第二百十一話:禁忌の召喚と、王都を覆う「飢餓の雲」
『夕暮れ亭』の夜は、かつてないほどの祝祭ムードに包まれていた。
アベル王子の不正が暴かれ、包囲網が瓦解した勝利の余韻。
店内に吊るされた魔法ランプの温かい光の下、スラムの住人たちがジョッキを掲げ、ロベルトが豪快に笑い、エレナ様が――少し顔を赤くしながらも、楽しげにゲイルさんの料理を配っている。
「ほら、ルークスも飲め! 今日は俺の奢りだ! あの意地悪な衛生局長が逃げ出した時の顔、見せてやりたかったぜ!」
「ほどほどにしてくださいよ、ロベルトさん。明日も配送があるんでしょう?」
俺もまた、ジョッキ片手に苦笑しながら、この温かい光景を眺めていた。
守りきった。
理不尽な権力から、俺たちの日常を、スラムのみんなの生活を、そして俺の大切な農園を。
テーブルに並ぶのは、俺の畑で採れたトマトのカプレーゼ、大根のステーキ、そして野菜たっぷりの特製シチュー。どれもが生命力に溢れ、食べた人々の頬を薔薇色に染めている。
「……美味しい。みんなで食べると、もっと美味しいですわね」
平民服のエレナ様が、隣で微笑む。その笑顔には、もう貴族令嬢としての仮面はない。一人の少女としての、等身大の幸福があった。
この幸せな時間が、これからも続いていくのだと、そう信じていた。
俺たちが汗水垂らして耕したこの場所は、もう誰にも奪わせない。
――その時だった。
「……ッ!?」
足元で、客から貰った特大の骨付き肉を貪っていたフェンが、弾かれたように顔を上げた。
ガキン、と骨が床に落ちる音すら、不吉に響く。
フェンは全身の漆黒の毛を針のように逆立て、尻尾を股の間に巻き込み、喉の奥で低く、今まで聞いたこともないような危険な唸り声を漏らした。
「どうした、フェン? 腹でも壊したか?」
「……不味い」
フェンが吐き捨てるように言った。その金色の瞳孔が、極限まで収縮している。
「とてつもなく『不味い』臭いがするぞ。主よ……腐った肉とも、毒とも違う。世界そのものが腐り落ちるような、底なしの虚無の臭いだ」
俺はフェンの視線を追って、窓の外を見た。
夜空に浮かぶ満月。
その輝きが、不自然な紫色に濁り始めていた。
いや、違う。雲がかかったのではない。
何かが――無数の「小さな影」の集合体が、月の光を遮るように、王都の上空を覆い尽くし始めていたのだ。
遠くから聞こえる、ザワザワという不快なノイズ。それは風の音ではなく、数億の羽が擦れ合う音だった。
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同時刻。第二王子の屋敷、その地下深くに隠された祭壇の間。
かつては美しい野菜(工業製品)が並んでいた地下農園のさらに奥、禁忌の儀式場。
アベル王子は、狂気に満ちた目で短剣を握りしめ、自身の腕を切り裂いた。
「我が血肉を糧とせよ! 出でよ、古の力!」
滴り落ちる王家の血が、祭壇の上のどす黒い水晶に吸い込まれていく。
アベルの顔はやつれ、目の下には濃い隈ができている。政治的な敗北、民衆からの嘲笑、そして兄王からの冷たい視線。全てが彼を追い詰め、理性を焼き尽くしていた。
願いはただ一つ。自分を辱めた農民ルークスへの復讐。奴の全てを奪い、絶望の淵に叩き落とすこと。
「あの農民の畑を、店を、女を……全て喰らい尽くせ! そして私に、王都を支配する力を寄越せ!」
アベルが叫んだ瞬間。
水晶が、ドクンと脈打った。
それは心臓の鼓動のような、生々しい音だった。
バキィッ! グチャリ……。
水晶が内側から砕け散り、そこから溢れ出したのは、アベルが想像していたような召喚獣――ドラゴンや悪魔――ではなかった。
黒い泥のような、粘着質の液体。
いや、よく見ればそれは液体ではない。米粒ほどの大きさの、無数の「蟲の卵」の奔流だった。
「な……んだ、これは……? おい、私の命令を聞け! 私は主人だぞ……!」
泥は生き物のように蠢き、アベルの足元から這い上がった。
アベルは後ずさるが、泥は影のように彼を追い、足を、腰を、そして胸を飲み込んでいく。
「あ、あがぁぁッ!? や、やめろ……痛い、喰われる……中に入ってくるなぁぁぁッ!!」
アベルの絶叫が、地下室に響き渡る。
泥は彼の口、鼻、耳、目――あらゆる穴から侵入し、彼という存在を内側から食い破っていく。骨が砕ける音、肉が溶ける音。
彼は呼び出したのではない。彼自身が、異界と現世を繋ぐ「門」に、そして蟲たちを産み落とす「苗床」になってしまったのだ。
ズズズズズ……ッ!!
