005
リンを手にして一年が経った。
定期的に喋るよう促しているが、未だに一言も喋ってくれない。メイドにこき使われている様子を見て見ぬふりをし、彼女の方から助けを求めてくるのを待っているが、そうした兆しも全く見えない。
それでも、表情や動作で感情表現をする機会が増えてきた。その変化は微々たるものだが、傍で注意深く観察してきた僕が見逃すはずもなく、その微細な変化から感情や意図を汲み取れるようになっている。
リンもその行為を受け入れており、着実な信頼関係を築けていると思う。
そして、様々な分野を学び始めてしばらくの時間が過ぎたことで、努力を継続した成果が目に見えて出始めていた。
「随分と強くなりましたね。流石は坊ちゃん」
中庭で剣術の師と木刀で打ち合っていると、不意に褒め言葉を投げ掛けられた。
最初は剣を振り切ることすら苦労していたが、今では剣を自在に操り、相手の打ち込みを剣の中心で正確に受け止められるまでに成長している。
「魔法ありきの強さですけどね」
「それでも、ですよ。技術は確かに身に付いています。もう少し歳を取って立派な体付きになれば、魔法が無くてもそこらの大人に勝てるようになるでしょう」
大の大人と九歳である自分では、技術云々以前に単純な力の差で勝てない。そこで、魔法の練習も兼ねて身体能力を向上させる魔法を自分に付与しているのである。
それでようやく、対等に渡り合える程度にはなってきた。対等とは向こうの言い分で、こうして論評する余裕があるのだから、まだまだ差は歴然だ。貴族である僕を持ち上げているだけだろう。
ただ持ち上げるにしても、対等という言葉を引き出せるくらいには僕も成長したということだ。自身でも確かな手応えを得ており、修行の成果が出ていることに充足感を抱く。
「それにしても、これまで何人かに教えて来ましたが、ここまで成長が早いのは珍しい。素直に言うことを聞いてくれて、とても助かりますわ」
成長の秘訣は、何と言っても実直さにあるだろう。
欲を出して難しい技に飛びついたり、気分転換と称して指示外の動きを試したりすることなく、師から教えられた基本に忠実に取り組んできた。
この姿勢が成長を効率的に進める要因となっている。地道な努力の積み重ねが、何よりも大切だと実感させられる。
……とはいえ、何事にも例外は付き物だが。
「貴方が丁寧に教えてくれるおかげです。ありがとうございます」
手を緩めつつお礼を述べ、相手の油断を誘ってこちらから仕掛ける。
不意を突いたつもりだったが、綺麗に受け止められた上に、そのまま剣を弾かれてしまった。一旦間合いを取り、機を伺うように構え直すと、師はふと寂しげに目を細める。
「ですが、前々から伝えていた通り、彼女への指導は切り上げ時かもしれません」
言って、師は戦意の無さを示すかのように剣を握る手を下ろし、顔ごと視線を横に向けた。
その視線の先には、虚空に向かって剣を振り下ろしているリンの姿があった。
彼女の幼い身体からは想像もつかない速度で剣が振り下ろされ、風を斬る音がこちらまで届いてくる。ただの素振りであるにも関わらず、名状し難い圧力が周辺の場を支配していた。
「それほどなので?」
「えぇ、彼女にはこれ以上教えることがありません。教えるどころか、自分が教わる羽目になるくらいです。正直言って、身体に響きますね」
言うと、彼女に向かって歩き出す。次は彼女と剣を交えるのだろう。
相手は年端のいかない少女にも関わらず、師の顔は強ばっている。それは彼女の発するオーラによるものなのか、はたまた……。
リンの成長速度は、僕がしている地道な積み重ねが馬鹿馬鹿しく思えてくるほどに、異常なものだった。
薬学を学ぶ中で、筋肉強壮剤など身体能力を向上させる薬品も扱っていた。試しにそれを彼女に投与してみたところ、持ち前の生命力と相まってか想定外の成長速度を見せ始めた。
