第二十四話:家族という名の城壁
「我が主、辺境伯レオナルド様からの、お召しである」
冬の凍てついた空気を切り裂き、その言葉は絶対零度の刃となって、俺の、そしてリーフ村の穏やかな日常に突き刺さった。
辺境伯からの、召喚状。
俺は、目の前に差し出された、赤い蝋で封印された羊皮紙を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。頭の中が、真っ白になる。前世の記憶が、警鐘を鳴らしていた。理不尽な上司、横暴な取引先、逆らうことの許されない絶対的な権力者。その全てが、「貴族」という二文字に凝縮されて、俺の喉元に冷たい刃を突きつけてくる。
(嫌だ……行きたくない……)
俺がようやく手に入れた、この温かい食卓。家族の笑顔。穏やかな時間。その全てが、この一枚の紙によって、暴力的に踏みにじられようとしている。
俺の足元で、フェンが俺を守るように「グルルル……」と、喉の奥で威嚇の声を漏らす。その小さな体は、俺の前に立ちはだかる、鎧の騎士の威圧感に、恐怖で小刻みに震えていた。
村人たちは、息を殺して、この異常事態を見守っている。村長のハンスさんですら、領主の名の下に突きつけられた絶対的な命令を前に、一言も発することができない。
重い沈黙を破ったのは、家から飛び出してきた母さんだった。
「……っ!ルークス!」
母さんは、俺の前に回り込むと、まるで雛鳥を庇う母鳥のように、両腕を広げて俺を背後にかばった。その顔は、恐怖で真っ青だったが、その瞳には、息子を守ろうとする母親だけが持つ、決死の覚悟が燃えていた。
「こ、この子は、まだたった八つの子供です!何か、間違いではございませんか!?」
母さんの震える声での抗議に、しかし、鎧の騎士は眉一つ動かさなかった。
「間違いではない。辺境伯様は、このルークス・グルトをご指名だ」
「そんな……!一体、この子に何のご用だというのですか!」
騎士が、その問いに答えようと口を開きかけた、その時だった。
「……リリア。下がりなさい」
静かだが、有無を言わせぬ重みを持った声。父さんだった。
父さんは、いつの間にか俺と母さんの前に立つと、その節くれだった大きな体で、騎士の威圧感を正面から受け止めていた。その手には、いつも使っている薪割り用の手斧が、固く握られている。それは、決して騎士に刃を向けようという敵意の表れではなかった。ただ、一人の父親として、家族という名の城壁を守り抜こうとする、無言の、そして揺ぎない決意の表明だった。
父さんは、騎士の目を真っ直ぐに見据えたまま、深々と、しかし堂々と頭を下げた。
「我が息子、ルークス・グルトに、領主様よりお召しがかかったとのこと、確かに承りました。……して、ご用件をお伺いしても?」
父さんの、冷静で、毅然とした態度。それは、恐怖に震える母さんと、混乱する俺、そして動揺する村人たちに、不思議な落ち着きを与えた。
騎士は、農民である父さんが見せた予想外の胆力に、ほんの少しだけ目を見開いたが、すぐに無表情に戻ると、淡々と用件を告げた。
「先日、行商人クラウスが、この村から献上した品についてだ。辺境伯様は、この時期にこれほどの品質の野菜、そして未だかつて味わったことのない菓子を届けた者の才を、高く評価しておられる。一度、顔を見て、直接言葉を交わしたい、と。それだけだ」
その言葉に、村人たちの間から「おお……」と、どよめきが起こる。俺の起こした奇跡が、ついに領主様の耳にまで届いた。それは、この村にとって、この上ない名誉なことのはずだった。
だが、俺たちの心は、少しも晴れなかった。
騎士は、言葉を続ける。
「三日後の朝、迎えを寄越す。それまでに、支度を整えておくように。……良いな?」
それは、質問の形をしていながら、一切の否やを許さない、絶対的な命令だった。
騎士は、それだけを告げると、父さんに一瞥もくれることなく、俺の目をもう一度だけ、じっと見つめた。そして、踵を返すと、再び馬上の人となり、雪道を、来た時と同じように、静かに去っていった。
◇
騎士の姿が完全に見えなくなるのを待って、村人たちは、堰を切ったように騒ぎ出した。
「すげえ!ルークス様が、お貴族様にお呼ばれだ!」
「これは、村の名誉だぞ!」
一部の者たちは、手放しで喜んでいた。だが、大半の者たちは、不安げな表情で顔を見合わせている。
「だが、相手は貴族だぞ。何か粗相でもあったら……」
「ルークス様は、連れて行かれて、もう帰ってこないんじゃないのか……?」
そんな村人たちの喧騒を背に、俺たちは、重い足取りで家の中へと戻った。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てて燃えている。だが、その温かさも、今の俺たちの凍てついた心を溶かすことはできなかった。