ボッ、ボボボボボッ!!
地下室が膨張する。アベルだったモノを中心にして、黒い肉柱が形成され、天井を突き破る。
屋敷の床が弾け飛び、屋根が吹き飛ぶ。
王都の貴族街の真ん中に、アベルの屋敷を苗床とした、高さ数十メートルにも及ぶ巨大な「黒い塔」が出現した。
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塔が、弾けた。
中から噴出したのは、煙ではない。
羽音。
ブブブブブブブブ……!!
ブワァァァァァァァァァッ!!
耳を覆いたくなるような、数億の羽ばたきの音。
黒い粒子が拡散し、王都の空を埋め尽くす。
「な、なんだあれは……!?」
「煙か!? 火事か!?」
「いや……動いてるぞ! 虫だ! イナゴだッ!?」
王都の人々が空を見上げる。
黒い柱から溢れ出したのは、大人の拳ほどもある巨大な黒いイナゴ――『アビス・ローカスト(深淵蝗)』の大群だった。
赤く光る複眼、鋼鉄をも噛み砕く大顎、そして鋭利な鎌のような脚。
それらは人間を襲うよりも先に、本能のままに「緑」へと殺到した。
バリバリバリバリッ! ムシャムシャムシャ!
貴族自慢の美しい庭園に黒い雲が降り立ったかと思うと、数秒後、そこには茶色い荒野だけが残されていた。
バラの花弁も、トゲのある茎も、観賞用の樹木も。
一瞬で消失する。
街路樹の大木に群がったイナゴたちは、葉だけでなく、樹皮を、そして幹の芯までを食い尽くし、白い骸骨のような残骸に変えていく。
恐ろしいのは、その「食欲」だけではない。
食われた場所から、生命の痕跡が完全に消滅しているのだ。
土は灰色になり、ひび割れ、砂のように風化していく。
これは物理的な破壊ではない。「飢餓」という概念そのものの侵攻だ。
「ひ、ひぃぃぃッ! 庭が! 私の薔薇が!」
「逃げろ! 家の中に入れ! 窓を閉めろ!」
王都はパニックに陥った。
だが、窓ガラスなど、彼らの大顎の前には薄紙も同然だ。
ガシャン、ガシャンとガラスが割られ、黒い奔流が屋敷の中へと雪崩れ込む。
観葉植物を喰らい、家具(木材)を喰らい、そして逃げ惑う人々の服(繊維)すらも喰らっていく。
「助けてくれぇぇ! 騎士団は何をしているッ!!」
王城から緊急出動した近衛騎士団が、剣を抜いて応戦する。
「かかれ! ただの虫だ、焼き払え!」
魔導師が炎の魔法を放つ。火球がイナゴの群れを焼き、数百匹が炭になって落ちる。
だが、次の瞬間、騎士たちは絶望を見た。
ボコッ、ボコッ……。
炭になった死骸が地面に落ちた瞬間、そこから無数の白い幼虫が湧き出し、数秒で成虫へと変態し、空へと舞い上がったのだ。
一匹殺せば、十匹増える。
死骸すらも苗床にする、無限の増殖。
「ば、バカな……! キリがないぞ!?」
「剣が……剣が刃こぼれした! こいつら、硬すぎる!」
圧倒的な数の暴力。
人類が初めて直面する、生物災害だった。
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『夕暮れ亭』の屋根の上。
俺は呆然とその光景を見ていた。
黒い雲が、貴族街の緑を食い尽くし、次なる餌場を求めて旋回している。
奴らが鼻をひくつかせ、目指している方角。
そこには、王都で最も濃厚な生命力を放つ場所がある。
「……俺の、農園か」
スラムに作った、あの青々とした野菜畑。
ヘドロを浄化し、住民たちが汗水垂らして開墾し、俺が魔力を注ぎ込んで育てた、命の結晶。
あのトマトが、大根が、ほうれん草が。
すべて、奴らの餌になろうとしている。
「ご名答。……奴らは美食家でね。肥えた土地が大好物なんだ」
