その隣は、わたしのもの。──席替えという名の静かな戦争
六月。窓の外では、風に揺れる新緑が光を透かしていた。教室の中はざわつきながらも、どこか湿った空気が漂っている。
「次の席替え、明日の5時間目にやるわよ。方法はくじ引きで。公平に、ね」
そう言って担任の佐伯先生が、黒板の横に透明な箱を置いた。箱には色とりどりの小さな紙片が詰まっていて、プラスチックの蓋がしっかりと嵌められている。
「前回と同じ箱じゃない……」
小さく呟いたのは柊詩帆だった。彼女は無表情のまま、その箱をまじまじと見つめていた。
「やった〜! 席替え、楽しみだね!」
と、明るく声を上げたのは春原千紘。昼休みのパンを手にしながら、一ノ瀬燈の机の横に腰かける。
「うん、席替え楽しみだね」
春原の声に、一ノ瀬燈は笑顔で頷いた。その表情は、いつも通りの人懐っこさで満ちていたが、目の奥は違った。微かに、静かな炎が揺れていた。
「前回、偶然だったけど……千紘の隣になれて、うれしかったな」
「偶然かな?」
柊の言葉に、一ノ瀬が低く、しかし確かに返す。視線は春原ではなく、箱の方を見ている。
「え? なにが?」
「なんでもないよ」
一ノ瀬の言葉に首を傾げる春原を、二人はそれぞれに違う意味で見つめた。
一ノ瀬は、口元に笑みを浮かべたまま心の中で呟く。
(ふふ……いいよ。今回の席替え、私が千紘ちゃんの隣を取るから)
柊もまた、何も言わずに席へ戻り、静かにノートのページを捲った。
まだ何も始まっていない。けれど、空気は静かに、濃く染まり始めていた。
放課後、教室の窓辺にはオレンジ色の光が差し込んでいた。大半の生徒が帰ったあと、教室には数人の残る姿があるだけだった。
柊詩帆は、自分の席に座ったまま、机の上で指を組んでじっと考えていた。
(箱の素材が変わってた。今回は、底に細工できそうもない)
前回の席替え。彼女は箱の隅に小さく折り目をつけ、自分が引く位置の紙が偏るよう微細な工作をほどこしていた。だが、今回は透明なプラスチック製に変わり、固くて柔軟性がない。
(……偶然か?いや、一ノ瀬が佐伯先生に何か言って変わったのかもしれない)
表情は変えず、視線をノートの上に落とす。が、そのページに文字はなかった。書くふりをしているだけ。彼女の脳裏には、春原千紘の笑顔が浮かんでいた。
(隣じゃなきゃ意味がない)
柊は静かに立ち上がり、教室を出る。廊下にはまだ数人の生徒が残っていたが、誰の目も気にしない。
一方、一ノ瀬燈は、生徒会室から戻ってくるところだった。彼女は両手で資料の束を抱え、廊下を歩きながら口元だけで笑っていた。
(クジなんて、運でしょ。そんなあやふやなもの頼るより、私が築いた人間関係のほうが確実に千紘ちゃんの隣を得られる)
彼女は、すでにクラス中の女の子に、根回しをしていた。
誰とでも仲良くできる彼女の稀有な能力を活かして、軽快なトークで巧みに“印象”を操作していた。
あくまで自然に。けれど確実に――「燈と千紘が仲が良い」という空気を周囲に植え付けていく。
それが、自然な席交換を正当化する「下地」になると分かっていたから。
あとは……奥村由紀さんね。あんまり話したことないけど、これは私が千紘ちゃんの隣を得るための作戦なんだから……次は絶対に負けない、柊さんには。
ちょうど廊下の先に奥村さんが歩いてこっちに向かっていることに気づく。真面目で控えめな眼鏡の少女。そんな彼女に一ノ瀬は話しかける。
「ねえ、奥村さん。くじ引きってさ、どうしても嫌な席になったとき、こっそり替えたりすることあるよね?」
「え……あ、まあ、そういうの、たまにありますけど……」
「ね、もし今度、千紘の隣になったら……私と替えてくれない?」
一ノ瀬は甘えるように笑った。明るく、誰にでも分け隔てなく優しい笑顔。それに対して奥村は困惑しながらも、曖昧に頷いた。
(よし、これでくじ引きで、誰が千紘ちゃんの隣を引き当てても大丈夫……まぁ私自身が引けばいいだけの話なんだけど)
翌朝。教室の空気は澄んでいるのに、どこか冷たい緊張感が流れていた。
