第二百五十話:黒い湧き水。崩壊する日常と、赤文字の警告
翌朝。
俺、ルークス・グルトが目を覚ましたのは、いつものように窓から差し込む朝日の暖かさでもなければ、鶏たちの元気な鳴き声でもなかった。
夢を見ていた気がする。
どこまでも続く黄金色の麦畑で、フェンと一緒に走り回る夢だ。けれど、その夢の最後は唐突に暗転した。足元の地面が泥沼に変わり、引きずり込まれていく感覚。
息ができない。苦しい。
「……っ、はぁ!?」
俺は溺れた人のように大きく息を吸い込み、跳ね起きるようにしてベッドから身を起こした。
心臓が早鐘を打っている。嫌な汗が背中を伝う。
ただの悪夢か……そう思って安堵の息を吐こうとした瞬間、俺は激しく咽せた。
「ゴホッ、ゴホッ……! な、なんだこれ……!?」
部屋の空気が、死んでいる。
そう表現するしかなかった。
昨夜、テラスで微かに感じたあの「腐った土」のような臭い。それが一晩のうちに何十倍、何百倍にも濃縮され、屋敷の隙間という隙間から侵入し、俺の寝室を満たしていたのだ。
甘ったるくて、生臭くて、どこか焦げたような刺激臭。
それは、生き物が本能的に「死」や「腐敗」を連想し、全身の毛穴が収縮するような、生理的嫌悪感を伴う最悪の瘴気だった。
そして、何より恐ろしいのは「音」がないことだ。
春のリーフ村の朝は、本来もっと騒がしいはずだ。
森からは小鳥たちの求愛のさえずりが聞こえ、遠くの牧場からは牛の鳴き声が、そして厨房からはマリアさんが朝食を仕込む包丁の音が響いてくるはずなのだ。
だが、今は何も聞こえない。
風の音さえもしない。
まるで、世界そのものが息を潜め、何かに怯えて震えているかのような、重く、粘り気のある沈黙。
「フェン……?」
俺はベッドの脇に視線を落とした。
いつもなら、俺が身じろぎした瞬間に飛び乗ってきて、ザラザラした舌で顔中を舐め回してくるはずの相棒の姿がない。
「……主、よ……」
足元から、弱々しい声が聞こえた。
覗き込むと、フェンがベッドの下の最も暗い場所で、小さく丸まっていた。
その姿は、伝説の魔獣ブラックフェンリルとしての威厳など微塵もなく、雷に怯えるただの子犬のように震えていた。
「フェン! どうした、具合でも悪いのか!?」
俺は慌てて床に膝をつき、彼を抱き寄せようとした。
触れた瞬間、指先に伝わってきたのは異常な熱さだった。
「熱い……! すごい熱だぞ!」
「わからん……。体が、鉛のように重いのだ……。それに……外から、とてつもなく嫌な気配がする……。空気が、汚れている……」
フェンの漆黒の瞳が、虚ろに泳いでいる。
最強の魔獣である彼が、物理的な攻撃を受けたわけでもないのに、ここまで消耗している。
ただ事ではない。
俺の胸の中で、警鐘がけたたましく鳴り響いた。
嫌な予感。背筋を這い上がるような悪寒。
脳裏に、前世で過労死する直前に感じた、あの「世界の終わり」のような閉塞感がフラッシュバックする。
「マズい……これは、何かが起きている」
俺は急いで着替え――ボタンを留める指がもどかしいほど震えていた――フェンを抱きかかえるようにして部屋を飛び出した。
廊下に出ると、異臭はいっそう強くなった。
まるで腐敗した沼の底を歩いているようだ。
階段の下から、マリアさんの悲鳴に近い声と、使用人たちのパニックになったざわめきが聞こえてくる。
「きゃあああっ! 窓が! 窓の外が!」
「落ち着いて! 動かないで!」
俺は手すりを飛び越える勢いで階段を駆け下りた。
ホールには、マリアさんや執事のセバスチャン、そして数名のメイドたちが集まり、青ざめた顔で身を寄せ合っていた。
「ルークス様! 大変です、裏庭が……裏庭が大変なことに!」
いつも冷静なマリアさんが、涙目で俺にすがりついてくる。
「わかっています! いいですか、全員聞いてください! これはただの霧じゃありません!」
俺は声を張り上げ、混乱を制した。
前世の知識が、これは「有毒ガス」や「生物兵器」の類だと告げている。
「窓と扉を全て閉め切り、濡らした布で隙間を目張りしてください! 絶対に誰も外に出さないで! 父さんと母さん、エレナ様たちを一番奥の部屋へ避難させて!」
「は、はい! ルークス様は!?」
「俺は外を見てきます。原因を突き止めないと、対処できませんから」
「危険です!」
「大丈夫、俺には『状態異常無効』のスキルがありますから(嘘だ。そんな便利なものはない。だが、今はそう言うしかない)」
俺はそれだけ言い残し、裏口の扉へと向かった。
重厚な木の扉の向こうから、禍々しい気配が滲み出している。
ごくり、と唾を飲み込み、俺はノブを回した。
◇
