第二十三話:辺境伯からの呼び声
行商人クラウスが、嵐のように現れ、そして去っていってから、一月ほどの時が流れた。
リーフ村は、すっかり静けさを取り戻していた。クラウスが残していった大量の塩と小麦粉は村の共有財産として厳重に管理され、人々の心を冬の不安から完全に解放してくれた。そして何より、俺の『陽だまりの家』から供給される新鮮な野菜が、村の食卓を、ひいては人々の心を、豊かに彩り続けていた。
「ルークス、今日のスープはカブを使ってみたの。甘くて美味しいわねぇ」
「にいちゃん、にんじんしゃん、あまい!」
食卓に並ぶのは、色鮮やかな野菜のシチュー。雪景色を眺めながら、夏野菜の味がする温かいスープをすする。そんな、以前では考えられなかった贅沢な日常が、もはやリーフ村の当たり前になりつつあった。
俺の日常も、穏やかなものだった。朝はハウスの管理をし、昼はフェンと森を散策しながら彼の食料と薪を確保する。そして夜は、家族団らんの温かい食卓を囲む。ポイントは、村人たちからの日々の感謝によって、ゆっくりと、しかし着実に貯まっていく。
それこそが、俺が前世で焦がれ続けた、理想のスローライフそのものだった。このまま、この村で、静かに、穏やかに、季節の移ろいと共に生きていきたい。俺は、心からそう願っていた。
時折、俺は懐から、クラウスが残していった、焼き印の押された木の札を取り出しては眺めていた。
(もっと、多くの人を、笑顔に……か)
クラウスの熱のこもった言葉が、脳裏に蘇る。自分の作ったもので、家族以外の誰かが喜んでくれる。その喜びは、確かに俺の心を満たしてくれた。だが、それと同時に、この穏やかな日常が壊されてしまうのではないかという、漠然とした不安も感じていた。
辺境伯。貴族。前世の記憶が、警鐘を鳴らす。面倒ごとには関わるな、と。俺が守りたいのは、世界じゃない。この、手の届く範囲にある、ささやかな幸せなのだから。
俺は、木の札を再び懐にしまい込むと、ハウスの中で青々と茂る葉に、そっと指先で触れた。この温もりがあれば、今はそれで十分だ。俺は、そう自分に言い聞かせた。
◇
そんな穏やかな日々の中で、村にはもう一つ、静かな、しかし確実な変化が訪れていた。
ゲルトだ。
あの日以来、彼が俺に敵意を向けてくることは、一切なくなった。それどころか、彼は変わった。以前のように、一人で無為に森を彷徨うのではなく、黙々と、父親の仕事を手伝うようになったのだ。
朝、俺がハウスへ向かうと、ゲルトが父親と一緒に、凍てついた道に砂を撒いている姿を見かける。昼、森へ入れば、彼が仕掛けたであろう、小動物を捕るための巧妙な罠が、あちこちに設置されているのを目にするようになった。そのどれもが、以前の彼の自己満足な「努力」とは違う、家族の生活を支えるための、地に足の着いた労働だった。
俺と道で顔を合わせると、彼はまだ気まずそうに視線を逸らす。だが、その背中からは、以前のような刺々しい棘は消え、代わりに、自分のやるべきことを見つけようと模索する、不器用な少年のか細い決意のようなものが感じられた。
その変化が、俺は少しだけ、嬉しかった。
◇
その日も、リーフ村は、凍てつくような晴天に恵まれた、穏やかな一日になるはずだった。
俺が、家の前でフェンと一緒に雪かきをしていると、村の入り口の方が、にわかに騒がしくなるのが分かった。井戸の周りにいた女たちが、何かを見て、ひそひそと囁き合っている。
「どうしたんだろうな、フェン」
「ワン?」
俺が首を傾げていると、やがて、その騒ぎの原因が、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
馬だ。それも、村の農耕馬とは明らかに違う、均整の取れた体つきをした、見事な葦毛の軍馬。その背には、一人の男がまたがっていた。
男は、豪華な装飾こそないが、上質な革と鉄で仕立てられた、実用的な鎧を身につけていた。腰に下げた長剣の柄には、使い込まれた痕跡がある。それは、お飾りの騎士ではない、戦場を知る本物の武人の空気を漂わせていた。
村人たちは、その威圧的な姿に、恐れをなして道を譲る。馬は、雪を踏みしめる確かな足取りで、まっすぐに村長のハンスさんの家の前で止まった。
男は、馬から降りると、驚きに固まっているハンスさんを一瞥し、低く、しかしよく通る声で尋ねた。
「ここが、リーフ村で間違いないか」
「は、はい!そうでございますが……旦那様は、一体どちらの……?」
ハンスさんの問いに、男は答えなかった。ただ、その鋭い視線で、集まってきた村人たちをゆっくりと見回す。そして、その視線は、村人たちの輪から少し離れた場所に立つ、俺の上で、ぴたりと止まった。
男は、ハンスさんを無視して、まっすぐに俺の方へと歩いてくる。その一歩一歩が、まるで値踏みをするかのように、重い。俺の足元で、フェンが「グルル……」と低い唸り声を上げ、警戒心を露わにした。**(この反応は…?敵意じゃない。もっと硬質で、揺るぎない何か…任務への強い意志のようなものを感じ取っているのか?)俺はフェンの背中をそっと撫でて落ち着かせる。**
男は、俺の目の前で足を止めると、八歳の子供である俺を、その厳しい目で見下ろした。
「……お前が、ルークス・グルトか」
その声には、一切の感情がこもっていなかった。俺は、唾を飲み込みながら、黙って頷く。
男は、俺の返事を確認すると、懐から一枚の、丁寧に巻かれた羊皮紙を取り出した。それは、赤い蝋で固く封印されており、そこには、見慣れない荘厳な紋章が、くっきりと刻印されていた。
それは、この辺境伯領を治める、レオナルド家の紋章だった。
男は、その羊皮紙を、俺の前に無言で差し出した。
「我が主、辺境伯レオナルド様からの、お召しである」
辺境伯からの、召喚状。
その言葉は、冬の冷たい空気の中で、まるで絶対零度の響きを持って、俺の鼓膜を震わせた。
集まった村人たちから、息をのむ音が聞こえる。母さんが、心配そうに家から飛び出してくるのが見えた。
俺が望んだ、穏やかなスローライフ。その終わりを告げる鐘の音が、今、確かに、鳴り響いた。
俺は、差し出された羊皮紙と、男の厳しい顔を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
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【読者へのメッセージ】
第二十三話、お読みいただきありがとうございました!
穏やかな日常に、ついに訪れた、外の世界からの呼び声。ルークスのスローライフは、一体どうなってしまうのか。この緊迫感と、今後の展開への期待感を、皆さんと共有できていれば嬉しいです。
「ついに来たか!」「お父さん、どうする!?」「フェン、唸れもっと唸れ!」など、皆さんの感想や応援が、ルークスに次の一歩を踏み出す勇気を与えます。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
辺境伯からの、突然の召喚。ルークスは、そして家族は、この呼び声にどう応えるのか。物語は、辺境の村という小さな舞台から、大きく動き出します。次回、運命の決断。どうぞお見逃しなく!




