第二百二十九話:さらばエルフの森、そしてカレー貿易の始まり
エルフの森を出発する朝。
俺、ルークス・グルトの荷馬車は、行きよりも遥かに重く、そして甘い香りを漂わせていた。
積まれているのは、聖樹から採取された大量の『美容樹液(原液)』の樽。そして、俺のアイテムボックスの最深部には、厳重にロックされた『米(籾)』と『大豆』が鎮座している。
見送りには、騎士団長エルウィン、大長老ヴァレン、そして多くのエルフたちが集まっていた。
だが、そこに涙や感傷的な別れの言葉はない。あるのは、互いの利益を貪欲に追求する「商談」の熱気だけだ。
「……ルークス殿。確認だが、次回の『スパイス・ミックス(カレー粉)』の納品は、来月の新月の日で間違いないな?」
エルウィンが、恋人との約束を確認するかのような真剣な眼差しで詰め寄ってくる。
彼の手には、すでに空になったタッパーが握りしめられていた。
「安心しろ、団長。リーフ村で量産体制を整え次第、定期便を出す。その代わり、こっちの化粧水の瓶詰め作業、遅らせるなよ? 王都の貴族夫人が口を開けて待ってるんだからな」
「承知している。……もしスパイスが遅れたら、騎士団総出で貴殿の村まで『督促』に行かねばならんからな。これは脅しではない、切実な願いだ」
「ははは、怖い怖い。……大長老も、ちゃんと畑の土を見てやってくださいよ」
俺が視線を向けると、ヴァレンは泥で汚れた法衣のまま、ニヤリと笑った。
「ふん。若造に言われるまでもない。……あの大豆とかいう豆、味噌にする前に少し分けてくれんか? あれを煎って酒のつまみにすると、止まらなくてな」
「……あんたら、順応早すぎだろ」
俺たちは、湿っぽい握手の代わりに、ガッチリと「契約書」を確認し合うような力強い視線を交わした。
英雄と救われた民ではない。
生産者と消費者、そして共同経営者としての、対等で太いパイプがここに完成したのだ。
「――御者、出せ! 目指すはリーフ村だ!」
俺の号令と共に、重い荷馬車が動き出す。
森の出口で、俺は隣に座るフィオナに声をかけた。
「……本当によかったのか? 生まれ故郷が再生したんだ。聖域の守護者として、あっちに残る道もあっただろ」
フィオナは、遠ざかる翠色の森を一度だけ振り返り、それからフンと鼻を鳴らして前を向いた。
「……馬鹿言わないでよ。あんな静かなだけの森に戻ったら、私、退屈で死んじゃうわよ。それに……」
彼女はチラリと俺を見て、少しだけ頬を染めながら、しかし不敵に笑った。
「誰かが監視してないと、あんたまた変なもの(爆弾とか)作るでしょ? 私の『若返り化粧水』の売上配分も管理しなきゃいけないし。……ま、あくまでビジネスパートナーとして、ついて行ってあげるだけなんだからね!」
「はいはい、頼りにしてるよ、敏腕マーケターさん」
こうして、俺たちはエルフの森を後にした。
荷馬車の車輪が、未来への希望と、何よりも俺の食欲を乗せて軽快に回る。
◇
数日後。リーフ村への帰還。
村の入り口では、村長ハンスやロベルト、母リリアたちが「英雄のお帰りだ!」と歓声を上げて出迎えてくれた。
だが、俺の心はすでにここにはなかった。
「……すまん、母さん、ハンスさん。宴会は後だ。土産話も後でする。俺には今……どうしても、やらねばならない『神聖な儀式』があるんだ」
俺は鬼気迫る表情でそう告げると、挨拶もそこそこに、籾の入った袋を抱えて全速力で自宅のキッチンへと駆け込んだ。
「えっ? ルークス? 儀式って……魔王でも復活させる気!?」
背後でハンスの悲鳴が聞こえたが、今の俺には「魔王復活」よりも重大なイベントが待っている。
キッチンに駆け込んだ俺は、震える手で籾を精米(ポイント交換した小型精米機を使用)し、白く輝く「生米」を取り出した。
土鍋を用意する。水は、エルフの森から持ち帰った「聖域の湧き水」だ。
「……フェン、フィオナ。静かにしてくれ。ここからは、時間と温度との真剣勝負だ」
『……主よ。いつになく殺気立っているな』
「……ごくり。ルークスがここまで本気になる食材……」
俺は、ボウルに米を入れ、水を注ぐ。
最初の一回目は、米がぬかの臭いを吸わないように素早くかき混ぜて水を捨てる。
二回目からは、手のひらの付け根を使って、優しく、リズミカルに研ぐ。
シャカ、シャカ、シャカ……。
心地よい音がキッチンに響く。白濁した水が、徐々に透明になっていく。それはまるで、俺の魂についた異世界の垢を落とし、前世の記憶を磨き上げているかのようだ。
ザルに上げて吸水させること三十分。米粒が水を吸って白く不透明になり、ふっくらとしてくる。
「よし……炊くぞ」
土鍋に米と水を入れ、蓋をする。
火加減は、前世の記憶に刻み込まれた呪文の通り。
「はじめチョロチョロ、中パッパ……」
コト、コト、コト……。
やがて、土鍋の中から沸騰を知らせる音が聞こえ始める。
蓋の穴から、勢いよく白い蒸気が噴き出す。
その瞬間、キッチン全体に広がったのは――甘く、どこか懐かしく、そして日本人のDNAを暴力的に揺さぶる、「おねば」の香りだった。
「……っ! この匂い……! ああ、この匂いだ……!」
俺は換気扇もないキッチンで、その蒸気を全身で浴びた。
ブラック企業の帰り道、深夜のコンビニ弁当ではなく、実家で母が炊いてくれたあのご飯の匂い。遠い記憶が、湯気と共に蘇る。
赤子泣いても蓋取るな。
じっと蒸らし時間を耐え、俺は意を決して土鍋の蓋に手をかけた。
「……開封」
パカッ。
ボワァァァァァッ!
