第二十五話:旅立ちの朝と、不器用なエール
辺境伯からの使者が去ってから、三日が過ぎた。その三日間は、グルト家にとって、あまりにも短く、そして永遠のように長い時間だった。
旅立ちの日の朝。空は、どこまでも澄み渡った冬晴れだった。
食卓には、いつもと同じ、しかし、今日だけは特別な意味を持つ豆のスープと黒パンが並んでいた。家族の会話は、いつもよりずっと少なかった。だが、その沈黙は、気まずいものではなかった。言葉以上に雄弁に、互いを思いやる温かい空気が、暖炉の火と共に、部屋を満たしていた。
「ルークス、これを」
食事が終わると、母さんが一つの、ずしりと重い布袋を俺の前に差し出した。中には、硬く焼かれた保存用のパンと、塩気の強い干し肉が、ぎっしりと詰まっている。
「旅の途中で、お腹が空くでしょうから。あまり美味しいものではないけれど……これしか、母さんにできることがないから」
母さんの声は、気丈に振る舞おうとすればするほど、悲しげに震えた。その目には、涙の膜が張っている。俺は、その布袋を、宝物のように大切に受け取った。
「ありがとう、母さん。世界で一番美味しいよ」
俺がそう言って微笑むと、母さんはついに堪えきれなくなったように、俯いて肩を震わせた。そんな母さんの肩を、父さんが無言で、しかし力強く抱き寄せる。
父さんは、ゆっくりと立ち上がると、俺の前にしゃがみ込んだ。そして、その節くれだった大きな手で、一つの小さなものを俺の手に握らせた。
それは、彼が昨夜、一睡もせずに暖炉の前で削っていた、小さな木彫りの人形だった。狼にも、犬にも見える、不格好だが、どこか力強い生命力を感じさせる彫刻。それは、俺の相棒、フェンを模して作られたものだった。
「……これを持って行きなさい」
父さんは、それだけを言った。
「お前が、道に迷いそうになった時。一人だと、心が挫けそうになった時。これを見れば、俺たちが、お前の帰る場所が、ここにあることを思い出せるはずだ」
俺は、父さんの手から伝わる温もりと、その言葉の重みに、胸が熱くなるのを感じた。これが、父さんが俺にくれる、最高のお守りだった。
「……うん。ありがとう、父さん」
「にいちゃん、いっちゃうの……?」
ずっと黙っていたマキナが、俺の服の裾を、小さな手でぎゅっと掴んだ。その瞳は、不安そうに潤んでいる。彼女は、まだ事態の全てを理解できていない。ただ、大好きな兄が、どこか遠くへ行ってしまうということだけを、敏感に感じ取っていた。
俺は、マキナの前に膝をつき、その視線を合わせる。
「大丈夫だよ、マキナ。ちょっと、王様みたいに偉い人に、僕が作った美味しい野菜を届けてくるだけだから。すぐに、帰ってくる。だから、いい子で待ってるんだぞ?」
「……うん」
マキナは、こくりと頷くと、俺の首に小さな腕を回して、ぎゅっと抱きしめてきた。その温かさと、ミルクのような甘い匂いが、俺の決意を、少しだけ揺さぶった。
◇
家の外に出ると、俺は息を呑んだ。
村の広場に、村人たちが、ほとんど全員、集まっていたのだ。彼らは、畑仕事も、家の修繕も、全て中断して、ただ、俺を見送るためだけに、そこに立っていた。
俺が、父さんと母さんに付き添われて広場へ向かうと、村人たちが、モーゼの海のように道を開ける。その誰もが、不安と、心配と、そしてほんの少しの誇りが入り混じった、複雑な眼差しで俺を見つめていた。
最初に俺の前に進み出たのは、村長のハンスさんだった。彼は、杖もつかずに、俺の前に立つと、深く、深く、頭を下げた。
「ルークス様。……いや、ルークス。必ず、ご無事で。この村のことは、我ら一同、命に代えても守っておりますゆえ。いつでも、安心して帰ってきなされ」
その言葉は、もはや領主への恐怖に怯える村長のものではなく、一人の孫の旅立ちを案じる、好々爺の温かい励ましだった。
「うん。ありがとう、村長さん」
それを皮切りに、村人たちから、次々と声が飛んだ。
「気をつけてな、ルークス!」
「お前は、俺たちの誇りだ!胸を張って行ってこい!」
