きっとこれがあなたの幸せ
オリビアからレインハルクに近づかないで欲しいと言われたその日から、リリーシュアから笑顔が消えた。
「お嬢様…美味しい紅茶があるのですよ。お淹れしましょうか」
何があったかはわからずとも、主の感情が抜け落ちてしまったその顔を見るのが辛かった侍女のアンジーは、主を少しでも笑顔にさせようと必死だった。
「ふふ、ありがとうね、アンジー」
誰が見ても取り繕っているとわかる笑顔で、リリーシュアは返事をする。
「リリーシュア様…私にできることが何かありましたらなんでも言ってください!」
ついに心配する様子を隠しきれず、アンジーはおろおろしながらリリーシュアの手をぎゅっと握った。
「ねえ、アンジー」
「何でしょうか、お嬢様」
アンジーが自分の絶対的味方であることが確認できて勇気をもらったリリーシュアは、どうしても誰かに聞きたかったことを口にした。
「『ハルク』という、100年ほど前に存在した魔術師のことを知らないかしら」
あれから100年後を生きるアンジーが彼のことを知っているはずもない。
答えなんて分かりきっている。
しかし、アンジーが出した答えは意外なものだった。
「『ハルク様』が本当に実在していたかは私にはわからないですが…私の実家の近くには、魔力の濃度が高すぎて、誰も入ることができない荒地があります。その一帯を作り出したのは、100年前に大切な人をここで亡くした『ハルク』という偉大な魔術師だと言い伝えられていて……」
思いがけない情報にリリーシュアは身を乗り出す。
「アンジーの実家はどこにあるの…!?」
「ルーベリー子爵領です。えっと…小さな町がいくつもあって、花祭りが始まったとされる地でもあって…」
花祭り。100年前にもあった、伝統的な祭りだ。
ハルクと結婚してから、何度も行った。ハルクは私の好きな花で花束を作ってくれて。お互いに花を服につけたり、髪につけたりしながら笑い合った。
———それより、そんなことより。
「その魔術師は、どうしてそんな場所を作り出したの…?」
「私も詳しくはわからないのですが…実家に何か資料があるかもしれないです…取り寄せてきましょうか?」
主の望むことを叶えようと積極的になるアンジーを引き留めて、リリーシュアは言った。
「私がそちらに伺うことはできるかしら」
♦︎ ♦︎ ♦︎
アンジーの実家に訪れたリリーシュアは、アンジーの両親と挨拶を交わし、快く承諾してくれた彼女の両親から、資料室に案内してもらった。
「リステンブル伯爵令嬢様に満足していただけるような資料を提供できるかどうかわかりませんが…これでよろしければ、いくらでもご覧になってください」
アンジーの父であるルーベリー子爵は、資料室からいくつかの歴史書を取り出し、リリーシュアに渡してくれた。
「本当にありがとうございます…!」
「いえいえ、うちのアンジーがいつもお世話になっております。あの子、リリーシュア様に仕えるのがとても楽しいらしく、生きがいなんだそうです」
子爵は、嬉しそうに言った。
「あの子があんなに生き生きしているのは初めてなんですよ。あなたのおかげです。本当にありがとうございます」
資料室も好きに使っていい、と言い残してから、気を使わせないようにするためか、子爵は部屋を後にした。
———本当に、私は助けられてばかりだ。
リリーシュアはアンジーやアンジーの家族に心から感謝しながら、資料のページをめくった。
♢ ♢ ♢
リリーシュアがこの資料室に来たかったのには理由があった。
ハルクの最期を知りたかったからだ。
自分が死んだ後、彼はもしかしたら幸せになれたのかもしれない。それなら、約束を覚えていない、などと彼を責めることもできなくなる。
自分の幸せは何か。
考えたら答えはすぐに出た。
それはハルクが幸せに生きていてくれることだと。
だから、
ハルクを諦めるための明確なきっかけが必要だった。
とはいえ、ハルクの最期がどうだったかなんて、なかなかわからないものだ。
そもそもあの荒地には魔力の濃度が高すぎて誰も入ることができないのだから、確かめようもない。
しかし、100年経っても消えない程の魔力とはどれほど凄いのだろうか。
「ハルク様、本当にすごい魔術師だったもの…」
思わず笑みが溢れる。
彼はその大陸一とも言われた魔術で、表舞台で活躍することはなくとも、その陰で国を支えていた。
実際、この国が最も栄えていたのは100年前、ハルクやリリーが生きた時代であったと多くの歴史書に書かれている。
その背景に、王家に仕えた歴代最高の魔術師と、ある異能であらゆる面で活躍したリリーの功績があることは確実だ。
「でも、そんなに簡単には見つからな、……」
そう呟きかけて視線を落としたとき、資料のある一行が目に入った。
『歴代最高とも言われるハルクという魔術師は、不可解な魔力暴走を起こしてその場で死亡しており………」
不可解な魔力暴走…?ハルクが…?