春原千紘は、今日も元気に教室へ入り、柊と一ノ瀬に「おはよう」と声をかける。
その裏で、一ノ瀬と柊は互いの存在を感じ取りながら、言葉なく視線を交わす。
席替えの「前哨戦」は、静かに始まっていた。
5時間目。黒板には「席替え」の文字がチョークで書かれていた。名前の書かれた紙が入った箱が、担任の佐伯先生の手元に置かれている。
ざわつく教室。ワクワクした表情の生徒もいれば、どうでもよさそうにスマホをいじる者もいた。
柊詩帆は、静かに席に座ったまま、箱を見つめていた。硬いプラスチックの箱。隙間はなく、今回は細工の余地がない。
(……引くしか、ないか)
冷静を装っていたが、指先はかすかに震えていた。自分が運に頼ることになるとは思っていなかった。だが、春原の隣を得るには、それしかない。
順番にくじを引いていく、生徒たち。やがて、柊の番がくる。
「はい、柊さんどうぞ」
先生の声に小さく頷き、柊は箱に手を入れる。紙の感触はどれも同じ。仕方なく、端にあった一枚を取り出した。
広げた瞬間、心が凍りついた。
(……遠い)
春原の名前からは、3列も離れた席。彼女の存在を背中しか見れない位置だった。
机に戻り、表情を変えずに座る。だが胸の奥には、針のような失望が突き刺さっていた。
その頃、一ノ瀬燈は内心、ほくそ笑んでいた。
(よし……奥村さんが、千紘ちゃんの隣を引いた)
その瞬間、彼女は奥村の元に歩み寄った。
「ねぇ奥村さん、昨日の話、覚えてる?」
静かに声をかけると、奥村は少し戸惑いながら頷いた。
「……覚えてます。でも……先生が席替えは公平にするって言ってたし、やっぱり交換はダメだと思います……」
「え?」
「それにさっき、柊さんが先生に『席を変えるのはいいですか』って聞いてて、ダメだって言ってたからやっぱり席交換するのはやめましょう……」
一ノ瀬は笑顔を貼り付けたまま、一瞬、思考を止めた。
(柊さんめ……めんどくさいことして)
その場に立ち尽くす。春原の方を見れば、彼女は屈託のない笑顔で「隣だね!」と奥村に話しかけている。
その笑顔を見て、心の奥がじんわりと焼けるように熱くなる。
柊と視線が交錯する。互いに言葉は交わさない。ただ、眼差しの奥で静かに毒が滲む。
二人の策略は、どちらも失敗に終わった。
5時間目が終わり休み時間になると、教室は少しずつ落ち着きを取り戻していた。席替え後の配置に合わせ、机が移動され、新たな日常が静かに始まろうとしている。
春原千紘は、自分の隣に座った奥村由貴に微笑みかけた。
「奥村さんって、猫派?犬派?」
突然の質問に、奥村は目を丸くした後、少しだけ笑った。
「え……猫、かな。落ち着いてる感じが好き」
「わかる〜! 猫って、気まぐれだけど急に甘えてくると嬉しくなるよね」
「……うん、そんな感じ」
二人は初対面とは思えないほど自然に会話を重ねていた。
春原の緩やかな空気が、奥村の堅さを解きほぐしていく。
一ノ瀬燈は、その様子を前の列からそっと見つめていた。春原の笑顔。奥村の柔らかな表情。それは、数分前まで自分が思い描いていた光景だった。
(あの席にいたのは、私のはずだったのに)
ぎゅっと、膝の上で拳を握る。顔には笑顔を保っているが、唇の端が少しだけ引きつっていた。
一方、教室の後ろの席。窓際に座った柊詩帆は、何も言わずにじっとその光景を眺めていた。表情は変わらない。しかし、机の下で指が爪を立てるように握られていた。
(……不愉快)
心に澱のように広がる、静かな不快感。焦りも、怒りも、嫉妬も、すべてが無言のまま、内側に沈殿していく。
春原が誰と話しているか、それだけを見つめながら。
そして、春原が何気なく笑いながら言った言葉が、二人の心に刺さる。
「ねぇ奥村さん、これからいっぱいお話ししようね。なんか、気が合いそうな気がする」
その瞬間、一ノ瀬と柊の呼吸がかすかに乱れた。
笑顔のまま、春原千紘は新しい席の関係を楽しんでいる。
それを見つめる二人の少女――燈と詩帆の心に、誰にも見えない静かな狂気が、じわりと広がっていた。
まるで陽だまりに潜む影のように、そっと。