007
どれだけの月日が流れたのだろう。長い時を檻の中で過ごし、自分が何をしていたのか、何故ここにいるのか、全てが分からなくなっていた。
ここに来る以前の記憶を辿ろうとする度に、耐え難い頭痛が襲い、思考を止めざるを得なかった。
ただ一つ、心の奥底に燻り続けていたのは、幸せになりたいという、ありきたりな願望だけだった。
自分が誰であったかさえ思い出せず、檻の向こうにいる人々から暴言や罵倒を浴びせられる日々。
考えれば考えるほど苦しみが増すことに気づき、己は思考する価値も無い存在だと自らに言い聞かせた。
気が付けば、何かを考えることさえも放棄し、ただ時間に身を任せるようになっていた。
商人の言われるがままに生命維持をする日々を過ごしていると、ある日、歳の変わらない少年に買われた。
少年は私を薄暗い部屋へ連れ込むと、何かを話しながら身体をまさぐっていた。時には外を歩かされ、時には何かを食べさせられた。
しかし、興味も関心も湧かなかった。抵抗する気力すら失った私は、全てを無感情に受け入れていた。
「そういえば君、何て名前なの?」
やがて少年は命令を出すようになり、隷属の魔法によって身体が強制的に動かされる最中、不意にそんな質問を投げかけてきた。
その瞬間、胸の奥で鼓動が跳ねた。何も考えたくないはずだったのに、少年の言葉に否応無く反応してしまう自分が居た。
だが、答えは出ない。支障の無い範囲で記憶を探ってみても、自分の名前はどこにも存在しなかった。
「……名前が無いの?」
少年は不思議そうに尋ねてきた。
何故か、その言葉を聞くだけで胸が高鳴る。私は、名前を欲しているのだろうか?
どうすれば良いのか分からず、佇んでいると、少年は私の顔を覗き込んで笑顔でこう言った。
「なら、僕が名前を付けてあげよう」
「リン、というのはどうかな?」
少年がしばし考えた末に与えたその名を、私は何度も頭の中で反芻し、深く心に刻み付けた。
その響きが、空虚だった私の内側へと静かに染み渡っていく心地だった。まるで、それが私の存在意義そのものとなるかのように。
「どうかな? 気に入らないなら、他のに変えても良いけど」
私が微動だにしないのを見て不安を覚えたのか、少年が変更の提案してくる。
その言葉に、私は慌てて首を振った。
少年はその動作に目を丸くすると、安心したように頷いて、私の手を握りしめた。
「そうか、気に入ってくれたようだね。なら、これから君のことはリンと呼ぼう。よろしくね?」
彼の言葉に導かれるままに顔を上げれば、初めて少年と目が合った。
その瞳は、生きる意志で満ち溢れていて、見失っていた何かを思い出させるものだった。
そっと、少年の温かい手を握り返す。
私は初めて、自分に差し込む光の存在を感じた。そして同時に、この少年に対して強い興味を抱いたのだった。
それからの日々は、刺激に満ち溢れていた。
少年の指示の元で、給仕の仕事から勉強、運動に至るまで、様々なことを課せられた。半ば強制的ではあったが、己のやりたいことさえ分からない私にとって、すべきことを与えられるのはむしろ楽だった。
きちんとこなせば褒美が与えられ、衣食住も充実している。奴隷という立場にしては、驚くほど恵まれた環境だったと言えよう。
そんな生活の中で最も大きな関心を引いたのは、もちろん私を拾った少年、シリウスだ。
彼は、私を恐れなかった。私の身体からはおぞましい雰囲気が漏れ出ているようで、それが人々から忌み嫌われる原因だった。
奴隷市場から屋敷へ移った後も、周りの態度や向けられる視線は変わらなかったが、彼だけは恐れる素振りを一切見せず、むしろ歓迎する態度をとっていた。
感謝の気持ちを伝えたい。
だが、脳の奥底に潜む過去の私がそれを阻み、言葉として紡ぐことが出来なかった。
そんなある日、彼は買って丁度一年の誕生日とのことで、ケーキを用意してくれた。
存在だけは知っていたケーキを実際に口にできる喜び。そしてそれ以上に、自分の誕生日を祝ってくれる人がいるという事実が、何よりも幸せだった。
気付けば涙が頬を伝い、その時を境に、私は言葉を発することが出来るようになった。
喋れるようになったその日の晩は、彼の布団に入り込み、時間を忘れて言葉を交わした。
私を恐れない理由を尋ねると、むしろ快適に感じられ、悪夢に魘されなくなると返ってきた。その言葉に、この体質も役に立つのだと知り、僅かだがこの身体のことを好きになれた。