不意に、隣から声がした。
振り返ると、屋根の装飾の上に、銀髪の男――ジルヴァが腰掛けていた。彼は眼下の地獄絵図を楽しげに、しかしどこか冷徹な、研究者のような目で見下ろしている。
「ジルヴァ……! これも、お前の仕業か!」
「まさか。僕は『世界の捕食者』を招く準備をしていただけさ。……引き金を引いたのは、君たちの国の愚かな王子だよ」
ジルヴァは黒い雲を指差した。
「あれは『アビス・ローカスト』。太古の時代、大陸の緑を食い尽くし、文明を滅ぼした『飢餓』の具現化だ。……剣や魔法で倒そうなんて思わないことだね。見ていただろう? 奴らの体液が土に落ちれば、そこから百匹の幼虫が生まれる。殺せば殺すほど増える、終わりのない悪夢さ」
ジルヴァは嘲笑った。
「諦めなよ、ルークス君。君の自慢の野菜も、この街も、もうお終いだ。……君という『最高の肥料』さえ無事なら、僕は構わないけどね」
眼下では、イナゴの先発隊がスラムの上空に到達しようとしていた。
住民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
ロベルトが荷馬車を守ろうと棒を振り回すが、多勢に無勢だ。
俺の大切な場所が、踏みにじられようとしている。
理不尽な暴力。圧倒的な災害。
絶望的な状況。
だが。
俺の心の中に湧き上がったのは、恐怖ではなかった。
「……増える、だと?」
俺はギリリと奥歯を噛み締めた。
俺の畑を狙っている。
俺の商品を、仲間たちの努力を、ただの餌として食い荒らそうとしている。
そして何より――「俺の作物」を、「不味そうな虫の餌」扱いしたことが、許せない。
俺はアイテムボックスから、愛用の鍬を取り出し、強く握りしめた。
その瞳に宿るのは、英雄のような正義感でも、戦士の闘志でもない。
農家が、丹精込めた畑を荒らす害虫に向けた、純粋で冷徹な「殺意」だ。
「……戦争じゃない」
俺はジルヴァの横に並び立ち、頭上を覆う黒い雲を睨み据えた。
フェンが俺の足元で、同調するように牙を剥く。
「これは『害虫駆除』だ」
「……は?」
ジルヴァが怪訝な顔をする。
俺はウィンドウを展開した。
ポイントならある。あの王子から巻き上げた金で買い足した資材もある。そして何より、農民としての知識がある。
イナゴ? 蝗害?
上等だ。農家にとって、虫との戦いは日常だ。
「農家を本気で怒らせた代償……その群れごと、骨の髄まで払わせてやる」
俺はウィンドウの「農業用資材」タブを猛スピードで操作した。
殺虫、誘引、殲滅。
剣も魔法も通じないなら、農業の理屈で殺すまでだ。
「フェン、準備はいいか? 今夜は『大掃除』だ」
「グルルッ……(主よ、あの虫、食ってもいいか?)」
「腹壊すぞ。全部燃やすからな」
王都の空を埋め尽くす数億のイナゴに対し、俺は最強の「広域殲滅用」農具を起動させた。
害虫は一匹残らず駆除する。卵の一つまで焼き尽くす。
それが、ルークス農園の流儀だ。
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アベル王子の哀れな最期と、王都を襲う最悪の農業災害「黒いイナゴ」。
生理的な嫌悪感と絶望感が漂う中、ルークスだけが「駆除」の目をしています。
剣も魔法も通じない増殖する害虫に、農民はどう立ち向かうのか!?
次回、第二百十二話。
「対蝗害決戦! 王都を救う『光の誘蛾灯』」。
ルークスの農民知識が炸裂する、大規模殲滅戦が始まります!
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