テーブルの上に置かれた、辺境伯からの召喚状。それは、まるで不吉な予言の書のように、不気味な存在感を放っていた。
「……嫌よ。絶対に、行かせたりしないわ」
母さんが、涙声で言った。
「あなた、何とか言ってくださいな!あの子を、貴族様のところにやるなんて!もし、何か気に入らないことがあって、牢屋にでも入れられたら……!私、耐えられない!」
母さんは、父さんの腕にすがりつき、懇願する。だが、父さんは、苦渋に満にた顔で、固く唇を結んでいるだけだった。
「……リリア。気持ちは分かる。だが、相手は、この土地の領主様だ。逆らうことなど、できはしない」
「じゃあ、逃げましょう!今すぐ、この村を捨てて!どこか遠いところへ……!」
「逃げて、どうなる。我ら一家は、お尋ね者だ。それに、もし我々が逃げれば、この村の皆に、どんな迷惑がかかるか……」
父さんの言葉に、母さんはぐっと言葉を詰まらせた。そうだ。俺たちだけの問題じゃない。俺たちが領主の命令に背けば、この村全体が、罰せられることになるかもしれない。
重苦しい沈黙が、部屋を支配する。
俺は、二人のやり取りを、ただ黙って聞いていた。頭の中では、前世の記憶と、この世界で得た幸せが、激しく渦を巻いていた。
(スローライフ……。俺は、ただ、静かに暮らしたかっただけなんだ。なのに、どうして……)
ポイントシステムという、規格外の力。それを使えば、確かに人は笑顔になる。だが、その力は、同時に、俺の望まない注目を集め、俺の大切な日常を脅かす、諸刃の剣でもあった。
(またかよ……。また、俺は、理不尽な力に、大切なものを奪われるのか……)
脳裏に、病院のベッドで力なく笑っていた後輩の顔が蘇る。あの時、俺は無力だった。金がなくて、力がなくて、ただ見ていることしかできなかった。
だが、今は違う。俺には、力がある。ポイントという、あらゆる理不尽を覆しうる、可能性の力が。
(……逃げる?ブラック企業で叩き込まれた思考が、冷徹に損得を弾き出す。逃亡という選択は、最悪の『悪手』だ。この村を捨て、父さんと母さんが築いてきた全てを捨て、お尋ね者として怯えながら暮らす?そんなの、スローライフなんかじゃない。ただの、敗走だ。短期的な安寧のために、長期的な幸福の全てを失う愚行だ)
俺は、ゆっくりと顔を上げた。心配そうに俺を見つめる、父さんと母さんの顔が見える。足元では、フェンが俺の膝に顎を乗せ、不安げに俺を見上げている。
守りたい。この温かい食卓を。この家族の笑顔を。
そのためなら、戦うしかない。
「……父さん、母さん」
俺は、震える声を、必死で押さえつけながら、言った。
「僕、行くよ」
その一言に、母さんは息を呑み、父さんは固く結んでいた唇を、わずかに開いた。
「僕が行けば、それで済むんだろう?僕が、この村を救ったみたいに、今度は、辺境伯様を『笑顔』にさせてみせる。それが、この状況における唯一の最適解だ。そうすれば、きっと、この村も、父さんたちも、安泰だ。そうだろ?」
それは、八歳の子供が口にするには、あまりにも打算的で、そして悲しい覚悟の言葉だった。
だが、それしか道はないのだと、俺の魂に刻み込まれた理不尽への処世術が、冷徹に結論付けていた。
俺の決意を込めた瞳を見て、父さんは、しばらくの間、何かを深く、深く考えていた。やがて、彼はゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「……分かった。お前の覚悟、受け取った」
そして、俺の肩に、節くれだった大きな手を置いた。
「だが、忘れるな、ルークス。お前は、一人じゃない。俺も、リリアも、マキナも、そしてこの村の皆も、お前の味方だ。……何があっても、お前の帰る場所は、ここにある」
父さんの、温かい言葉。それは、これから理不尽な世界に一人で立ち向かおうとしていた俺の心に、何よりも強い、お守りとなった。
三日後、俺は、辺境の村の農民として、この土地の領主に、会いに行く。
俺のスローライフを守るための、人生で最初の、大きな戦いが、始まろうとしていた。
【読者へのメッセージ】
第二十四話、お読みいただきありがとうございました!
辺境伯からの召喚状を受け、ルークスとその家族が下した、苦渋の決断。父アルフレッドの、息子への深い信頼と愛情に、胸が熱くなった方は、ぜひ下の評価(☆)や感想、ブックマークで教えていただけると嬉しいです!
「お父さん、かっこよすぎる!」「家族の絆に泣ける」「いよいよ辺境伯のもとへ…!」など、皆さんの応援が、ルークスの旅路を照らす光となります。
ついに村の外へと旅立つことを決意したルークス。彼を待ち受けるものとは?次回、旅立ちの朝。どうぞお見逃しなく!




