第二話:チュートリアルと小さな一歩
俺、ルークス・グルトとしての人生は、前世では決して味わうことのできなかった「温もり」に満ちていた。
赤ん坊の体というのは、驚くほど不自由な牢獄だ。思考はブラック企業で擦り切れたはずの佐藤拓也として明晰なのに、手足を思い通りに動かすことも、意味のある言葉を発することもできない。腹が減れば泣き、眠くなればぐずり、不快を伝えたい時も、結局はしゃくりあげて泣き叫ぶしかない。それは、なかなかに屈辱的な体験だった。前世では理不尽な上司に頭を下げ続けてきた俺が、今度は本能という名の暴君に支配されているのだから。
だが、そんな俺を包み込むのは、いつだって陽だまりのような温もりだった。
「おやおや、ルークス。お腹が空いたのかい?」
母さん――リリアが、俺を慣れた手つきで優しく抱き上げてくれる。その腕の中は、薪で沸かしたお湯と石鹸、そして母乳の混じった甘い匂いがした。前世で俺の肺を満たしていたのは、空調の効きすぎたオフィスの乾燥した空気と、仮眠室の埃っぽい匂い、そして何本飲んだか分からない栄養ドリンクの化学的な香りだけだった。だから、この生命力に満ちた匂いを嗅ぐたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、切なくてむず痒い幸福感に襲われるのだった。
父さん――アルフレッドは、寡黙な男だった。彼は夜明けと共に起き出し、日が落ちて俺が眠る寸前まで、痩せた土地を耕し続けている。その手は木の皮のように硬く、土と汗にまみれて節くれだっていたが、俺の頬をそっと撫でるその手つきは、驚くほど優しかった。言葉数は少ないけれど、俺を見つめるその瞳には、深い愛情が宿っているのが痛いほど分かった。それは「お前は俺の宝だ」と、雄弁に物語っていた。
俺たちの家は、辺境伯領の北端に位置するリーフ村の、小さな木造の家だ。壁の隙間からは風が吹き込み、冬は暖炉の火がなければ凍えるように寒い。食事は、硬くて酸味のある黒パンと、塩味の豆のスープが基本だった。前世のコンビニでさえ手に入った、多種多様な美食に溢れた日本の食生活とは、比べるべくもない。
だが、不思議と不幸だとは思わなかった。むしろ、満たされていた。
食卓には、いつも父さんと母さんがいた。彼らは、たとえ自分たちのパンが小さくても、俺に一番柔らかい芯の部分を分け与えてくれた。スープに具が少ない日でも、二人は顔を見合わせて笑顔で「今日のスープは味が染みていて美味しいな」と言い合った。
それは、前世の俺が、スマートフォンの冷たい画面越しに、ただ渇望し続けた「温かい食卓」そのものだったのだ。
そして、俺が二歳になった年、家族が一人増えた。妹のマキナだ。
「ルークス、お兄ちゃんになったのよ。小さなマキナを守ってあげてね」
母さんに抱かれた小さなマキナは、猿のように顔を真っ赤にして泣いていた。俺は、そのか細くて頼りない手を、おそるおそる自分の指でつついてみた。すると、マキナはきゅっと、反射的に俺の指を握り返してきた。信じられないほど小さくて、温かい力だった。
その瞬間、俺の脳裏に、忘れたくても忘れられない光景がフラッシュバックした。病院のベッドで、力なく笑っていた後輩の顔。日に日に痩せていく彼の手を、俺はただ握ることしかできなかった。無力感に打ちひしがれながら。
(俺が……今度こそ、守る……)
その時、俺の胸に宿った感情は、前世のどうしようもない無力感とは全く違う、確かな決意だった。この温もりを、この小さな手を、俺は絶対に失わない。金がないせいで、力が足りないせいで、大切なものが奪われる理不尽など、もう二度とごめんだ。
◇
俺が五歳になった、ある日のことだった。その日、俺の運命を決定づける「事件」が、音もなく起こる。
その日の夕食の準備中、母さんが「あっ」と小さな悲鳴を上げた。見ると、野菜を切っていた年季の入ったナイフで、誤って指先を切ってしまったようだった。ぷくりと血の玉が浮かび、ポタポタと土間の床に赤い染みを作っていく。
「大丈夫!大したことないからね」
母さんは俺と、不安そうに見上げるマキナを安心させまいと笑顔を作ったが、その顔は痛みのせいで蒼白く引きつっていた。この世界に、前世のような便利な絆創膏はない。母さんは近くにあった布きれを指にきつく巻き付けたが、赤い血はじわりじわりと布に滲み出てきた。
それを見た瞬間、俺の全身に氷水を浴びせられたような激しい衝動が突き上げた。
(助けたい……!)
