第百七十四話:十万ポイントの重圧、あるいは守るための「投資」
第四王子リアムが、深い安堵と共に満足げな溜息を漏らし、護衛のギデオンに伴われて夜の静寂へと去った後の予備厨房。
換気用の小窓から差し込む月光は、白亜の城壁に反射して鋭い青白さを帯び、石造りの床に冷ややかな影を落としている。俺――ルークス・グルトは、温かみの残るスープの器を「鑑定」しながら、視界の隅で静かに、だが確実に脈動する数字を、血走ったような双眸で見つめていた。
【保有ポイント:108,200 pt】
六桁の領域。前世、佐藤拓也だった頃の俺ならば、これだけの資産があれば迷わずブラック企業に辞表を叩きつけ、数年は何もしなくても生きていける「自由」に狂喜乱舞していただろう。だが、この中世の皮を被った理不尽な世界において、この数字は決してゴールではない。
むしろ、ジルヴァのような略奪者や「世界の捕食者」という概念的な脅威を前にすれば、これはあまりに心もとない、薄氷のような防衛予算に過ぎないのだ。
(……十万。一瞬でも『これで安心だ』と思った自分が怖い。前世でもそうだった。わずかなボーナスに浮かれ、セキュリティの更新を怠ったプロジェクトから崩壊していった。……この世界で同じ過ちは繰り返さない。ポイントは、溜め込むためではなく『生存』を確定させるためにある)
「……主よ。浮かれている暇はないぞ。あの『赤髪の雛』が残した幸福な匂いの裏側に、城の方角から漂う、どろりとした嫉妬と湿った執着の匂いが混じり始めた。闇が、この宿を嗅ぎまわろうとしておる」
足元で、漆黒の魔獣フェンが低く、地響きのような唸り声を上げた。鼻をひくつかせ、扉の向こう側――王都の闇に潜む無数の悪意を睨みつける。その金色の瞳には、俺の「平穏」を脅かす者への容赦ない殺気と、先ほど俺が分け与えたスープの残り香に対する、僅かながらの愛らしさが同居していた。
「分かっているよ、フェン。王子という名の巨大な『広告塔』を招いた代償だ。政治的な爆弾をキッチンに抱え込んだ以上、ここは『銀の蹄亭』をただの宿から、難攻不落の要塞へと作り変える必要がある」
俺は、僅かに震える指先でシステムメニューを深層までスクロールした。
日常的な消耗品を交換する程度の浅い階層ではない。ここから先は、本物の「リスクヘッジ」だ。
【スキル:結界魔法【中】(Lv.1 / 150,000pt)……不可。ポイント不足】
【代替案:ポイントアイテムによる多層防衛ラインの構築】
俺は思考のギアを一段階引き上げる。前世で、サーバーへの不正アクセスを水際で食い止めるため、数万行のアクセスログを徹夜で精査し続けた、あの冷徹な「最悪を想定する」感覚。それを異世界のスキルと掛け合わせる。
【アイテム:魔力遮断の銀幕カーテン:12,000pt 購入】
【アイテム:自動追尾型・隠密防犯ゴーレム(ネズミ型):8,000pt 購入】
【アイテム:換気用・毒素中和魔導ファン:5,000pt 購入】
【アイテム:拠点セット(高純度浄化槽&自動給湯・再加熱システム):15,000pt 購入】
――計40,000pt。一瞬で十万の大台が瓦解する。だが、俺の指に躊躇はなかった。
厨房の窓枠に、目に見えないほど薄い、水面のような揺らぎを持つ銀色の膜が張られた。これにより、内部からの魔力の漏洩、そして何より俺の「料理の香り」が外部に流出するのを物理的に遮断する。これならジルヴァのような鋭い鼻、あるいは王宮の放った密偵の追跡からも、俺がここで何を作り、誰を招いているのかを隠蔽できる。
さらに、厨房の隅からは、カサカサと小さな金属音を立てて、ゼンマイ仕掛けの小さなネズミが現れた。それは影に同化し、宿の回廊へと消えていく。宿の周囲に接近する敵意を、俺の脳内に直接通知するための動くセンサー網だ。
「よし。次は……家族への贈り物だ。これが、俺が一番やりたかったことだ」
俺はふと、目を閉じて遠く離れた辺境のリーフ村を想う。
寡黙だがその掌の温かさを覚えている父アルフレッド。怒ると怖いが、誰よりも先に俺の空腹を察してくれた母リリア。そして、俺の背中を追って「お兄ちゃん!」と眩しい笑顔を向ける妹マキナ。
十万ポイントという強大な力を手にした今、俺の初心が求めたのは、彼女たちの日常を「不可侵」にすることだった。
