第十四話:フェンと、家族会議
夕闇に沈む我が家の前に、俺は血と泥に汚れた黒い子犬を抱いて、呆然と立ち尽くしていた。
「ルークス……その子は……?」
母さんの、驚きと戸惑いに満ちた声が、俺を現実へと引き戻す。俺は、何から話せばいいのか分からず、ただ口をぱくぱくとさせるだけだった。腕の中の子犬が、俺の胸にすがりつくように、か細く「クゥン」と鳴いた。
その声に、母さんはハッとしたように我に返った。そして、俺の鬼気迫る形相と、腕の中の生き物が纏う生々しい血の匂いに、さっと顔色を変えた。
「まあとにかく、中へお入りなさい!あなたも、その子も、泥だららけじゃないの!」
母さんは、俺を家の中へと促した。その声には、まだ戸惑いが含まれていたが、それ以上に、息子である俺を心配する響きが勝っていた。
俺が家の中に入ると、テーブルで夕食を待っていたマキナと、暖炉の火を整えていた父さんが、一斉にこちらを振り返った。
「お兄ちゃん、おかえりなさ……わんわん?」
マキナが、俺の腕の中の黒い塊に気づき、目を丸くする。父さんは、何も言わずに立ち上がると、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
俺は、暖炉のそばの床に、そっと子犬を横たえた。子犬は、慣れない場所に不安を感じたのか、弱々しく身を震わせている。
「ルークス、一体どうしたの。説明しておくれ」
母さんが、俺の肩に手を置き、厳しい、しかし心配そうな眼差しで問いかけてきた。
俺は、今日の午後、森で起こった出来事を、つたない言葉で、しかし懸命に説明した。警報装置の材料を探しに森へ入ったこと。獣の鳴き声を聞いたこと。そして、密猟者の罠にかかり、死にかけていたこの子犬を見つけたこと。どうしても、どうしても見捨てることができなかったこと。
俺の話を、家族は黙って聞いていた。
話が終わると、暖炉の薪がはぜる音だけが響く、重い沈黙が部屋を支配した。最初に口を開いたのは、やはり母さんだった。
「……気持ちは分かるわ、ルークス。あなたは優しい子だもの。でもね、この子は森の獣よ。狼の子かもしれない。そんな危険な生き物を、家で飼うなんて……」
母さんの声は震え、本能的な恐怖に満ちていた。
「それに、うちは裕福じゃない。マキナだっているのよ。もしこの子が、マキナに怪我でもさせたら……。この子を食べさせてあげるだけの余裕が、うちにあると思う?」
母さんの言っていることは、全て正論だった。八歳の俺でも、それが理屈として正しいことは痛いほど分かっていた。だが、頭で理解できても、心が頷いてはくれなかった。
「僕が、責任を持つよ!」
俺は、叫ぶように言った。
「僕のご飯を、この子に半分あげる。それだけじゃない。森で、この子のための食べ物だって、僕が必ず見つけてくる!僕には、その方法も、力もある!マキナには絶対に近づけないように、僕がずっと側についてる!だから……だから、お願いだ!この子を見捨てたら、きっと死んじゃうんだ!」
俺の必死の訴えに、母さんは悲しそうに首を横に振った。「そんな無茶を言うんじゃありません……」
「……わんわん、かわいそう……」
その時、ぽつりと、マキナが呟いた。彼女は、いつの間にか俺の隣にしゃがみ込み、おずおずと、しかし心配そうな瞳で、横たわる子犬を見つめていた。その小さな指が、子犬の怪我をしていない方の足に、そっと触れる。
「にいちゃん、わんわん、いたいいたいの?」
「……うん。でも、もう大丈夫だからな」
マキナの純粋な優しさが、母さんの固い決意を、少しだけ揺さぶったように見えた。
その間、父さんはずっと黙って、子犬の様子を観察していた。彼は、俺が施した包帯に視線を落とし、それが家の救急セットのものであることに気づいたようだった。そして、俺の泥だらけの服と、手のひらにできた擦り傷に目をやり、最後に、子犬の金色の瞳を、じっと見つめた。
子犬は、父さんの視線に気づくと、喉の奥で低く唸り声を上げた。まだ幼いとはいえ、その威嚇には野生の獣だけが持つ、人を寄せ付けない気迫がこもっていた。
だが、俺がその背中を優しく撫でてやると、子犬はすぐに唸るのをやめ、安心したように、俺の手に鼻先をすり寄せてきた。