技術に関しても同様で、教えたものをすぐに身につけ、実践で使いこなしている。その成長ぶりは目覚ましく、師ですら子供相手に手に負えないと認めるほどだ。
まぁ、師もそこそこの歳だ。
長年の経験により培われた知識や技術こそあれど、もう身体がついていけないのだろう。指導に限界が訪れ、リンをこれ以上成長させられる見込みが無いとなれば、それ以上は時間の浪費に他ならない。
彼女には、より高水準の教材が必要だ。
この世界には、魔物の討伐や素材の収集を生業とする、冒険者という職業が存在する。
彼女の実力を考えれば、将来的には冒険者として外に出し、薬剤の調合や錬金術に必要な素材の収集を任せるのが適任だろう。
ただのお使いでは彼女の能力を十分に活かせない上、その独特なオーラで悪目立ちする可能性がある。訳ありの人間が多く、単独で行動することも少なくない冒険者という職業は、彼女にとって理想的な選択肢に思える。
そうなると、対人戦を想定した剣技や魔法だけでは心許ない。
冒険者は、複雑な地形を探索し、特異な能力を持つ魔物と対峙するのが日常だ。単純な戦闘力だけでなく、野外での生存技能や実践での戦闘経験が求められる。
これらを補うためにも、新たな師として現役の冒険者を雇い、直接指導を受けるのが最善か。
奴隷への出費は父が渋い顔をするだろうが、そこはこれまで培ってきた信頼を使って、無理を通す。
リンが自前で素材が回収出来るようになれば、一々父を通して商人から仕入れる必要が無くなり、出費が抑えられるようになる。
これは将来を見越した投資である。
うん、良さそうだ。今日の修行を終えたら、早速父に話を持ちかけるとしよう。
考えが纏まったので顔を上げると、リンが素早く動き回って師に喋る余裕すら与えない、文字通り互角の戦いを繰り広げていた。
手元に魔力を込めると、やがて炎の球が生成される。それを離れた位置にある等身大の的に目掛けて放つ。
球は的を目掛けて一直線に飛来し、着弾。立ち込めた白煙が晴れると、焼け焦げた跡のある的が地面に転がっていた。
「ふむ、発動は安定していますね。狙いの精度も申し分無いです。そろそろ次の段階……中位魔法の習得に移行しましょうか」
「分かりました、先生」
現在学んでいるのは、用途や習得法が確立され、威力や難易度に応じて、低位、中位、高位の三段階に区別されている定番の魔法だ。
低位の魔法は習得が容易とされているが、実際に習得するまで一年弱もかかってしまった。またしてもリンに遅れを取る始末である。
魔法の発動には、前世には無い感覚を求められるせいで、転生というアドバンテージを活かしきれないのが辛い。それでも習得が早い方だと言うのだから、魔法というものの奥深さは計り知れない。
ちなみに、学んでいる定番のものとは別に、新たな魔法を独自に編み出すことも可能である。
その開発や研究には人生の大半を捧げる必要があると言われており、先生もその道を志す一人だ。家庭教師として働いているのも、研究資金を調達する為だという。
最初はその大掛かりさに実感が湧かなかったが、魔法の難易度を知った今ならば、その理由もよく理解できる。
魔法は奥が深すぎて、極めるには余りにも時間が足りないのだ。何せ人生は有限なのだから。
「それにしても、魔力量はかなり増えましたね……。教えた私が言うのもなんですが、辛くないんですか?」
「慣れれば平気ですよ」
「そうですか……」
あっけらかんと返答をする僕に、魔道師は煮え切らない様子で反応した。
以前、先生が教えてくれた魔力を一気に増やす方法を、僕らは毎日行っている。
魔力欠乏が死ぬほど苦しいとよく言われるが、死んだ経験のある僕からすれば、それは死んだことがない者の戯言に過ぎない。あの時の苦しみに比べれば、どうということはなかった。
リンも多少は苦しそうにしているが、それでも毎日継続している。彼女も過去に多くの辛い思いをしてきたから、その経験が活きているのだろう。