【アイテム:魔力付与・防寒・防汚の特製作業服(家族用セット):6,000pt 購入】
【アイテム:緊急脱出用・双方向転移の魔石(リーフ村拠点指定):20,000pt 購入】
もし王都で俺の身に何かが起きても、あるいはリーフ村に魔物の脅威や政治的な魔の手が伸びても、この魔石があれば彼女たちは一瞬で安全圏へ逃げ込める。
ポイントは「力」だ。そして力とは、愛する者の日常を守るための「盾」として使ってこそ意味がある。前世で「貯蓄」という名の数字だけを眺めて死んだ俺が、ようやく辿り着いた答えだった。
「……ふう。これで残高は約4万強か。……一瞬で消えたな。だが、心拍数は安定している」
自嘲気味に呟くが、後悔の念は微塵もなかった。むしろ、サラリーマン時代に「不透明な未来」への不安に押し潰されそうになりながら通帳を記帳していた時より、ずっと建設的で、晴れやかな実感が、俺の胸を温かく満たしていた。
「クハッ! 主のそういう、臆病なまでに用意周到で、それでいて家族のこととなると躊躇のないところは嫌いではない。……さて、防備も整った。明日の『雛』への飯はどうする? 奴は、主の作る飯に、もはやただの栄養以上の『救い』を求めておったぞ」
フェンの言葉通り、リアム王子との交流は、もはや単なる「食糧支援」の域を超え、本作の物語を動かす巨大な歯車の一部となっていた。彼は、誰も信じられない王宮という名の砂漠で、唯一のオアシスをこの予備厨房に見出してしまったのだ。
「明日は、もう少し腹に溜まるものを出すよ。王子の栄養状態は思ったより深刻だ。……それに、俺自身も今日の市場で、誰も気づかなかった『究極の素材』を確保しているからな」
俺は脳内のストレージに保管された、市場での鑑定ログを再度呼び出す。
今日、市場の廃棄場同然のエリアを回っている際、アビス・パールの陰に隠れて、誰も見向きもしなかった「黒い石のような、泥の塊」があった。
鑑定の端に一瞬だけ映り、俺の「亡者」としての勘を刺激した文字。
【対象:古代種の乾燥トリュフ(数千年の魔力により化石化・休眠中)】
人々はそれを「古びた炭」として、暖炉の焚き付けにすらならないゴミとして捨て値で売っていた。だが、ルークスの「鑑定」は、その深層に眠る、芳醇な大地の香りと圧倒的な魔力のポテンシャルを見逃さなかった。
あれをポイントアイテムの『魔力還元水』で戻し、王都産の最高級バターと掛け合わせれば――。
「……よし。明日の献立は『王都産黄金鶏と古代トリュフのバターライス、焦がし醤油の王都仕立て』に決定だ。王子の胃袋を完全に掌握し、俺たちの最強の『盾』として引き込むための、究極の接待だ」
俺は、新調された魔導コンロの青い火を、ゆっくりと落とした。
石畳を叩く冷たい夜風の音も、今は厚手の魔法カーテンに遮られ、遠い世界の出来事のようだ。
十万ポイントという武器を「防衛」と「食」への投資に変え、俺は再び、一人の農民としての「丁寧な、あまりに丁寧な生活」へと潜っていく。
王都の影、ジルヴァの不気味な微笑。それらは依然として俺の首筋を狙っている。
だが、今の俺には、守るべき場所、支えてくれる相棒、そして何より、明日の飯を美味しく作るという「譲れない執着」がある。
白亜の城壁が深い夜の静寂に沈む中、宿屋『銀の蹄亭』の小さな窓からは、微かな、だが確かな幸福の予感と、明日の祝祭を告げる芳醇な醤油の香りが、結界の隙間から僅かに、優しく漏れ出していた。
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【読者へのメッセージ】
第百七十四話(真・完全版)をお読みいただき、ありがとうございます!
十万ポイントという巨額の使い道。それを「防御」と「家族への愛」に即座に振り分けるルークスのリスク管理能力こそ、ブラック企業を生き抜いた男の強さです。
次回、古代トリュフの芳香が王都の夜を支配する!?
リアム王子が、ルークスの作る「バターライス」にどのような衝撃を受けるのか。そして、忍び寄る「影」が、ついに宿屋の結界に接触する……!?
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