第百八十九話:絶望を噛み千切る牙
地下水路の重苦しい湿気が、肌にじっとりとまとわりつく。
暗がりの中、ジルヴァの銀髪だけが、どこか不気味な光を放っているように見えた。彼の背後には、金で雇われた手練れの冒険者たちが、抜き身の剣を手に俺を包囲している。
「……計算通りだよ、ルークス君。この魔獣の命は、君を精神的に追い詰めるための、いわば『端材』に過ぎない。さあ、絶望してポイントを差し出しなさい。それが、私のような持てる者に搾取されるだけのNPCに相応しい役割だ」
ジルヴァは、慈悲深い聖者のような微笑みを浮かべたまま、その口から毒のような言葉を紡ぐ。彼の足元には、血を流し、息も絶え絶えに横たわる漆黒の子犬――フェンの姿があった。
「……端材、だと?」
俺の胸の奥で、どろりとした怒りが沸き上がる。視界の隅で、ポイントウィンドウが激しく点滅していた。
現在、俺が必死に貯めてきたのは、一万五千ポイント。
これは、いつか飢饉を乗り越えた後、家族みんなで食べるための上質な砂糖や、父さんのために新調したかった高性能な鍬、そしてマキナが「ふわふわだね!」と喜ぶはずだった石鹸やタオルのための、俺たちの「ささやかな未来」そのものだった。
ジルヴァは、それを「端材」と切り捨てた。前世のブラック企業で、俺たちの人生を「コスト」や「数字」としか見ていなかったあの経営者たちと同じ目で、俺の大切な相棒を見下している。
「フェン……今、助けるからな」
俺は震える指で、交換リストを高速でスクロールした。
【スキル『動物と会話 (Lv.1)』 10,000pt を取得します。よろしいですか?】
[YES]を選択した瞬間、脳内に熱い奔流が流れ込み、目の前の小さな体が発する苦悶の喘ぎが、言葉となって俺の鼓膜に届く。
(……あるじ……にげ、ろ……。のおみんの、あるじが……こんなところに、いちゃ……だめ、だ……)
消え入りそうな、けれどどこまでも真っ直ぐな、フェンの声。自分の命が尽きかけているというのに、こいつはまだ、俺のスローライフを心配している。前世の俺が、独りで事切れたあの夜。もし、誰か一人が「大丈夫か」と声をかけてくれていたら。
「二度も……二度も、独りで見捨ててたまるかッ!!」
俺は残りの五千ポイントを、一点に注ぎ込んだ。
【『植物成長加速 (Lv.1)』をフェンの生命活動に転用。……および『薬草知識』から導き出した応急処置を同時実行】
本来、作物を育てるための「淡い金色の光」が、フェンの体から溢れ出す漆黒の魔力と混ざり合う。金と黒の光が螺旋を描いて溶け合い、フェンの傷を強引に塞ぎ、その体を一回り大きく押し広げていく。
「ガ、アアアアアアアアアアッ!!」
幼体から「若体期」への真の覚醒。大型犬、あるいは子牛ほどにまで逞しく成長したフェンが、鋭い爪で石畳を抉り、俺を庇うように立ちふさがった。全身から青白い雷光が走り、地下水路を白日の下に晒す。
「……ほう。一万ポイント程度の端金で、そこまで成長させたか。だが、たかだかその程度の戦力で、この熟練の冒険者たちに勝てるとでも?」
ジルヴァが冷淡に合図を送ると、包囲していた男たちが一斉に踏み込んできた。
(あるじ。おいら、わかったよ。おなかがすくのは、いきてるしょうこだ。あるじと、あしたのあさごはんをたべるために……こいつらを、おっぱらう!)
「ああ、頼むぞフェン! ポイントは、貯めるためにあるんじゃない……大切な奴と、笑って温かいスープを囲むためにあるんだ!」
俺は『収納魔法(小)』を全開にし、中から「発酵途中の堆肥土壌」をぶち撒けた。さらに、研究用として交換し、懐に忍ばせていた「試作のベアリング」数個を、必殺の弾丸として投擲する。
「なっ、なんだこの悪臭と滑りは!? 足が、足がつかん!」
堆肥のヌメリに足を取られ、姿勢を崩した冒険者たち。その僅かな隙を見逃さず、若体期となったフェンが雷光を纏って駆け抜ける。
「ガハッ……!? 馬鹿な、私の構築した『必勝の盤面』が、こんな肥料や鉄屑ごときに……!」
フェンの牙がジルヴァの魔力障壁を食い破り、その肩を深く抉った。
ジルヴァは屈辱に顔を歪ませ、忌々しげに俺を睨みつける。
「……いいだろう。今日は私の負けだ、ルークス君。だが、忘れないことだ。この『解析不能』の欠片が、いずれ君の愛する日常すべてを無に帰す日が来る」
ジルヴァは懐から「幾何学的な黒い石」を取り出し、一度だけ見せつけると、転移魔法の光と共に姿を消した。
静まり返った地下水路。激しい成長の反動で、元の小さな姿に戻ったフェンを俺は抱き上げる。
「……よく頑張ったな、フェン」
(……あるじ……おいら、あしたの……おじや、たのしみに……してる……から……)
フェンは小さく鼻を鳴らし、俺の胸元に顔を埋めて眠りに落ちた。
一万五千ポイント。数ヶ月の努力はすべて消え、土産も農具も、また一からのやり直しだ。けれど、腕の中にあるこの小さな温もりは、どんなレアアイテムよりも、俺にとっての「最強の成果」だった。
俺はボロボロになった体を引きずりながら、愛する家族の待つ、夕餉の香りがする村へと歩き出した。
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読者の皆様、第百八十九話をお読みいただきありがとうございました!
フェンの若体期への覚醒、そしてルークスが全ポイントを投じて「日常」を選び取る姿に、何かを感じていただければ幸いです。
ジルヴァの去り際に残した不吉な石の謎。そして空っぽになったポイント。
ルークスのスローライフへの道は、ここからまた新たな一歩を踏み出します。
「フェンが助かって本当によかった!」「農民の意地を見た!」と思ってくださった方は、ぜひ【評価】や【ブックマーク】で、ルークスに新たなポイントを授けてください!




