第十話 空を翔る狩人
リリィが身を屈めた。そう思った束の間、グッと身体が沈む感覚に浮遊感を覚えて……それがリリィスが身を屈めたと知った直後、急激に自分の身体が下へ引っ張られる感覚に襲われる。
強靭な四肢による跳躍、それは容赦なく矮小なシュクアの身体を鞍へと押し付ける。何とか歯を食いしばって耐えるも、続くのは巨大な翼が羽ばたくことによる上昇が加わる。
──クソッ……!
強烈な風と揺れを受けて悪態を吐きたいのを抑えてリリィスにしがみつく。しかし意外にも揺れが大きかったのは最初だけで、彼女は更に大きく翼を広げるとぐんぐんと上昇していく。
耳元で風を切る音が響き、僅かに身をずらして彼女の身体越しに下を見れば地面が目眩のするような速度で遠ざかっていく。
──凄まじいな……
ドラゴンとしてはまだまだ未熟とはいえど、馬は愚か巨大な熊すらも悠々と凌駕するほどの巨大。それも人一人乗せてなおも有り余る力が、重量の塊を地面から悍ましいまでの速度で遠ざけていくのだ。
──下から見上げるのとはまるで違う……
今までは軽々と飛び上がっていくリリィスの姿を確から見上げるだけだったが、いざそれを経験してみればまるで違う。
周りを見渡せば薄い雲が漂っていて、地面の木々などシミにしか見えない。空気は澱みなく澄んでいて、水平飛行に移ったのか揺れも殆どない。
「これは、凄いな……」
「しっかり捕まって」
感想を口にしようとしたシュクアの言葉を遮ってリリィスがそう言う。何のことだと聞き返すよりも早く、身体がガクンと傾いた。
続く浮遊感に加えて地面や空が目眩く回って、上下の感覚もわからない。ただリリィスが回転しながら下降していることだけは唯一分かって、すぐに嘔吐感が込み上げてくる。
「クソッ! 何だって言うんだ!」
これでは悪態をつくのも無理ないことで、リリィスが水平飛行に戻った時、口元を抑えて忌々しげに下にいる白いドラゴンを睨め付けた。
「今のは空中における一番簡単な回避行動、もし他の龍族と戦闘になればもっと激しい動きもする。貴方には早く慣れてもらわないと困る」
「なら、前もってちゃんとそう言ってくれ」
何もいきなり、一言の断りもなく回避行動をする必要もないだろう。緊急を要するのなら兎も角、前もって説明するのには十分な時間があったはずだ。
「いざその時になって、いちいち私が次にどんな行動を取るか言う余裕はない。貴方には私がどんな動きをしても、それに付いてきてもらわなければいけない」
「…………それも、そうか」
胃のむかつきを抑えて低く頷く。ふと下界へと目を向けてやれば、木々の間を進むガテムの姿が見えた。
既に知っていることだが、悪魔から授けられたこの身体は超人的な五感を持っている。天高くから見下ろしても人の姿が見えるほどだ。
「なぁ、リリィ。お前はどれぐらいの速度で飛べる?」
ふとそう尋ねてみれば、後ろからでもわかるほどに白いドラゴンが口角を釣り上げて笑った。
「試してみたい?」
「ああ、見せてくれ」
シュクアの言葉に一つ唸り、彼女が翼を畳む。直後、ガクンと身体が沈み込む感覚と共に感じるのは浮遊感。
大きく羽ばたいた翼にて更に推進力を受け、重力の力も借りて勢いを増す。強烈な風に煽られて堪らずリリィの首にしがみついた直後、次に強烈な力で彼女の身体に押さえつけられた。
急降下が一転、今度はその勢いのまま四枚の翼を使って勢いよく昇っていく。強靭な筋肉が浮き出し、更に大きく強く翼を動かす。
上昇していると言うのにまるで勢い劣らずに旋回、速度だけではなくまるで軽業師の如く天空にて舞い踊る。
「貴方もそろそろ慣れていいんじゃない?」
「無茶言うな」
未だ首元にしがみつくシュクアにリリィがそう言う。四方八方に揺らされて落ちない様にするのが精一杯だと言うシュクアに、リリィの意識が重なる。
龍騎士と龍族との間には強い絆が結ばれていると言う。当人達が望む望まぬに拘らず、絆が結ばれた相手とは決して離れられない。
──その理由が今、シュクアの中に生まれようとしていた。
「……ああ、そうか……」
頭の中へとリリィの思考が、感情が流れ込んでくる。彼女が次にどんな行動を取ろうとしているのか、これでも背中に乗るシュクアを気遣っていることがわかった。