前世の後輩の時とは違う。今、目の前で、俺の大切な人が傷ついている。何か、俺にできることはないのか。消毒薬は?清潔なガーゼは?いや、そんなもの、この貧しい家にあるはずがない。
(くそっ……!またかよ!俺は、またこうやって、ただ見てることしかできないのか!)
無力感が、トラウマと共に再び俺の心を黒く塗りつぶしていく。後悔と焦りが渦を巻き、息が詰まる。
(なんでもいい!どんな手を使ってでも、母さんを助けられる力が欲しい!)
そう強く、魂ごと叫んだ、その瞬間だった。
――ピロン♪
世界から、音が消えた。母さんの痛みを堪える息遣いも、マキナの不安げな呼吸も、遠くで鳴く虫の声も、全てが遠のいていく。そして、俺の脳内にだけ、軽やかで無機質な電子音が響いた。
俺の目の前に、半透明の青いウィンドウが、ふわりと浮かび上がった。それは、前世で飽きるほど見た、ゲームのステータス画面によく似ていた。
【チュートリアル:初めての願い】
【他者の幸福を願う清らかな魂を検知しました。】
【天の恵み(ヘブンズ・ギフト)ポイントシステムを起動しますか?】
【YES / NO】
「……え?」
思わず、声が漏れた。それは俺にしか見えていないようで、母さんもマキナも、何事もなかったかのようにしている。
(なんだ……これ……?)
幻覚か?過労死した時に、ついに脳が壊れたのか?だが、目の前のウィンドウは、瞬きをしても、頭を振っても、微動だにせずそこに存在し続けている。
天の恵み(ヘブンズ・ギフト)ポイント……。その単語に、俺の心臓がドクンと大きく脈打った。
(ポイント……だと……?)
前世で、俺が血反吐を吐きながら追い求めたもの。後輩を救えなかった俺が、唯一の希望として、狂ったように執着した数字。
ゴクリと喉が鳴る。俺は、震える意識で【YES】を選択した。
ウィンドウの表示が、滑らかに切り替わる。
【ようこそ、天の恵み(ヘブンズ・ギフト)ポイントシステムへ。】
【当システムは、あなたの善行や世界の発展への貢献をポイント化し、様々な恩恵と交換することを可能にします。】
【現在の所持ポイント:0 pt】
【利用可能な機能】
・ステータス表示
・スキルリスト
・アイテムリスト
・???
・???
俺は、呆然とその画面を見つめた。なんだこれは。まるで、人生というクソゲーに突如実装された、運営からの救済措置。とんでもないチートじゃないか。
俺は試しに「スキルリスト」を念じてみた。すると、目の前に膨大なリストが表示される。
【スキルリスト】
・鑑定 (Lv.1) [1,000pt]
・識別 (Lv.1) [1,500pt]
・収納魔法【小】 (Lv.1) [3,000pt]
・薬草知識 (Lv.1) [2,000pt]
・植物成長加速 (Lv.1) [5,000pt]
・土壌改良 (Lv.1) [4,000pt]
・動物と会話 (Lv.1) [10,000pt]
・料理の極意 (Lv.1) [8,000pt]
…
…
(農業系のスキルが充実しているな……辺境の農民に生まれた俺にはうってつけか。それにしても、このコスト設定……鑑定が1,000pt。これが基準になるのか?前世のポイントサイトなら、高額案件一発で稼げるが……)
リストは延々と下に続いていた。その中には、明らかに今の俺には不釣り合いな、天文学的なポイントを要求される項目もあった。そして、その中に、ひときわ異彩を放つ奇妙なものが混じっていることに気が付いた。
・【対侵食防衛プロトコル】[取得不可]
・[SYSTEM_ERROR: UNKNOWN] [取得不可]
(なんだこれ……?バグか?いや、違う……。前世でシステムの穴を突き続けた俺の勘が告げている。これはただのエラーじゃない。このシステムの根幹に関わる、何かだ……)
ぞくりと背筋に悪寒が走ったが、今はそれどころではない。俺は次に「アイテムリスト」を開いた。
【アイテムリスト】
・精製された塩 (50pt)
・精製された砂糖 (100pt)
・ライター (300pt)
・石鹸 (200pt)
・救急セット (1,500pt)
…
…
「……救急セット……」
その文字を見つけた瞬間、俺はハッとした。消毒薬、ガーゼ、包帯。これさえあれば、母さんの指の傷を、もっとちゃんと手当てできる。破傷風の心配だってなくなる。だが、必要なポイントは1,500pt。今の俺の所持ポイントは、無情にもゼロだった。
(ポイント……ポイントを稼ぐには、どうすればいいんだ……?)