彼は誰よりも魔術の扱いに優れたな魔術師だ。
そもそも、魔力暴走が起きるだなんて、感情を強く揺さぶられて理性を保てなくなったときぐらいしか……。
そこまで思考を巡らせて、はっと顔をあげる。
アンジーの実家の近くにあるというその荒地は、リリーが死んだ場所と同じだった。
そう気づいた瞬間、リリーシュアは走り出していた。
「お嬢様…!?どこに向かわれるのですか…!」
アンジーが驚いて後を追いかける。
「荒地に向かえば何が起こるかわかりませんよ…!あそこは、本当に危険で立ち入ろうとすることさえできなくて…!」
自分の主人がどこへ行こうとしているのか察しがついたアンジーは、必死にリリーシュアを引き留めた。
「ごめんね、でも行かないといけないの」
しかし、リリーシュアの意思は揺るがない。
それを確認したアンジーは、静かに息を吐いて、リリーシュアを庇うように前に出た。
「私の後ろについてきてください。危険だったらすぐに逃げますからね」
♢ ♢ ♢
たどり着いたその荒地では、びゅうびゅうと風が吹き荒れ、暗く、とても人が入り込めるような場所ではなかった。
しかしそんなことは気にせず、リリーシュアはまるで誘われるように足を踏み出す。
「リリーシュア様…!?」
引き止めようとするアンジーは、強い風で吹き飛ばされないようにするのが精一杯だった。
ここで彼が残した何かを見つけられるかもしれない。
そんな思いを捨てきれず、荒れ狂う風の中足を進めた。
そして、リリーシュアが荒地へ足を踏み入れた瞬間、あれほど吹き荒れていた風は静まり返り、あたりはゆっくりと明るくなっていった。
「え…?これは……?」
アンジーは驚きに目を見開く。
ぴたりと音が止まり、あたりには自然豊かな光景が広がる。
だんだんと暖かくなる優しい空気に包まれながら、導かれるように進んだ。
一筋の光が、何かを照らすように差す。
それはリリーの花だった。
———わたしが大好きな花だ。
一輪だけ、凛として咲くその花が、本当に彼はここで死んでしまったのだということを実感させた。
———そしてきっとそれは私のせいだ。
「ごめんなさい…ハルク様…」
私があなたを残したから。
あなたは死んでしまったのだ。
「きっとハルク様は、私といない方が幸せになれる…」
わたしと一緒になったから、彼は巻き込まれてしまった。
わたしと一緒になったから、彼は自死を選んでしまった。
わたしと一緒になったから、彼は、ささやかな幸せすら手に入れられなかった。
「リリーシュア様…?」
俯いてしまった彼女を心配して声をかけたアンジーは、リリーシュアの瞳から流れる一筋の涙の美しさに、息を呑んだ。
「帰りましょうか」
その言葉は、アンジーに向けられているようであり、また、遠い誰かに向けられているようでもあった。
♦︎ ♦︎ ♦︎
「しかし、あのお前が王家の護衛とはなあ…!」
がははは、と笑いながらレインハルクの肩をバシバシ叩くのは、ニックが所属する騎士団の団長であった。
鍛錬を終えた後、そのまま帰宅しようとするレインハルクを見つけた団長が、嫌がるレインハルクを連れて酒屋までやってきたのだった。
「やめてくださいよ…団長自分の腕の力を自覚してください」
レインハルクは、彼の前だと見たことのないような、年相応の表情をする。
それは、この団長がレインハルクにとって父のような存在であることを示していた。
