、試すような、そしてどこか面白がるような、新たな光を宿らせた。
「……ほう。面白い。ならば、見せてもらおうか」
彼は、玉座に深く座り直すと、俺に向かって言った。
「リーフ村の救世主よ。お前が言う『薬師の知恵』とやらが、真のものならば。その、我が娘の涙を止めてみせよ。この、枯れかけの雪中花を、再び咲かせることができるか?」
それは、あまりにも突然で、そしてあまりにも無慈悲な、王の試練だった。
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【読者へのメッセージ】
第二十九話、お読みいただきありがとうございました!
ついに始まった、辺境伯との謁見。その緊迫感と、絶体絶命の窮地を救った(?)予期せぬ乱入者。物語が大きく動き出す瞬間のドキドキ感を、皆さんと共有できていれば幸いです。
「辺境伯、厳しい!」「エレナ様、登場!」「ルークス、どうするんだ!?」など、皆さんの感想や応援が、ルークスがこの無茶な試練を乗り越えるための、最大の力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
辺境伯から突きつけられた、あまりにも無茶な試練。ルークスは、その知識とポイントで、この窮地を乗り越えることができるのか。彼の真価が、今、問われる!次回、どうぞお見逃さなく!