立ち上る真っ白な湯気の向こうから現れたのは、一粒一粒が立ち上がり、宝石のようにツヤツヤと輝く「銀シャリ」だった。
表面には、美味しく炊けた証拠である「カニ穴」が無数に空いている。
「な、なにこれ!? 宝石!? 白い宝石なの!?」
『……甘い匂いだ。主よ、これは……ただの草の実ではないな?』
フィオナとフェンが身を乗り出す。
俺は何も言わず、水で手を濡らし、粗塩を掌にまぶした。
そして、熱々の炊きたてご飯を両手で掬い上げ、火傷しそうな熱さを堪えて、優しく、ふわりと握る。
三回だけ、形を整えるように力を込める。
完成した「塩むすび」。
余計な具などいらない。米と塩、そして俺の愛情だけで構成された、究極の料理。
「……いただきます」
俺は、大きく口を開けて、その白き塊にかぶりついた。
――ハフッ。
口の中に広がる、圧倒的な熱。
噛み締めた瞬間に弾ける、米粒のしっかりとした弾力。
そして、噛めば噛むほどに溢れ出してくる、穀物の豊潤な甘みと、塩が引き立てる旨味。
「……んぐっ……、うっ……!」
言葉にならなかった。
味覚情報が脳に届いた瞬間、俺の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「……うまい……。うまいよぉ……」
異世界に来て、ポイントで贅沢な肉も食った。エルフの神秘的な料理も食った。
だが、どれもこれも、この「塩むすび」の前では霞んでしまう。
これは、ただのカロリー摂取ではない。
これは、「帰郷」だ。
「……帰ってきた。俺は今、日本に……実家の食卓に、帰ってきたんだ……」
俺は声を上げて泣きながら、塩むすびを頬張り続けた。
「ル、ルークス!? どうしたの、泣くほど美味しいの!?」
『……貸せ。私が毒見をしてやる』
心配したフィオナとフェンも、俺の真似をしておにぎりを握り、口に運ぶ。
「……!! な、なにこれ!? 甘い! 果物みたいに甘いのに、食事としての重厚感がある! この粘り気が……舌に絡みついて……幸せの味がする!」
『うむ……! これは……肉ではないのに、力が湧いてくる。不思議な満足感だ。主よ、これは「魔性の実」だな!』
二人もまた、銀シャリの魔力に魅了され、夢中で頬張っている。
「……おかず? いらないな。この米があれば、それだけでご馳走だ」
俺は涙を拭い、空になった土鍋の底に残った「おこげ」を見つめながら、深く、深く安堵の息を吐いた。
数億ポイントの魔力よりも、世界を救う名声よりも。
今、俺の手の中にある、この温かいおにぎりこそが、俺がこの世界で本当に手に入れたかった「スローライフ」の結晶だったのだ。
窓の外では、リーフ村の穏やかな夕暮れが広がっている。
俺の異世界生活は、この「銀シャリ」と共に、第二章――本当の意味での「豊かな食卓」へと突入する。
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**【読者へのメッセージ】**
いつもご愛読ありがとうございます!
第二百二十九話、いかがでしたでしょうか?
ついに、ついにルークスが「米」を食べました!
日本人にとって、米とはただの食材ではなく「魂」そのもの。
ルークスの涙に、共感していただけた方も多いのではないでしょうか。
エルフ編を終え、最高の食材を手に入れたルークス。
ここから先は、米を使った料理(カレーライス、丼もの、寿司!?)で、さらに異世界の食文化を侵略していきます!
「お腹空いた!」「おにぎり食べたい!」と思ってくださった方は、ぜひ【評価・感想・ブックマーク】をお願いします!
皆様の応援が、ルークスの「おかわり」を支えます!
次回、第二百三十話――「米と味噌汁、そして最強の朝食」。お楽しみに!