「いやいや、すごいなあ、あのレインハルクがまさか、近衛騎士だなんて…」
普通であれば、この会話はかつて同じ騎士団だったレインハルクと、彼の成長をしみじみと感じている団長の、ただのほのぼのとした会話だった。しかしこの場合は少し意味が違った。
「だって、お前王家のこと大嫌いだったもんなあ」
笑顔ではあるが、その瞳は真剣だった。
彼はわかっているのだ。
本当は今でも、レインハルクは王家に忠誠など誓っていないことを。
「今も、嫌いですよ」
当たり前だ。
守りたい、だなんて、思えるはずがなかった。
俺たちの幸せを奪った元凶。
許せる、はずがない。
———俺にある力は全て、本当ならリリーのためにあるのに。
「懐かしいなあ、お前がうちの騎士団に入った理由、『守りたい人がいるから』だったっけなあ」
団長はすっかりレインハルクを揶揄って楽しんでいる。
「しかも、その守りたいやつって誰だ、って聞いたらさ、『一生一緒にいたいすきなひと』って言ってたよな…!!ぶっ、くくく…っ」
堪えきれない、というように笑い出す団長に、レインハルクはムキになって言い返した。
「何がおかしいんですか…!そういう人ばかりでしょう、騎士っていうのは」
「いや、そうでもねえぜ?単に家柄が、っていうやつもいるし、まあモテるしな、騎士っていうのは」
きらりん、と歯を見せて俺のことだと言いたげにドヤ顔をする団長に引いていると、団長は反抗期か?とさらにニヤニヤと笑った。
「まあ衝撃なのは、それを言い出したお前がまだ8歳だったことだよな」
そう、レインハルクが騎士団に入った当時、彼はたったの8歳だったのだ。
前代未聞の出来事であった。
彼には時間がなかった。
前のような悲劇を生まないために、自分にできることはなんでもしようと決めた結果、自分の武器を増やそうと思い、一番に思いついたのが体を鍛えることだった。
「その『一生一緒にいたい好きなひと』は、守ってあげられているのかい」
まるで父のような優しい目つきで見守る団長に、レインハルクは言った。
「彼女を守るためなら俺はなんでもします。そのために王家の護衛になったんだ。たとえ彼女の幸せを横で見守ってあげられなくても、絶対守ります」
団長は、しばらく黙ったままだったが、一番気になっていたことをようやく吐き出した。
「お前、王女殿下との婚約の話が進んでいるんだろう?」
その問いかけに、レインハルクはできるだけ何の感情も浮かべないようにしながら頷いた。
「お前は、それでいいのか…?」
「これが、彼女の幸せに繋がる。それに、これから先彼女を守るためにこれは必要なことです。俺が王女殿下と婚約すれば、王家はますます俺に手が出せない。弱みを握れる」
拳を強く握りしめて、先にある何かを睨むように目を細めた。
「…辛くなったら言えよ。お前は、俺の息子みたいなものなんだからな」
そんなレインハルクの様子を見守っていた騎士団長は、まるで子供を安心させるように言った。
「おっし、じゃあ飲むか!俺はまだお前に言いたいことがいっぱいあるんだよ」
それから明るく言った騎士団長は、バシバシとレインハルクの肩を叩きながら言った。
それから騎士団長が酔いながらベラベラと自分の話を続けているのを話半分に聞きながら、レインハルクはぼそりと呟いた。
「俺も、あなたのことは、本当の父のように思っていますよ…」