「もし、貴族様が無理難題を言うようなら、いつでも逃げ帰ってこい!俺たちみんなで、お前を匿ってやるからな!」
その温かい言葉の奔流に、俺は何度も、何度も頷いた。
「ルークス!」
人混みをかき分けるようにして、老婆マーサさんが、息を切らしながら駆け寄ってきた。その手には、彼女が夜なべして編んでくれたであろう、分厚く、そして驚くほど軽い、動物の毛でできた外套が握られていた。
「街は、この村よりもっと冷えるじゃろう。これを持っていきなさい。わしの、ほんの気持ちじゃよ」
俺は、その温かい外套を受け取り、羽織った。体の芯から、じんわりと温かくなるようだった。
「……絶対、帰ってきてね、お師匠様!」
涙でぐしゃぐしゃの顔をしたリサが、俺の胸に飛び込んできた。
「当たり前だろ。一番弟子を置いて、どこかに行ったりしないさ」
俺は、彼女の頭を優しく撫でた。この村は、俺にとって、ただの故郷ではない。俺が守りたい、もう一つの大きな「家族」だった。
その、温かい歓声の輪から、少しだけ離れた樫の木の陰。
そこに、ゲルトが、一人で立っていた。
彼は、輪に加わろうとはせず、ただ、腕を組み、気まずそうな、そしてどこか羨ましそうな、複雑な表情でこちらを見ている。俺は、彼の視線に気づき、小さく頷いてみせた。
ゲルトは、びくりと肩を震わせると、何かを決意したように、俺の方へずかずかと歩み寄ってきた。そして、村人たちが訝しげに見守る中、俺の前に立つと、一つの、汚れた布包みを、無言で突き出した。
「……なんだ、これ?」
「うるせえ!いいから、受け取れよ!」
ぶっきらぼうな物言いは、相変わらずだった。俺が、戸惑いながらその包みを受け取ると、彼はぷいと顔をそむけたまま、早口で言った。
「……干し肉だ。うちの親父が作ったやつだ。お前が持ってった野菜のおかげで、いつもより出来がいいらしい。……旅の足しにでも、しろ」
それは、彼なりの、最大限のエールだった。俺は、その不器用な優しさに、思わず笑みがこぼれた。
「……ありがとう、ゲルト。助かるよ」
俺がそう言うと、ゲルトは「ふん」と鼻を鳴らすと、もう俺の顔を見ようともせず、踵を返し、人混みの中へと消えていった。その耳が、少しだけ赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
◇
やがて、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。迎えの騎士だ。
俺は、家族と、そして村人たちに、最後の別れを告げた。
「……行ってくる」
騎士は、俺がフェンを抱きかかえているのを見ても、何も言わなかった。ただ、俺を馬の前に乗せると、手綱を握り、ゆっくりと村を後にした。
遠ざかっていく、リーフ村。いつまでも、いつまでも手を振り続ける、父さんと、母さんと、マキナと、そして村の皆の姿。
俺は、涙で滲むその光景を、胸に焼き付けた。
俺は、スローライフを捨てたんじゃない。この、世界で一番温かい場所を守るために、ほんの少しだけ、戦ってくるだけだ。
懐で、父さんが作ってくれた木彫りのフェンを、強く、強く握りしめる。
俺の、人生で最初の旅が、そして、本当のスローライフを取り戻すための戦いが、今、静かに始まった。
---
【読者へのメッセージ】
第二十五話、お読みいただきありがとうございました!
旅立ちの朝、家族や村人たちとの温かい絆、そしてゲルトの不器用なエール。ルークスが守りたいものの価値が、皆さんに伝わっていれば幸いです。
「お父さんのお守りに泣いた」「ゲルト、ツンデレか!」「村のみんな、良い奴すぎる!」など、皆さんの感想や応援が、ルークスの旅路を支える力となります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
ついに村を出て、辺境伯のもとへと向かうルークス。彼を待ち受けるのは、未知の世界と、新たな出会い。物語は、いよいよ新たな舞台『辺境伯領の中心』へと向かいます!次回も、どうぞお見逃しなく!