そうして魔力量は着実に増加しており、先生が言うにはもう並の貴族を凌駕しているのだとか。ただ先生に比べれば全然だし、幾ら魔力があったところで技術が伴っていなければ虚仮威しに過ぎない。魔力の量だけで、その人の実力は判別出来ないのだ。
まだまだ先は長いが、魔法の分野でも地道に頑張るとしよう。
後は、リンの体質の謎について、一つの仮説が浮かび上がった。
彼女の特徴である生命力やオーラは、いずれも本人の意思に関係なく発動している。加えて、人体に直接影響を与える効果であることから、聖属性か魔属性の魔法によって魂に何らかの効果がかけられている、というものだ。
先生に話を持ちかけたところ、詳しくないので確証は持てないが、筋は通っているとのことだった。
僕だけオーラが平気なのは何故かなど、不明な点はまだまだ残っている。不老不死とは直接結び付かないが、今後手駒として扱う以上、解明を進めていきたいところだ。
夜中、僕が相も変わらず学術書を読み漁る傍らで、リンは様々な器具を駆使して作業に勤しんでいた。
学術書の内容に意識を奪われ、リンの存在が頭の片隅へと追いやられてしばらく経った頃、袖を引っ張られる感触を覚える。
顔を向けると、彼女がおずおずと片腕を伸ばしながら、小瓶を差し出してきた。
僕は小瓶を受け取り、懐に忍ばせていた護身用の短剣を取り出すと、差し出された腕に浅く刃を走らせる。
当然のことながら、傷口からは血が滲み出た。
そこへ小瓶の中身を垂らしてやる。
「おお」
すると、みるみるうちに皮膚が生成されて、傷口を覆い隠した。
効果の即効性に思わず感嘆の声が漏れる。多少の腫れはあるものの、数日も経てば完全に元通りになるだろう。
「うん、よく出来ているね。一人でポーションを作れるなんて、流石だ」
ポーションとは、薬草と錬金術を組み合わせて出来る、回復効果のある液体だ。
効果は見ての通りで応急処置くらいのものだが、傷口に垂らすだけで効果が出るので、誰でも簡単に扱うことが出来るという利点がある。
また、瓶に詰めることで手軽に持ち運びも可能で、長時間人里を離れて活動する冒険者なんかには重宝されている。
これを一人で作れるようになったリンは、一人前の錬金術師と称して差し支えない。よくぞ一年足らずで、僕が数年の独学で得た知識や技術を身に付けてくれたものだ。
最早、彼女は欠かせない立派な助手である。
僕はリンの頭を撫でてやる。
彼女は相変わらず無表情だったが、少しだけ頭を前に差し出し、撫でる手を受け入れていた。その仕草が何とも可愛らしい。
「まだ時間は余っているんだけど……一回部屋を片付けようか」
まだ寝る時間では無い。普段なら、この後も勉強や研究を続け、魔力欠乏で無理やり眠りに落ちるところだが、僕は片付けの態勢に入った。
リンは首をコテンと傾げて疑問の意を示したが、僕は特に説明もせず、片付けを進めていく。彼女もいつもと異なる雰囲気を察したのか、黙って手伝いに移った。
やがて部屋が整理され、すっきりとした空間が生まれる。その中央にリンを向かい合う形で座らせた。
「さて、リン。今日は何の日か分かるかい?」
「……?」
「今日で君を買って、丁度一年が経つんだ。誕生日が分からないって言ってただろう? だから、買った日を誕生日にしようと思ってね」
未だに要領を得ないリンを横目で窺いながら、机の引き出しから大きな箱を取り出す。蓋を開けてみれば、中から甘い香りが漂ってきた。
「今日は君の誕生日だ。そしてこれは、記念に用意したケーキさ。折角だから一緒に食べようじゃないか」
「……!」
中から現れたのは、前世でも甘味として馴染み深かったケーキだった。
無機質な本棚が壁一面を覆うこの部屋の中で、その純白の姿は場違いなほど鮮やかに映える。リンはケーキを前にして、ほんの少しだけ目を輝かせた。