俺が焦りを覚えたその時、再びウィンドウに新しい表示が現れた。まるで俺の思考を読んでいるかのように。
【チュートリアル:最初の善行】
【身近な人を助けることから始めましょう。例えば、家族の仕事を手伝う、家の周りを掃除するなど。小さな一歩が、やがて世界を救う大きな流れとなります。】
「……仕事を手伝う……」
俺は、窓の外に広がる、痩せた畑を見つめた。父さんが、来る日も来る日も、たった一人で家族の命を繋ぐために耕している、あの畑を。
◇
翌日、俺は父さんの後について、畑に出ていた。
「ルークス、危ないから家の中にいなさい」
父さんは心配そうに言ったが、俺は固い決意を込めて首を横に振った。そして、足元に生えていた、小さな雑草を指さした。
「……てつだう」
まだ舌足らずな言葉だったが、俺の意志は伝わったようだった。父さんは驚いたように目を丸くした後、くしゃりと顔を綻ばせた。
「そうか。手伝ってくれるのか。偉いな、ルークスは」
父さんは俺の頭を優しく撫でると、再び鍬を手に、力強く土を耕し始めた。
俺は、父さんの邪魔にならないように、畑の隅の雑草を抜き始めた。五歳の子供の力では、しっかりと根を張った草を抜くのは骨の折れる重労働だ。すぐに爪の間に土が入り、額からは玉の汗が滲む。
(一本……。この一本が、何ポイントになる?いや、ゼロかもしれない。だが、やるしかない)
前世でアンケートの設問を一つ一つクリックした時のように。アプリを一つ一つダウンロードした時のように。俺は無心で、目の前のタスクをこなしていく。
(母さんの指、まだ痛むだろうか……。早くポイントを貯めて、救急セットを……)
だが、俺は必死だった。一本、また一本と、小さな雑草を引き抜いていく。
そして、ようやく十本目の雑草を引き抜き、土を払った、その時だった。
――ピロン♪
待ち望んだ電子音が、再び脳内に響き渡る。
【畑仕事を手伝いました。貢献度:微小。1ポイントを獲得しました。】
【現在の所持ポイント:1 pt】
「……ッ!」
俺は、思わず息を飲んだ。ウィンドウに燦然と輝く「1pt」という数字を、食い入るように見つめる。
たった、1ポイント。救急セットには、あと1,499ポイントも足りない。されど、それは紛れもなく、俺がこの世界で、自らの意志と行動で稼いだ、最初の「力」だった。
前世で、ただ後輩の命の代償として、強迫観念のように積み上げていた虚しい数字とは違う。
これは、俺が大切な家族を守るために、未来を切り開くために、手に入れた確かな希望の光だ。
(……は、はは……ははははは!)
笑いが込み上げてきた。最初は小さな声だったが、次第に抑えきれなくなり、俺は肩を震わせた。
(これだ……これさえあれば!)
ブラック企業で培った、理不尽なシステムを攻略するための分析力。ポイントサイトの隠し仕様すら見つけ出す、異常なまでの執着心。それらは、こんなのどかな世界でスローライフを送るためには、全く役に立たない、忌まわしい過去の遺物だと思っていた。
だが、違った。全ては、この時のためにあったのだ。
この「天の恵み(ヘブンズ・ギフト)ポイント」という、巨大で、おそらくは深淵な謎を秘めたシステムを前にして、俺の魂は歓喜に打ち震えていた。
攻略してやる。この世界の理不尽も、貧しさも、病も、いずれ来るであろうあらゆる絶望も。このポイントシステムをしゃぶり尽くし、最適解を導き出して、俺が望む、全てを手に入れてやる。
俺は、痩せた畑の真ん中で、土にまみれた小さな拳を強く、強く握りしめた。
空はどこまでも青く、澄み渡っている。遠くで、父さんの鍬が規則正しく土を打つ音が聞こえる。家の方からは、俺の名前を呼ぶ、母さんの優しい声がした。
「ルークスー!お昼ご飯ですよー!」
その声に振り向くと、小さな家の煙突から、昼食の準備ができたことを知らせる細い煙が、真っ直ぐに空へと立ち上っていた。
あれが、俺の城だ。俺の守るべき日常。俺が手に入れるべき、未来。
ポイントを貯めて、気ままなスローライフを送る。大切なこの温かい食卓を、何があっても守り抜くために。
五歳にして、俺の人生の目標は、明確に、そして確固として定まった。
【読者へのメッセージ】
第二話、お読みいただきありがとうございます!
ついにルークスがポイントシステムに目覚めました。彼のブラック企業で培ったスキル(?)が、これから異世界でどう炸裂するのか……!
「面白くなってきた!」「主人公の今後に期待!」と思っていただけましたら、ぜひ下の評価(☆)や感想、ブックマークで応援していただけると、めちゃくちゃ執筆の励みになります!
次回もご期待ください!




