第9話 すれ違い
レティア姉さんと記憶の擦り合わせをしたところ、ここ2年間のレティア姉さんとの会話はすべて覚えていた。
それだけじゃない。
魔法学校時代の友人数名と会っていた時の記憶も辿ってみると、会話の中で婚約破棄の話題が出ていたことを思い出した。
つまり、この2年のうちに会った友人との記憶は覚えていた、ということだ。
奇妙な事態に考え込む私に、レティア姉さんは一つの可能性を提示した。
「レオンハルト様だけ忘れてるってことはない……?」
「え?」
「屋敷の外でのことは覚えているのなら、レオンハルト様の記憶だけ失っているんじゃないのかしら……」
考えてみると、目覚めてからの私はレオンハルト様のことを「何も」覚えていなかった。公爵家の次男であるなら何回か見かけたことくらいはあるはずなのに、目覚めた時に彼のことを「知らない男性」だと認識した。
それにレオンハルト様が話してくれた、私たちの印象的な出会いも思い出しすらしなかったのだ。
「2年間の記憶じゃなくて、レオンハルト様だけの記憶を忘れてしまっているのだとしたら……?」
「……っ」
何故彼のことだけ、とか。1人の人間だけを忘れることなんてあるの、とか。そういう疑問が次々に浮かんでくる。けれど……。
けれど、それが本当だとしたら、なんて残酷で失礼な話なのだろうか。
あんなに私のことを想ってくれてる人なのに、彼のことだけ忘れてしまうなんて……彼はどう思うだろうか。
「申し訳ないわ……」
「ソフィアが気にすることじゃないわよ。原因が分からないんだから。とにかく一旦家に戻りましょう。レオンハルト様とお医者さんにこのこと伝えるのよ?」
「う、うん……」
そうしてレティア姉さんと別れて、屋敷に帰って行ったんだけど……。
屋敷に帰るなり、レオンハルト様が出迎えてくれた。
「ちょうどソフィアさんが帰ってくる頃だと思ったんですよ。あ、荷物持ちますね」
「あ、ありがとうございます……」
レオンハルト様は相変わらず笑顔を浮かべていて、上機嫌に見える。
今から、そんな彼に「レオンハルト様だけを忘れてしまっているらしい」と伝えなければならないのだ。でも、そんなことして、幻滅されないかしら。失望されないかしら。
……嫌われたり、しないかしら。
彼のことを好きだと分かったばかりだったのに、嫌われてしまったら辛くて耐えられない気がする。
「ソフィアさん? どうしたんですか?」
私の様子がおかしいことに気づいたのか、レオンハルト様が立ち止まって、心配するように私の顔を覗き込んだ。
「いつもと様子が違いますね。何かあったんですか?」
どうしよう、話さなきゃ。でも嫌われたりしたら……どうすればいいんだろう。
ふいにレオンハルト様の手がこちらに伸びてきた。
「もしかして体調が悪いのですか? 熱でも……」
「ち、違いますっ!」
気づいたら、彼の手を払ってしまっていた。彼の驚いた表情を見て、私は何をしてしまったのかを察する。
「あ、あの、すみませ……」
「怖かったですか?」
「え?」
顔を上げると、彼の顔からはいつもの笑みが消えていた。
「よく知らない男から好かれて、怖かったですか?」
「そんな……こと……っ」
「抱きしめられたのが決定打でしたか、僕に嫌悪感を抱いたのは」
私は必死で首を振るが、彼は私を見てくれない。いつもの笑顔を浮かべておらず、辛そうに私から目を逸らすだけだ。
「それとも、僕の本性にでも気づいてしまいましたか……?」
「なんの話を……」
私が戸惑っていると、彼はぐっと顔を歪めた後、笑顔を浮かべた。取り繕った笑みだ。無理をしているのは分かるのに、彼にかける言葉が見つからない。
「すみません。取り乱しました」
「レオ……っ」
「今日はもうお休み下さい。僕は……なるべくソフィアさんと顔を合わせないように努力します」
そう言って、私は自分の部屋の中へ押し入れられてしまった。扉の閉まる無機質な音が響いて、私はズルズルとその場に崩れ落ちた。
どうして、彼は「怖かったのか」なんて聞いてきたのだろう。怖くなんかない。彼はどこまでも優しくて、私はあなたのことを大好きになってしまったのに。
でも。でも、「大好きだから怖くなんかない」なんて伝えられない。だって、私は彼のことを、彼だけのことを忘れてしまっている。
こんな状態なのに、彼のことを好きだなんて言えない。言えないのだ。