第2話 夫と名乗る男性
「き、記憶喪失……?」
あの後。どうにかして目の前の男性に何も覚えていないことを伝えると、私の夫と名乗るレオンハルト様は、急いで医者を呼んでくれた。
そして、医者から伝えられたのが「記憶喪失」という言葉だった。私は困惑しながら口を開いた。
「記憶喪失って……2年間だけ忘れるということもあるのですか?」
「よくあることですよ。珍しいことじゃありません」
医師はメガネをぐいっと上げて、言葉を続けた。
「普通、記憶喪失は頭に衝撃が走る時か強いショックを受けた時になるものですが、外傷は特に見られなかったので……。昨日寝る前に、何かショックな出来事とかあったのではないですか?」
「……」
私にとっての昨日は、婚約破棄された日のことだけど……ここでは実際の時間軸の「昨日」のことを言っているのだろう。私は「昨日」の記憶を忘れてしまっているため、答えることができない。
代わりに、私の後ろに待機しているレオンハルト様が口を開いた。
「昨日変わったことはなかったと思いますが……。アイシャ。君は何か知っているか?」
レオンハルト様が声をかけたのは、私の侍女であるアイシャだ。
彼女は幼い頃から私に仕えており、どうやらこの2年間も私のそばにいてくれたらしい。
寝室でレオンハルト様と話している時にアイシャが駆けつけてくれたから、今の状況に取り乱さず冷静になることが出来た。それに、彼女が証言してくれたから、夫と名乗るレオンハルト様の言葉も一旦は信じることが出来た。……まだ半信半疑だけれど。
記憶がなく知らない場所にいるこの状況は不安だったため、幼い頃からの仲であるアイシャがいてよかったと思う。
レオンハルト様からの質問にアイシャは首を横に振った。
「いいえ。昨日はレオンハルト様が夜お仕事だったので寂しがっておられましたが、それくらいです。いつも通りの時間に食事をして、就寝されていましたよ」
「そうか」
レオンハルト様が難しい顔をする。
「まあ、怪我をしたというわけではないので、そんなに心配することはありませんよ。人間というものは解明されていない部分も多くあるのです。ふとした瞬間に思い出すこともあると思いますので」
「そ、そういうものですか?」
「はい。とにかく定期検診は行いますが、いつも通り過ごして下さい。夫婦で思い出の地を回るのも効果的かもしれません」
「分かりました」
そうしていくつか必要事項を伝えた後、医者は帰って行った。
とりあえず、今日は安静にしておいた方がいいだろうとのことだったので、まだ時間的には早いが、私は寝室に戻ることになった。
「じゃあ、僕が案内しますね」
と、当たり前のようにエスコートしてくれるのは、レオンハルト様である。彼に連れられて、屋敷の中を歩いていく。広い屋敷だ。使用人もたくさんいるようで、私達が歩くと、何人もの侍女たちが頭を下げた。
私はレオンハルト様を見上げて、おずおずと口を開いた。
「あの、一つ質問をしてもいいですか?」
「もちろんです」
「私と婚約破棄をした後、カイン様はどうなったのでしょうか?」
「ああ」
彼はぐっと眉根を寄せて、声を一段低くした。
「彼は勝手なことをしましたからね。実家である伯爵家から怒りを買って、勘当されてましたよ。その後の彼がどうなったのかは知りませんが」
「え⁈」
「あの場に居合わせた……ソフィアさんのご友人方が彼を糾弾しましてね。そこに僕も口添えしたんです。そしたら、彼の立場が一気に悪くなったんですよ」
「そ、それは何故ですか?」
「僕が公爵家の人間だったからでしょうね。誰だって立場が上の貴族を敵に回したくありませんから」
「えぇ、レオンハルト様って公爵家の方だったのですか⁈」
私がそう言うと、彼は「それも忘れてしまわれたのですね……」と切なげに呟いた。
「す、すみません……」
「いえ。ソフィアさんが謝ることではないですよ。記憶喪失なんですから。まあ、公爵家と言っても、僕は次男ですので、家督を継ぐ予定はないですし、王宮騎士として生活していくつもりです。この屋敷は、公爵家とは関係なくて、去年、僕が副騎士団長に昇進した時に購入したものなんですよ」
「わ、若いのにご立派ですね……」
「全部ソフィアさんのためですよ」
彼は立ち止まって、私の顔を覗き込んだ。彼の美しいブルーの瞳が愛おしいものを見るように細められる。
「奥さんであるソフィアさんに喜んで欲しくて、頑張ったんです。ソフィアさんがいないと頑張れませんから」
「……っ!」
ストレートな愛情表現。慣れない言葉に、何て答えるのが正解なのか分からない。
私がアワアワしていると、彼はクスッと笑った。
「ゆっくりでいいので、知っていって下さい。僕がどれだけソフィアさんのことを好きなのか」
「……は、はい」
私が頷くと、彼は嬉しそうに笑って、再び歩き始めた。
「それじゃあ、ここが寝室になりますので。ゆっくり休んで下さい」
「はい。ありがとうございます」
私が頭を下げて、これで彼は立ち去るかと思ったんだけど。彼は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 添い寝の必要はありませんか?」
「添い……っ」
出会って一日も経っていないのに⁈
あ、でも2年間も夫婦だったわけだから、添い寝くらい当たり前で、何ならそれ以上も……っ。
私はそこで何とか巡る思考を止めて、首をぶんぶんと横に振った。
「だ、だ、だ、大丈夫です!」
「そうですか……」
力強く断ると、彼はシュン……と寂しげな表情を浮かべた。
か、悲しませてしまった!
記憶を失った私によくしてくれる人を悲しませてはいけないと焦った私は、
「あ、でも明日はご飯を一緒に食べましょう……!」
と口走っていた。子供の約束みたいだなと気づいたのは、言い切ってしまった後だった。
けれど、そんな私の言葉を聞いて、彼はパッと目を輝かせた。
「はい。嬉しいです」
これまでの大人っぽくて余裕のある雰囲気とは打って変わって、子供みたいに嬉しそうに笑った彼の表情に驚く。
そして、しみじみと実感してしまった。
この人、本当に私のことが好きなんだ……、と。
少し話しただけでも分かった。彼は私のことが好きだということ。私のことをすごくすごく大切にしてくれているということ。
彼と寝室前で別れてから、ベットにゴロンと横たわる。
見慣れない天井を見上げながら、夫を名乗るレオンハルト様のことを考えた。
そういえば、なんで私のことを好きになってくれたんだろう、と。
明日、聞いてみようかな。
彼は答えてくれるかな。
そんなことを考えながら、私は眠りに落ちていった。
だから、「記憶を失う直前、私に何が起きたのか」「なぜ、記憶を失ってしまったのか」という最も重要な問いの答えに考えを巡らせることをしなかったのだった……。