その光景を、父さんは見逃さなかった。野生の獣が、これほど無防備に、特定の人間を信じて身を委ねる姿を、彼は長年の人生で見たことがなかったのだ。
重い沈黙を破り、父さんが、ついに口を開いた。
「リリア」
「……あなた……」
「一晩だけ、様子を見よう」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「ですが、あなた……」
「この子が、お前が言うように、ただの凶暴な獣なら、いずれ本性を現すだろう。だが、俺にはそうは見えん。少なくとも、この子はルークスを信じている」
父さんは、俺の目を見た。
「明日の朝、この子がまだ生きていて、そして、ルークスの言うことを聞くようなら、その時に、また考えればいい。……それで、いいだろう?」
父さんの言葉は、命令ではなかった。だが、その静かな声には、有無を言わせぬ重みがあった。
母さんは、俺と、マキナと、そして父さんの顔を順番に見比べた。家族全員が、この小さな命を救いたいと願っている。その事実に、彼女は深く、深いため息をついた。
「……分かりました。一晩だけ、ですよ」
俺が感謝の言葉を口にした、まさにその時だった。古びた木の扉を、遠慮がちに叩く音がした。
「ルークスかい?マーサだけどね。リサが、あんたが泥だらけで走っていくのを見たって言うもんだから、心配で来てみたんじゃよ」
ドアを開けると、そこには心配そうな顔をしたマーサさんと、その背後からおずおずとこちらを覗くリサがいた。二人は、暖炉のそばに横たわる黒い子犬の姿を認めると、小さく息をのむ。
「まあ……狼の子かい?なんてこった、酷い怪我じゃないか……」
マーサさんは、俺の行動を咎めることなく、ただただ子犬の痛々しい姿に胸を痛めているようだった。リサは、少し怖がりながらも、好奇心には勝てないといった様子で尋ねた。
「お兄ちゃん……その子、どうしたの?」
家族以外の村人――それも最初の理解者である二人の登場に、母さんの表情が少しだけ和らぐ。俺が掻い摘んで事情を話すと、マーサさんは「そうかいそうかい。あんたらしいねぇ」と深く頷き、懐から小さな布袋を取り出した。
「これは、痛み止めの薬草じゃよ。気休めかもしれんが、傷口の周りに塗ってやりなさい」
その純粋な善意に、俺は胸が熱くなるのを感じた。この村の温かさが、腕の中の小さな命を、そして俺の心を支えてくれている。
「ありがとう、マーサさん。リサも、心配してくれてありがとう」
俺が礼を言うと、リサははにかんで母さんの後ろに隠れた。彼女たちの訪問は、この緊急事態の中で、一筋の温かい光となった。
「ありがとう、母さん!父さん!」
俺は、暖炉のそばに古い毛布を敷き、そこへ子犬をそっと運んだ。何か、名前を付けてやらないと。俺は、その漆黒の毛皮と、助けを求めていた潤んだ金色の瞳、そして、いつか見せるであろう鋭い牙を思った。そして、前世で好きだったゲームに出てきた、絶望の淵から甦る伝説の狼の名が、ふと頭に浮かんだ。
(……フェンリル……。いや、長すぎるな。そうだ、お前の名前は、フェンだ)
俺は、新しく名付けた相棒に、器に入れた水を差し出した。フェンは、最初はおびえていたが、やがて、ぺろぺろと弱々しく水を飲み始めた。
その姿を見ながら、俺は、今日一日がいかに長く、そして濃密であったかを思い出していた。ゲルトの妨害、そして、このフェンとの出会い。
俺は、眠り始めたフェンの隣に座り込み、その小さな寝息に耳を澄ませた。今はただ、この小さな命が、無事に朝を迎えられることだけを、祈っていた。
【読者へのメッセージ】
第十四話、お読みいただきありがとうございました!
ルークスの必死の説得と、家族、そして村の温かさが、小さな命に猶予を与えました。フェン、可愛い!
「お父さん、ナイス判断!」「マーサさん優しい!」など、皆さんの感想をお待ちしています!下の評価(☆)やブックマークが、フェンの回復力に繋がる……かもしれません!
果たして、フェンは無事に朝を迎えられるのか。そして、ゲルトの影は……。次回、新たな日常が始まります。ご期待ください!




