第百九十五話:辺境伯の憂鬱と、黒い招待状
領都ランドールの中心に鎮座する辺境伯邸。その最奥にある執務室は、重厚なオーク材の扉によって外界から隔絶されていた。
部屋の中には、年代物の革張りのソファと、書類が山積みになった執務机。そして、窓から差し込む午後の光が照らす埃の粒子までもが、ここでは息を潜めているかのように静まり返っている。
「……下がってくれ、ギデオン。エレナもだ。ここからは、私とルークス殿だけで話す」
辺境伯レオナルドの声は、リーフ村で「プリン」を食べて笑っていた時の気さくなものではなかった。低く、重く、そして隠しきれない苦渋が滲んでいる。
国境を守る武人としての威厳と、領地を預かる為政者としての重圧。それが今の彼を構成している全てだった。
「お父様……。はい、分かりました」
エレナ様が不安げに一度だけ俺を振り返り、ギデオンと共に退室する。
重い扉が閉まる音が、ズンと腹の底に響いた。
部屋に残されたのは、俺と辺境伯、そして足元で退屈そうに欠伸を噛み殺しているフェンだけだ。
「……ルークス殿。遠路はるばる、よく来てくれた。本来なら歓迎の晩餐でも開くべきところだが、事態は切迫している」
レオナルド閣下は、机の引き出しから一通の封書を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
漆黒の封筒に、金色の王家の紋章。そして、毒々しいほどに鮮やかな深紅の蝋で封がされている。
「これは、単なる招待状ではない。……『召喚状』だ」
「召喚、ですか」
俺は封筒を手に取らず、じっと見つめたまま答えた。
前世の記憶が警鐘を鳴らす。ブラック企業時代、急な本社呼び出しや、理由の曖昧な配置転換の辞令が下る時、その書類は決まってこういう「仰々しくも、中身の透けて見えない」顔をしていた。
「単刀直入に言おう。王都の貴族たち、特に宰相オルコを中心とする派閥が、君を危険視している。……君の作ったあの『カスタードプリン』が、王都の経済バランスを崩しかねない劇薬だと判断されたのだ」
「……たかがお菓子一つで、国の経済が揺らぐのですか?」
「たかが、ではないのだよ。砂糖だ」
レオナルド閣下は苦々しげに吐き捨てた。
「この国で流通している最高級の砂糖でさえ、黄色く濁り、特有の雑味を含んでいるのが常識だ。だが、君が使う砂糖は違う。雪のように純白で、甘みだけが結晶化している。……あれは、この国では『白い金』と同義だ」
閣下は、窓の外に広がる領都の街並みを睨みつけた。
「既存の砂糖利権を握る商会、王室御用達の菓子職人ギルド、そして彼らから莫大な献金を受けている宰相派閥……。君のプリンは、彼らの既得権益を根底から脅かす『異物』なのだよ」
なるほど。読めてきた。
表向きは「素晴らしい才能への称賛」と「王への献上」という名誉ある招待。だがその裏にあるのは、俺というイレギュラーを王都という鳥籠に閉じ込め、その技術を搾取するか、あるいは管理不能と判断して排除するための「罠」だ。
(……ああ、知っている。この手口、よく知っているぞ)
俺の脳裏に、前世の光景がフラッシュバックする。
「君の才能を見込んだ抜擢だ」と言われて配属された新規事業部が、実は失敗の責任を押し付けるための墓場だったこと。「成長の機会だ」と押し付けられたノルマが、達成不可能な数字だったこと。
今の俺には、高コストな『嘘見破り』スキルを使うポイントはない。だが、そんなものを使わなくても、ブラック企業で骨の髄まで叩き込まれた「理不尽な上層部の思考回路」を読む力が、俺にはある。
「……つまり、宰相オルコという方は、俺をどう料理するか、まだ決めかねているわけですね? 有益な家畜として飼い殺すか、それとも見せしめに屠殺するか」
俺の言葉に、レオナルド閣下が目を見開いた。
「君は……恐ろしくないのか? 相手は国の中枢だぞ。一農民が太刀打ちできる相手ではない」
「恐ろしいですよ。でも、理解不能な恐怖ではありません」
俺はニヤリと笑った。
前世の社長の気まぐれな暴力や、サービス残業という終わりのない拷問に比べれば、利権という明確なルールで動く貴族の陰謀など、まだ予測可能な「ビジネス」の範疇だ。
「閣下。俺は政治家にはなれませんし、貴族の遊びに付き合う気もありません。ですが、俺には最強の武器があります」
「武器……? あの魔獣のことか?」
「いいえ。俺が育てた作物と、このプリンです」
俺は懐から、クラウスと交わした「契約書の写し」を取り出した。
「俺を殺すより、生かしておいた方が遥かに得だと思わせればいい。俺はこのプリンの製法を独占する気はありません。むしろ、王家主催の晩餐会で、このプリンを『王国の新たな特産品』として大々的に発表するよう提案します」