それも当然だろう。この世界ではケーキは高級な食べ物であり、口に出来るのは限られた者のみ。
だが、伯爵家ともなれば取り寄せるのは容易い。今日の為に、こっそり準備しておいたのだ。
ケーキを食べられる奴隷など、他には居ないだろう。それだけ彼女を大切にしているという意図が込められている。
もっとも、それを口にしてしまえば恩に着せる形になってしまうので、彼女がこの行為の意味を察してくれるのを願うばかりだ。
まずは僕から一口。うん、やはり美味しい。続いてリンも、ナイフで取り分けた一切れを口に運んだ。
「……!?」
リンの瞳が大きく見開かれる。ここまで表情を変えたのを見るのは初めてだ。流石は最上級の菓子、その威力は絶大である。
リンの反応をじっくり観察したい気持ちはあるが、僕もこの世界に来て以来、これほど甘いものを口にする機会は滅多に無かった。
結局、リンに気を配る余裕もないまま、二人であっという間に平らげてしまった。それでも、実に満足のいく食事だった。
「いやぁ、食べた食べた。美味しかったねぇ、リン?」
「……」
僕が話しかけると、彼女は食べ終わるなり何故か俯いていた。ケーキの美味しさに感情の処理が追いついていないのだろうか?
そう黙って見守っていると――。
「ぁ……」
「……ん?」
「あ、ありがとうございます……ぐすっ……」
何と、リンが言葉を発した。一年間、一度たりとも意味のある声を発しなかった彼女が、遂に喋ったのだ。
それだけではない。彼女は泣いている。
厳しい訓練を課されようとも、周囲から蔑まれようとも、一滴の涙すら見せなかった彼女が、今、僕の前で涙を流している。
衝撃が走る。その強さといったら、異世界に転生したと気付いた瞬間に次ぐほどだ。
混乱しながらも、この機会を逃す訳にはいかないと、気の利いた言葉を考える。
「いや、むしろお礼を言うべきなのは僕の方だよ。いつも素直に指示に従い、訓練にも真剣に取り組んでくれていることに、本当に感謝している。実に頼もしいよ。これからも、僕の傍で力を貸してくれると嬉しいな」
上手く取り繕えただろうか。不安を抱えながらリンに近付くと、彼女の方から抱きついてきた。昼間、剣術で師と互角に渡り合っていたとは思えない、隙だらけの動きで。
強者である彼女が飛び掛かってきた瞬間、反射的に身構えてしまったが、やがて僕はその抱擁を受け入れた。
服が涙や鼻水で濡れるが、そんなものは些細なことだ。彼女の背にそっと手を回し、静かに、しかし力強く、抱き締め返した。
――実は、リンを買ってから一年が経ち、その能力や思考を徐々に把握できるようになったことで、新たな助手として二人目の奴隷を購入することを検討していた。
やはりどれほど優秀であっても、喋らないという不完全さは否めず、信頼関係を築けている実感はあっても、表現が乏しいためにどうしても釈然としない部分が残る。加えて、オーラの存在のせいで安心して人前に出すことも出来ない。
もちろん、一人あたりのリソースが分散されることや、反抗的・無能な奴隷を掴まされるリスクも考えられたが、頭数を増やすことで得られるメリットも少なくないと判断したのだ。
しかし、その考えを捨てることにする。
リンが僕に抱きつきながら涙を流す姿を見て、思った以上に依存させる計画が上手くいっていると分かったからだ。リンとの信頼を確固たるものにする方が、中途半端な手駒を複数作るよりも遥かに有益だろう。
リンの小さな身体をしっかりと抱き締めながら、彼女が言葉を発するようになった進展に感慨を覚える。
一方で、僕は冷静に、彼女を中心とした今後の方針を見据えていた。
こうした下積み的な内容、テンポが悪くなりがちなので、思い切って削るのも手かなぁと投稿してて思いました。
拙作ではございますが、第一章で最も力を入れたのは「014」辺りと後半なので、ここまで読んでくださった方には、是非そこまで読み進めて欲しい……。