その流れで、ずっと心の奥底に燻っていた願い、幸せについても聞いてみた。
彼は、即座に生きること、死なないことが幸せだと断言した。
続けて、死の恐ろしさを語る彼の瞳は酷く濁っていた。言葉にも異様な熱が込められて、聞く者の本能に恐怖を刻み込む迫力がある。
彼は時折そうした様子を見せる。
微笑みながら覗き込む瞳は底知れぬ深淵のようで、被検体を観察するような冷たさを帯びている。それは、世界から断絶された異質な存在だと告げているかのようだった。
私に差し込んでいたのは光ではなく、生きるもの全てを呑み込む闇だったのかもしれない。
だが、どうしてだろう。
異常さを理解した上でなお、私の心は彼に惹かれていった。忌み嫌われ、拒絶された自分にとって、彼は相応しい主に思えたのだ。
何であれ、彼は私に普通の人間のように接してくれる。勉強や訓練は厳しかったが、理不尽な要求は一切せず、成果を上げれば優しく褒めてくれる。
空虚だった私の心は、彼との思い出で少しずつ埋められていった。
……その中には、特別な感情も込められて。
私の命の価値は未だ分からずに居る。何故生きているのか、何故死なずにいるのか、その答えは出ないままだ。
けれど、一つだけ確かなものがある。
彼の笑顔に滲む、生への強い執着、見果てぬ夢を追い求める確固たる意思。
それらは私の胸の奥深くを焼き付けて、どうしようもなく心を惹きつける。
その想いを自覚した時、私はシリウスに一生付き従い、全てを捧げることを決めた。
その先に、二人の幸せがあると信じて。
* * *
「――おい、大丈夫か?」
投げ掛けられた言葉に、リンは我に返る。
昔のことを思い出していた。主の元を離れると、すぐにこうなるのは悪い癖だ。
「申し訳無いです、少々気が散っておりました。もう大丈夫です」
「そうか。気付かれることは無いだろうが、油断は禁物だぞ」
丁寧に警告をくれるのは、主様が指導役として招いた冒険者たちだ。
これから最終試練として、彼らに見守られる中、森の奥深くに巣食う魔物――ゴブリンの集団を討伐する任務が控えている。視界にはすでに何体かのゴブリンを捉えていた。
ゴブリン共を殲滅し、冒険者たちから問題無しとの評価を受けられれば、晴れて独り立ちだ。
主様の役に立つ為に、ここで失敗する訳にはいかない。平常の状態でも討伐出来る自信はあったが、念の為に身体強化の魔法も掛けておく。
「準備が整いました。討伐に向かいますので、厳正なる審査をお願いします」
「あぁ、分かってる。万が一危なくなったら、俺たちが助けるからな」
「ありがとうございます。それでは、行って参ります」
言葉を残し、隠密の姿勢を保ちながらゴブリンの背後に忍び寄ると、初撃で三体の首を纏めて撥ねる。
そこからは周囲がリンの存在に気付いて戦闘に突入するが、数年恵まれた環境で鍛えられた者に、ゴブリン如きが敵になるはずもない。迎え撃つ者も逃げようとする者も、一人残らず殲滅する。
……結局、大した問題も起こらず、十分足らずでゴブリン集団の討伐が完了した。
「それにしても、やっぱり強いな……。隠密や索敵の技術もあっという間に身に付けたし、単純な戦闘能力も高い。正直、俺たちのチームに入って欲しいくらいだ。どうだ? 今からでも冒険者として一緒にやらないか?」
「お断りします」
「即答かよ……」
指導役のリーダーの誘いを軽く流しながら、リンは討伐した魔物の胸を裂き、魔石を取り出す。
魔石は魔物にとっての核のようなもので、これを取り出すことで魔物は形を保てなくなり、やがて塵となって消える。魔石は魔導具の材料としてよく使用され、冒険者組合に持ち込めば討伐の証明となり報酬が支払われる。
主様がよく出来た仕組みだと褒めていたが、リンも同感だった。
リーダーが頭を掻きながらぼやくのを見て、仲間達がすかさず指摘する。
「いつまでも未練がましいことを言わないでくださいよ。初対面で、あれだけ罵倒した相手に付いていく訳ないでしょう? それに、あのご子息様がこれほど優秀な子を手放すとも思えませんし、リンさん自身が彼に付き従う意志を持っているのは明らかじゃないですか」
「そうなんだよなぁ……。奇病が治るとは思わなかったし、こんなことなら最初から邪険にするんじゃなかったぜ……」
「だから変なこと言わないでくださいって、前々から言ってたじゃないですか。敵を増やすだけですよ。それより、リンさん、そのメイド服に返り血が一切付いてないのですが……」