「なっ……!? 製法を公開するというのか!?」
「全てではありません。肝心なのは『素材』です。俺が育てた特級の野菜、俺が管理した牛のミルク、そして……あの白い砂糖。それらがないと、あの味は絶対に再現できない」
俺は机上の「黒い招待状」を手に取り、指先で弾いた。
「宰相オルコが利権を欲しがるなら、くれてやればいい。ただし、その手綱を握っているのは、辺境のいち農民である俺だということを、骨の髄まで分からせてやりますよ」
執務室に沈黙が落ちた。
やがて、レオナルド閣下の肩が震え出し、豪快な笑い声が静寂を破った。
「はっ、はははは! 痛快だ! まさか、王都の古狸どもを相手に、餌を撒いて手懐けようとはな! ……ルークス殿、君はとんでもない農民だ」
閣下の顔から、苦渋の色が消えていた。そこにあるのは、頼もしい共犯者を見る武人の目だった。
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密談を終え、重厚な扉を開けて廊下に出る。
張り詰めていた糸が切れ、ドッと疲れが押し寄せてきた。やはり、ブラック企業の処世術を使ったとはいえ、国の命運を左右する交渉は精神を削る。
「……ルークス様」
廊下の窓際で、月の光を浴びて待っていた人影があった。エレナ様だ。
彼女は俺の顔色を見ると、何も聞かずに駆け寄り、そっとハンカチを差し出してくれた。
「お顔色が優れませんわ。……難しいお話だったのですね」
「ええ、少しだけ。大人の事情というやつです」
俺が苦笑すると、彼女は鈴を転がすように優しく微笑んだ。
その笑顔は、執務室に渦巻くドロドロとした欲望や陰謀とは対極にある、清らかな光そのものだった。
「もしよろしければ……少し、お庭を歩きませんか? 夜風がとても気持ち良いのです。フェンちゃんも、きっと外の空気を吸いたがっているでしょうし」
(主よ、その通りだ。あの部屋はカビとインクと、オッサンの匂いしかしなかったからな)
足元でフェンが同意するように尻尾を振る。
「……はい。喜んで、ご一緒させてください」
俺たちは並んで、月明かりに照らされた庭園へと歩き出した。
隣を歩くエレナ様からは、ほのかに甘い花の香りが漂ってくる。それは王都の香水のような人工的なものではなく、庭園の花々そのもののような自然で優しい香りだった。
「……あの、ルークス様」
不意に、エレナ様が足を止めた。月明かりに照らされたその横顔は、儚げで、どこか悲痛な色を帯びていた。
「王都には……私の、婚約者がいるという噂があるのです」
「……え?」
「宰相オルコ様のご子息……。まだ正式な決定ではありませんが、今回の召喚には、その『顔合わせ』の意味も含まれていると……」
彼女の声が小さく震える。
政略結婚。貴族の世界では当たり前のことかもしれない。だが、自由を愛し、土の匂いに安らぎを感じる彼女にとって、それがどれほどの檻であるかは想像に難くない。
「私、怖いのです。王都に行けば、もう二度と……このような穏やかな月夜を歩くことはできないのではないかと」
俺は、拳を強く握りしめた。
ふざけるな。俺の特産品だけでなく、この優しい少女の未来まで、あの宰相は自らの権力欲のために食い物にしようというのか。
「……大丈夫です、エレナ様」
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「俺がいます。俺は農民ですから、荒れた土地を耕すのは得意なんです。王都がどんなに腐った土壌でも、必ずエレナ様が笑って歩ける場所に変えてみせます」
「ルークス様……」
エレナ様の瞳に涙が滲み、月光を受けて輝いた。
これらを守るためなら、俺は喜んで「悪徳農民」にでもなってやろう。
王都の貴族たちよ、首を洗って待っていろ。
ブラック企業仕込みの交渉術と、最強のポイントシステムで、その腐った根性を根こそぎ耕してやるからな。
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読者の皆様、第百九十五話「辺境伯の憂鬱と、黒い招待状」をお読みいただきありがとうございました!
ついに姿を見せた「宰相オルコ」の影、そしてルークスの「社畜スキル」によるカウンター交渉。
そして何より、エレナ様が抱える「政略結婚」という理不尽な運命。
ただの農民が、一国の宰相とどう渡り合うのか。王都編の熱い展開にご期待ください!
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