ゆっくりと顔を上げて、彼女の取る行動が先んじて意識を通して送られてくる。どうすれば良いのか、どうすれば振り回されないのか……それが分かれば存外簡単だった。
「へぇ、意外と才能があるのね」
「俺の才能じゃないさ」
鞍の上にシュクアを尻目に一瞥して、リリィが不敵に笑う。彼女が大きく旋回するも、背中に立つシュクアはまるで微動だにしない。
──互いにわかっているのだ。どうすればシュクアが振り回されずに済むのか、どうすればリリィスの動きについていけるのか。
それが手に取るようにわかるから、こうして両手を離して空を翔るドラゴンの背中に立っていられる。ゆるりと鞘から刀を抜き放ち、受ける風に目を細めた。
「……不思議な気分だ……」
強い全能感、今の自分に敵などいないと感じしまう。故にこそ頭の中で敵の竜騎兵が並行して飛んでいると想像して、それを撃ち落とさんと術式を構築する。
──まずは、単純に炎でいいか……
空中戦において有効な戦法は知っていて損はない。刀を握る方とは反対の手に中に火球を作り出すも、強い風に流されてそれはすぐに消えてしまった。
「炎はダメか」
「もっと火力を上げるか、別の魔法を使うしかない」
リリィの助言を受けて他の魔法を思考する。悪魔の記憶から風の強い状況でも使える魔法を探す。
「シュクア!!」
そうして思考するシュクアの耳に、まるで咆哮する様な声が届いた。思わず身を竦めて、すぐにそれが意味することを理解する。
「ガテム……!」
リリィが示す先、地上を行く画面の周りを囲うように五つの影が見えた。先の影主から逃げ切れたと思ったが、どうやらそうではないらしい。
影主自身は来ていない様子だが、そんなことはどうでもいい。奴がまだ負傷から立ち直れているかどうかよりも、先んずはガテムの方だった。
「……まずいな……」
影は距離をあけてガテムを追跡しているが、その距離を徐々に縮めている。間合いに入るか、ガテムに気付かれればばすぐにでも襲いかかるだろう。
「降りれるか?」
「無理、近くに開けた場所がない」
四方を見渡しても先ほど飛び立った場所の様に広けた場所が見当たらない。どこをみても木々が密集していて、どう考えてもリリィが降りるのは無理だろう。
「とにかく近づいてくれ」
「何か考えがあるのか?」
リリィスの問いかけに首を横に振るシュクア。しかしそれで彼女はシュクアの意図を汲んで、翼を半分畳む一気に降下していった。
シュクアもまた刀を鞘に戻すと鞍に腰を下ろす。ゆっくりと息を吐き出して焦る心を落ちかせると、一つの左手を頭上に掲げた。
脳裏に思い浮かべるのは氷槍。とにかく大きく、まだ力には余裕を残しつつも相応に巨大化した大槍を顕現すると、それを一つの影目掛けて撃ち放った。
木々の枝を砕く音、倒れた樹木は一つや二つじゃない。大規模な土埃をあげてリリィよりも二周り以上に巨大な氷槍が着弾した。
「どう?」
「手応えはない。だが、これでガテムも異常には気づくだろう」
相当に大規模な魔法だ。質量の塊が地面を大きく揺らし、周囲では驚いた動物達が逃げ場を求めて逃げ惑う。
木々の隙間から鳥達が飛び出して、これにはすぐにでもガテムも異常さに気がつくだろう。
「炎は使わないで。ガテムまで巻き込むかも知れない」
「ああ、言われずとも」
再び氷の槍を顕現。しかしそれは手に持てる大きさで、リリィスの背中に立ったシュクアが影の一つ目掛けて投げつける。
リリィスが飛翔する速度と身体強化の魔法で跳ね上がった膂力。それを持ってすれば打ち出された氷槍は弾丸にも等しい。
超人的な動きで氷槍を回避した影、それを通り過ぎた氷槍が硬い樹木を易々と打ち砕く。嫌な音を立てて木の一つが傾いていった。
「もう一発」
再び顕現した氷槍が飛ぶ。しかしやはり、当然と言わんばかりに影は無理のない動きで氷槍を避ける。
「威力を落としても数を増やし方がいい」
「ああ、そうしてみよう」
リリィスの助言を受けて、シュクアが術式に変更を加える。次に作り出したのは氷の礫、先に比べれば拳大のそれは明らかに威力に乏しいが数は桁違いだ。
無数の氷粒が弾幕の如く、雨の様に影目掛けて降り注ぐ。無数の木々が粉々に打ち砕かれて、それでもなお劣らぬ冷たい氷雨が着弾することでもくもくと土埃が舞う。