「汚れが酷くなると手入れが面倒なので、浴びないように動きました」
「やっぱり、狙ってやっていたんですね。凄いです」
「ありがとうございます」
仲間の一人に軽く会釈する。この人は丁寧に接するに値する、冒険者には珍しい真っ当な人間だ。
主様から教わった、相手によって対応を変える処世術を忠実に実行しているが、今のところ問題は見られない。
その態度の差に少し居心地が悪くなったのか、リーダーが話の主導権を無理やり取り戻す。
「あー、それにしても、あのご子息様もなかなかの腕だったよな。剣も魔法も使えて、冒険者としても通用しそうだったのに、来れないのが惜しい」
「まったく、この人は……。まぁ、確かにリンさんも魔法の習得が早かったですし、やはり本職に教わると違うんでしょうね」
仲間が呆れながら同意するのを聞きながら、リンもまた同感していた。私の成長の速さは、教育の質が大いに影響しているのは間違いない。
主様もまた、実戦経験を積む為に冒険者になろうとしているが、当主との交渉に苦戦している。
そこまで行くと、いよいよ領主という地位からは程遠くなってくる。研究者としての道を歩むことを主張して、父が折れるのを待っているそうだ。
「ただ、教えていた魔導師が研究に専念するとか言って、急に消えちゃったんですって? お陰で私たちと活動する時間は増えましたけど……」
仲間の続いての気遣わしげな言葉に、リンは一瞬身体を静止させた。
魔導師――散々奴隷だからと冷遇しておきながら、オーラが無くなった途端に態度を翻し、優しげな振る舞いを見せた挙句、私とご主人様を引き剥がそうと画策した不届き者。
目障りだったので数週間前に殺したのだが、表向きは失踪したことにしているのだった。
「えぇ、そうですね。残念です」
直ぐに動きを再開して、淡々と返事をする。
普段から無表情で居れば、こういう時に少し動きを止める程度で済み、寂しげな素振りをする必要が無いので楽だ。
魔導師の暗殺は容易だった。
私が命を狙ってるとは微塵も思ってもいなかったようで、話に興味があることを仄めかせば、有している魔法の知識から家族構成といった身の上の話まで、何でも喋ってくれた。
常に争いが絶えないような、荒れている東方の地の出身で、家を飛び出すように去り、独り黙々と魔法の研究に没頭していた故に、家族や他者との関わりが薄かったのは幸いだった。
突然失踪したとしても、大きな騒ぎにはならないだろう。そのように寄る辺の無い人間であるからこそ、評判の悪い我が家の依頼を受けることになったのだろうが。
情報を全て吐かせたら、もう用は無い。
夜な夜な魔導師の自宅に忍び込むと、何らかの研究をしている所を、背後から一突きで刺殺した。そのまま遺体は燃やし、近くの墓地に埋葬した。
魔法の力を使えば、この一連の行動を一晩で終わらせるのは造作もないことだ。
念の為、顔を隠して使い捨ての古着を身に纏った。仮に目撃者が現れたとしても、そこから私の正体に辿り着くことは無いだろう。最悪の場合でも、私の独断ということにすれば、主様に影響が及ぶことは無い。
喜ばしいことに、魔導師を処理する提案を行い、実行に至る一連の流れを経た結果、主様から寄せられる信頼は以前にも増して大きなものとなった。
提案する際には少なからず覚悟が必要だったが、臆することなく進言して良かったと、今では心から思う。
「ま、何はともあれ、君は文句無しの合格だ。もう俺らに教えられることは無い。今後は一人でやって行けるだろう。ただし、くれぐれも力量差を見誤って死ぬことの無いように。一気に力の伸びた冒険者は慢心しがちだからな」
「お気遣いありがとうございます」
そして今、冒険者からの最終試練を突破し、正式に独り立ちすることが許された。
これからは商人を挟む必要も無く、自らの手で新鮮な素材や資金を調達出来る。それにより、主様の研究も一層効率的に進むことだろう。
主様は、これから独自の反逆防止策を編み出すと仰っていた。
それが完成し、自身に施される暁には、主様からの全面的な信頼を得られるに違いない。
自らの力を以て主様の期待に応える、そんな未来を想像するだけで、胸が高鳴る。主様に尽くすことに勝る喜びはこの世に無いのだ。
「楽しみです……」
誰にも気付かれることのない、小さな声でリンはそう呟く。その声音には、使命感と喜悦の入り混じった恍惚が滲んでいた。
この辺りの心境描写がなかなか上手く書けず、悔しい……!