外の世界は、死んでいた。
灰色の靄が視界を覆い尽くしている。
春の柔らかな日差しは遮られ、空全体が病んだような鉛色に染まり、まるで太陽が死んでしまったかのような薄暗さだ。
そして、臭い。
扉を開けた瞬間、強烈な悪臭が物理的な圧力を持って俺の顔面を殴りつけた。
生ゴミ、排泄物、硫黄、そして腐った肉……それらを大鍋で煮詰めたような、吐き気を催す最悪の瘴気。
胃の中のものが逆流しそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死でこらえる。
俺は袖で鼻と口を覆いながら、臭いの発生源へと走った。
足元の草が、変色している。
昨日まで鮮やかな緑色だったクローバーが、茶色く枯れ、ドロドロに溶けて地面にへばりついている。
靴底が、じゅるり、じゅるりと嫌な音を立てて沈み込む。
その光景は、進めば進むほど酷くなっていった。
そして、たどり着いた。
我が家の自慢の畑。
昨夜、あれほど美しい新タマネギをもたらしてくれた、希望の場所。
フェンと泥だらけになって耕し、マキナと一緒に種を蒔き、毎日成長を見守ってきた、俺の誇り。
「……嘘だろ」
俺の口から、乾いた音が漏れた。
足の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で踏みとどまる。
そこに「畑」はなかった。
あったのは、黒い沼だ。
見渡す限りの畝が、アスファルトを溶かしたようなドス黒い粘液に覆い尽くされている。
ボコッ、ボコッ……と、泥の表面が不気味に泡立ち、破裂するたびに汚染されたガスが噴き出している。
あんなに瑞々しく、天に向かってピンと伸びていた新タマネギの葉は、見る影もない。
茶色く変色し、原形を留めないほどに溶解し、黒い泥の一部と同化していた。
昨日までそこにあった「生命」の気配が、根こそぎ奪い去られている。
「俺の……タマネギが……」
俺は夢遊病者のように、ふらふらと黒い泥の海に近づいた。
まだ辛うじて形を留めていそうな、白い球根の一つを見つけた。
泥の上に転がっているそれは、まるで戦場に取り残された骸のように見えた。
俺は震える手を伸ばす。
指先が触れた、その瞬間。
グチュッ。
嫌な音と共に、その白い塊は崩れ落ちた。
外側の皮がぬるりと剥がれ、中身が液状になって流れ出す。
まるで腐り落ちた果実だ。
中から膿のような黄ばんだ液体が溢れ出し、黒い泥と混ざり合っていく。
あの爽やかな甘い香りは跡形もない。あるのは、鼻が曲がるような腐敗臭と、死の臭いだけ。
冬の間、毎日欠かさず堆肥をやり、雑草を抜き、フェンと一緒に「大きくなれ」と声をかけ続けてきた結晶。
昨夜、家族みんなで「美味しい」と笑い合い、レオナルド様が「奇跡だ」と褒めてくれた、あの幸せの源。
俺たちが積み上げてきた「丁寧な日常」の全てが。
たった一晩で。
何の前触れもなく。
こんな汚らわしい、黒い汚泥の塊に変えられてしまった。
悲しみ? いや、違う。
最初に胸を突き刺したのは、冷たくて鋭い「喪失感」だ。
心臓の一部を物理的に抉り取られたような痛み。
そして次に湧き上がってきたのは、どうしようもない「虚無感」。
時間にして数百時間、関わった人々の想い、費やしたポイント……その全てが、「無」に帰した。
もったいない。悔しい。
いや、そんな生温かい言葉では足りない。
これは「略奪」だ。
俺たちの日常に対する、一方的で、無慈悲で、あまりにも理不尽な暴力だ。
「グルルルルッ……!!」
隣で、フェンが低い唸り声を上げた。
先ほどまでの弱々しい姿はどこへやら、その漆黒の毛を逆立て、牙を剥き出しにしている。
彼の金色の瞳は、怒りに燃えていた。
その視線が射抜いているのは、泥が湧き出している中心地――畑のさらに奥、水源に近い用水路の方角だ。
あそこから、絶え間なく黒い泥が溢れ出している。
「主よ、下がっていろ! あそこニ『敵』がいル!」
「フェン!?」
「我らの土地を汚す者は、我が喰らい尽くしてやる!!」
フェンが咆哮すると同時に、黒い疾風となって駆け出した。
勇敢な相棒は、主の悲しみを代弁するかのように、この不浄な侵入者を排除しようと、自ら泥の中へと飛び込んでいく。
その足が黒い泥に触れるたび、ジュウジュウと肉が焼けるような嫌な音がして白煙が上がるが、フェンは止まらない。
「待てフェン! 様子がおかしい、行くな!!」
俺の絶叫は、風にかき消された。
フェンが湧き出る泥の源流――用水路のひび割れた石積みへと肉薄し、その強靭な爪を振り上げ、魔力を練り上げた。
だが、その魔力発動が、仇となった。
ボシュッ――!!