「これは手応えがありそうだが……」
一通り撃ち終え、相当に力を消費したシュクアが息を切らす。そんな彼の視界に映るのは、土煙を抜け出した影の姿だ。
──つくづく化け物だな……
あれだけの弾幕を避け切ったと言うのだろうか。全く嫌になると、再び同じ魔法を構築しようとして止めた。
「どうした?」
「これ以上撃てば力尽きる。流石にまだ回復し切れていなかった」
リリィスに首を振ってそう答えれば、彼女もまたやるせなげに唸るのみ。──とは言えど、こんなところで指を咥えて見ているつもりなど微塵もない。
「リリィ……」
自分が何を考えているのか、その無謀さはよく分かっている。それに付き合わせるリリィスに申し訳ないと思いながらも、やらねばガテムが危ない。
「……悪いな」
彼の意図を理解したのか、リリィスが吠えると更に一段低く飛ぶ。シュクアもまたリリィスの背中で身を低くして身構えると、彼女はその勢いのまま森の中へと突っ込んでいく。
細い枝を砕き、木々の間を縫う様に飛ぶ。当然、ドラゴンが飛ぶのに十分な隙間などなく、ぶつかりそうになる木を蹴り付けてリリィスが半分跳躍する様に進んでいく。
木を避けるために翼を閉じれば重力に負けて身体が落ち、またぶつかりそうになれば六本ある四肢を使って木を蹴り付ける。
流石に高度を維持することもできず、半分落ちる様な勢いで木々の間を縫う様に進む。間も無く着陸……その直前、視界の端に影が映った。
「──っ!?」
いつの間にか木の上で待機していた影が飛び込んできて、振り回されて落とされまいとリリィスにしがみつくシュクアの反応が一瞬遅れる。
影が狙うのはリリィスで、彼女の頭部目掛けて落ちてくる影に追い縋る様にシュクアがその首を駆け上がる。
影の長剣がリリィスの後頭部に届く直前、シュクアが身体ごと影に体当たりしてその軌道を逸らした。しかし当然とも言うべきか、リリィスから投げ出されたシュクアが地面目掛けて落ちる。
遅れてリリィスが投げ出されたシュクアを受け止めようと、四本ある前足の一つを伸ばして……しかしそれが悪かった。
「リリィ!!」
宙に投げ出された姿勢のまま、それでもシュクアが叫んだ。完全に思考がシュクアのことで一杯になり、彼女は眼前に迫る大樹が見えていない。
辛うじて頭部を打ち付けることは避けたものの強かに肩を打ち、続いて身体全体が大樹に叩きつけられる。意識を通じて全身に響く鈍い痛みがシュクアにも感じられた。
──ああ、クソ……
遅れてシュクアもまた自分の状況を理解する。リリィスを心配するあまり完全に反応が遅れたと、そう感じた直後……彼女にも負けない勢いで背中から地面に打ち付けれる。
チラつく視界を意志の強さで縛り付けて、ふらつきながらも素早く立ち上がると鞘から刀を抜き放つ。
大樹にぶつかり、地面に投げ出されたリリィスはシュクアよりも衝撃が大きい。未だ地面に投げ出されて動けないリリィス、そこへと追い縋る一つの影。
「させるか」
影の足元、それが揺れたと思えば無数の黒棘が突き出す。何の素材がわからない黒結晶の棘に影はその足を止め、回避行動に映る。
「やっぱり、あの時の怪物か」
重油のような外骨格、関節の多い脚に四本の腕。外套に身を隠していれば人間と大差ないが、こうして剥き出しになれば醜い化け物だ。
「あの時の借りを返してやるッ!」
噛み付く様にそう言うシュクアの背後、木々の隙間から飛び出してきたもう一つの影。その長剣を刀で受けると同時、跳ね上がった脚から放たれた強烈な蹴りが相手の胴を捉える。
「シュクア、もう一人いる」
立ち上がったリリィスがそう警告を鳴らすと同時、シュクアが口の中に一つの呪文を含む。ただそれだけで周囲の木々が悲鳴を上げた。
無数の黒結晶が無秩序に地面から突き出して、それが木々をも食い破る嫌な音が森に響いた。
「今度こそ息の根を止めてやろう」
黒結晶が粉々に砕け散り、姿が現したのが三つの影。リリィスのシュクアがそれぞれ影を視界に映して、そうして二人が見せたのは同じ表情。
口角を釣り上げて獣が敵に対して牙を向く様に、口元を歪ませて獰猛に笑った。
「慈悲はいらんだろう?」