泥の中から、圧縮されたガスが一気に噴き出した。
フェンの魔力に反応し、泥そのものが爆発的な反応を見せたのだ。
それは物理的な攻撃ではない。目に見えるほどの高濃度に凝縮された、紫色の「瘴気」の塊だった。
「ガッ……!? グァァァァッ!!」
瘴気を真正面から吸い込んだフェンの動きが、空中でピタリと止まる。
まるで目に見えない巨大な手で鷲掴みにされたかのように。
肺が焼ける音。魔力回路がショートする音。
悲鳴と共に、最強の魔獣であるはずの彼の巨体が、弾き飛ばされ、糸の切れた人形のように泥の上に落下した。
バシャッ、と黒い飛沫が上がる。
「フェン!!」
俺は泥の感触も、腐敗臭も構わず駆け出した。
靴底が泥に沈み込み、足を取られそうになる。ズボンの裾から泥が入り込み、肌がピリピリと焼けるように痛む。
だが、そんなことはどうでもいい。
泥まみれになってもがくフェンの元へ、ヘッドスライディングのように滑り込む。
彼は激しく痙攣していた。
「オ……ェッ、ガハッ……!」
フェンが苦しげに口を開き、胃の中身を吐き出した。
昨夜あんなに美味しそうに食べたスープが、消化されかけの状態で吐き出され、黒い泥と混ざっていく。
彼の自慢だった艶やかな黒毛は、泥の毒素に侵されたのか、見るも無惨な灰色にくすんでしまっている。
「クゥン……主、よ……ごめ、ん……」
「喋るな! 息をするな!」
俺はフェンの頭を抱き寄せた。その体は火のように熱く、脈は早鐘のように打っている。
「体が……熱い……中から、何かが……暴れて……」
焦点の定まらない瞳で、フェンが俺を見上げる。
魔獣は、自然界のマナを取り込んで生きている生物だ。
だからこそ、そのマナ自体が汚染された環境においては、人間以上に脆い。
呼吸をするたびに、汚染されたマナが彼の体内を巡り、血管を、内臓を、魔力回路を、内側から腐らせていくのだ。
俺たちが酸素を取り込んで生きるように、彼は毒を取り込んで死にかけている。
「しっかりしろ! 今、治してやる! 『状態異常回復』!」
俺は手のひらをかざし、なけなしの魔力を注ぎ込む。
だが、淡い光はフェンの体に届く前に、黒い瘴気に阻まれて霧散してしまう。
「なっ……!? どうなってるんだ!?」
魔法が、効かない?
いや、魔法を発動するための周囲のマナが、全て汚染されているせいで、術式が成立しないのか。
治癒魔法さえも拒絶する、呪われた大地。
「クゥ……ン……」
フェンの目から光が失われていく。
俺の腕の中で、相棒の命が、砂時計のように零れ落ちていく。
その時だった。
キィィィィィン……!
ザザッ……ザザザッ……!
脳内に、頭蓋骨を直接ドリルで削るような、激しいノイズが走った。
いつもの「ピロン」という澄んだ電子音ではない。
ガラスを爪で引っ掻いたような、あるいは壊れたラジオのような、不快な不協和音。
「うぐっ……!?」
頭を押さえる俺の視界が激しく明滅する。
いつもの穏やかな青いウィンドウが、ノイズ混じりの横線によって強制的に書き換えられていく。
青が滲み、黒く塗りつぶされ、そして鮮血のような赤が浮かび上がる。
現れたのは、[SYSTEM ERROR]の文字と、血のような赤色のウィンドウ。
見たこともない、禍々しいフォントの羅列が、網膜に焼き付く。
**[WARNING] [WARNING] [WARNING]**
**高濃度魔素汚染を検知しました。**
**侵食レベル:カテゴリー4(災害級)**
**汚染源:地下水脈経由の「古の魔法廃棄物」**
**[SYSTEM ALERT]**
**対象エリア:リーフ村全域**
**土壌汚染率:12%(急速上昇中)**
**大気汚染率:8%(急速上昇中)**
**生態系への影響:甚大(回復困難)**
**推定全滅時間:残り71時間58分**
**[推奨:直ちにこのエリアを放棄し、生存可能な地域へ避難してください]**
……全滅?
避難?
この村を捨てて逃げろと言うのか?
俺はウィンドウの向こう側の景色を見た。
ドロドロに溶かされ、死に絶えたタマネギ畑。
かつては緑豊かだった森が、灰色に染まっていく様。
俺の腕の中で苦しげに息をし、衰弱していく大切な相棒。
そして、その背後にある屋敷。
そこには、俺を信じて待っている父さんが、母さんが、マキナが、エレナ様たちがいる。
俺たちが、血と汗を流して開拓した土地だ。
みんなで笑い合い、作物を育て、未来を語り合った場所だ。
やっと手に入れた、俺の「帰る場所」だ。
それを、置いて逃げろと?
また、「仕方がない」と言って諦めろと?
その瞬間、俺の中で何かが切れた音がした。
ふつふつと、腹の底から、冷たくて重い、どす黒い感情が湧き上がってくる。
それは恐怖ではない。絶望でもない。
前世で、骨の髄まで味わったあの感覚だ。
会社の都合で。上司の気まぐれで。
「経営判断」という名の理不尽な命令で。
俺の生活が、時間が、健康が、そして最後には命さえもが、削り取られ、奪われていったあの感覚。
必死に働いて貯めた金も、大切だった後輩の命も、何もかもが「システム」という暴力の前に無力だったあの頃。
――またか。
また、俺から奪うのか。
理不尽なシステム。理不尽な災害。理不尽な運命。
俺がやっと手にしたささやかな幸せを、土足で踏み躙り、嘲笑うかのように奪おうとする全てのものへの。
煮えたぎるような、それでいて氷のように冷徹な怒り。
「……ふざけるな」
俺は低く、地を這うような声で呟いた。
フェンの体を強く抱きしめる。その高熱を腕に感じながら、俺は赤く点滅するシステムウィンドウを睨みつけた。
[推奨:避難]の文字が、俺を嘲笑っているように見える。
避難だと?
冗談じゃない。ここは俺の家だ。俺の領地だ。
一歩たりとも引くものか。これ以上、俺の「大事なもの」を指一本たりとも奪わせてたまるか。
俺はゆっくりと立ち上がった。
泥だらけの服も、痛みも気にならない。
目じりに溜まっていた涙はもう乾いた。
今、俺の頭の中にあるのは、冷え切った損益計算書と、全てを焼き尽くすような闘志だけだ。
「おい、システム。聞こえているか」
俺は虚空に向かって、悪魔に商談を持ちかけるように言い放った。
声には、自分でも驚くほどのドスが効いている。
「金ならある。いくらだ? 100万か? 1000万か?」
俺の瞳が、青白く、そして鋭い光を帯びて輝き出す。
それはかつて、深夜のオフィスで「生きるため」に攻略サイトを貪った時と同じ、いや、それ以上に飢えた「捕食者」の目だった。
スローライフを楽しむ穏やかな農夫の顔は、もうそこにはない。
あるのは、目的のためなら手段を選ばない、ポイントを極めた「怪物」の顔だ。
「全部買い取ってやるよ。このクソッタレな災厄を、根こそぎな」
残り時間、71時間55分。
スローライフは一時休止だ。
俺たちの日常を取り戻すための、手段を選ばない総力戦が、今始まる。
【読者へのメッセージ】
第二百五十話をお届けしました。
平和な日常が一転、地獄絵図へと変わる急展開。
愛する畑、そして相棒フェンが傷つけられる姿を描くのは、執筆していて非常に胸が痛む作業でした。
ですが、この「喪失」こそがルークスを覚醒させます。
理不尽に奪われることの痛みを誰よりも知る彼だからこそ、その怒りはシステムさえも凌駕するのです。
「金ならある」
この言葉に込められた、彼の狂気にも似た覚悟。
次回、ルークスの本気が炸裂します。
制限なし、出し惜しみなしのポイント無双で、この理不尽な災厄に立ち向かう彼の姿を、どうか見届けてください。
続きが気になる方、ルークスを応援してくださる方は、ぜひブックマークと評価をお願いいたします!




