彼の『家族』に
遅くなって本当に申し訳ないです…!
「レイ?お疲れ様…!今日も頑張っていたわね…!」
ふわりと綺麗に整えられた髪を靡かせながら、王女、オリビアはレインハルクの腕に自分の腕をからめた。
「今日も練習場にいらっしゃっていたのですか…?」
「ええ、もちろんよ。私の護衛騎士が頑張っているところをしっかりとみていたいもの」
オリビアはレインハルクの腕に頭をこてんと乗せながら言った。
「しかし…言ってくださればおそばにいましたのに。お体の方は大丈夫なのですか…?」
「ええ、私ね、レイが来てくれてからすごく体の調子がいいの。きっとあなたのおかげだわ。あなたがいるだけで、すごく心が楽になるの」
オリビアは、重い病に侵されていた。
本当なら立てないほどの重症であるが、王家の権力を使って、治癒魔法が使える者を集め、毎日症状を軽くしているのだ。
聖魔法を使える者がいれば彼女は助かると言われているが、今のところ、国どころか大陸でも聖魔法使いは見つかっていない。
実際、治癒魔法士と聖魔法使いの違いはただの魔力量であると言われている。
言ってしまえば、治癒魔法使いがなんらかの方法で自分の魔力量を大幅に増やすことができれば、彼らが使う治癒魔法はあっという間に聖魔法へと姿を変えることができるのだ。
しかし、そもそも治癒魔法使いが少ない上に、魔力量を増やすことなんてできない。
彼女が健康体で一生を過ごすことができる確率は、もはや絶望的だった。
そのこともあり、彼女の父である国王はオリビアに甘かった。
彼女が「自分を守ってくれる専属の護衛騎士が欲しい」と言ったから、レインハルクは今彼女の護衛をしている。
「俺が少しでも力になれているのでしたら、嬉しいです」
だから今日もこの病に侵された王女のために、本当なら彼女に使うはずだった、騎士としての立場も、再び得た自分の人生の時間も使う。
「でも、レイ…少し聞きたいことがあるの」
「なんでしょうか?」
オリビアはレインハルクの目をみて、疑うような視線を向ける。
「あの女、あなたのことを『ハルク』って呼んでいなかったかしら…?」
その目には激しい嫉妬や憎悪が宿っていた。
「あなた、『ハルク』という呼び名は『家族』しか使わない、って、そう言っていたわよね…?」
彼女の目が血走っている。
レインハルクの腕をぎゅうと握りしめて、そうだと言ってくれと言わんばかりに縋りついた。
「当たり前じゃないですか。彼女が俺のことをそんなふうに呼ぶはずがないですよ」
「……やっぱりそうよね、聞き間違いかもしれないわ」
オリビアは痛いほどにレインハルクの腕を握っていたその手を離した。
「それに、私ももうすぐ呼べるかもしれないもの。『ハルク』って」
その言葉に、レインハルクは何も返さなかった。
彼女はなぜか、レインハルクを『ハルク』と呼ぶことに固執しているのだ。
オリビアとレインハルクの初めての顔合わせの日。
騎士として働き始めてまだ少ししかたっていない頃、レインハルクが所属していた騎士団の団長からの話を聞いていた国王から声がかかり、レインハルクはオリビアとの対面を果たしていた。
オリビアはレインハルクを見るなり言ったのだ。
「お父様、私、この人がいいわ!この人を、私だけの騎士にしたいの!」
王女から気に入られたレインハルクは、すぐに彼女の専属の護衛騎士に就任した。
正式に護衛騎士となったとき、オリビアは「私だけが使うあなたの呼び名が欲しい」と言った。
「そうね…『ハルク』っていうのはどう?すっごくかっこいい響きでしょう?私だけが使うの。素敵だと思わない?」
その提案に、レインハルクはすぐに頷くことができなかった。
———それは、彼女にしか許していない呼び名で。
レインハルクは咄嗟に誤魔化した。
「実は、俺の『家族』も俺をそう呼ぶんです。王女殿下にも同じように呼ばれるのは、少々恥ずかしいのですが……」
「家族が…?」
オリビアの顔が一瞬歪んだ。
しかしそれもすぐ笑顔に戻る。
「そう…じゃあ、今のところは『レイ』って呼ぶことにするわ。これならいいわよね?」
「はい、それは構わないですが」
しかし、オリビア自身はこれに納得していなかった。
「でも、じゃあ『家族』だったら『ハルク』って呼んでもいいのよね?あなたの家族になれれば、いいのでしょう?」
「あの…それは、どういう…?」
意味がわからず問いかけるレインハルクに、オリビアはゆっくりと笑って言った。
「いつかあなたのことを『ハルク』って呼べる日が来るようにするわ」
あの日からだろうか。
オリビアは『レインハルクの家族』であれば『ハルク』と呼ぶ権利をもらえると思い、その権利を得るため国王へ交渉を続けた。
だから今、オリビアとレインハルクの縁談が進んでいるのだ。
♦︎ ♦︎ ♦︎
リリーシュアは、この日も騎士団の練習場へ足を運んでいた。
いつもならこの時間帯にレインハルクがいるのだが、今日はその姿が見えない。
「今日は来ないのかしら…」
その呟きは、ある人の声で遮られた。
「誰を探していらっしゃるの?」
この国の王女であるオリビアだ。
「王女殿下…!」
慌てて頭を下げるリリーシュアに、王女は顔を上げるように言ってから、詰め寄るように身を乗り出した。
「ねえ、単刀直入に聞くのだけど、あなたはレイとどういう関係なの…?」
リリーシュアは、先日の練習場で彼女がレインハルクのことをレイと呼んでいたのを思い出す。
「レイ、というのは…ハルク様のことですか?」
その言葉は、オリビアの苛立ちを加速させた。
「そう、それよ…!あなた、私のレイのことを『ハルク』って呼んでいるわよね?」
オリビアはリリーシュアの腕を骨が折れそうなほどに強く掴んだ。
「レイを『ハルク』って呼んでいいのは、将来彼の花嫁になる私の特権なの!この呼び名はねえ、本当は誰も使っていないはずなの!彼が、大切な『家族』だけに使ってもらいたいと思っている大切な呼び名なの。それなのに…!!」
そう。オリビアは調べさせたのだ。
レインハルクの家族が実際にレインハルクを『ハルク』と呼んでいたのかどうか。
結果は否。彼が幼い頃ですら、そのような呼び名で呼ばれたことはなかった。
ではなぜ、「家族が使っているから恥ずかしい」と嘘をついたのか?
オリビアはこう解釈した。
「大切な自分の家族となる人にそう呼んで欲しいから、今は誰にも呼ばせない」ということだと。
それからオリビアは必死なのだ。
彼がただ1人だけに望むその呼び名を呼ぶ権利を得ることに。
———今まで手に入れられないものなんてなかった。
父親に甘やかされて育ったオリビアは、自分には手に入れられないものがあるなど耐えられるはずもなかった。
リリーシュアには、まるで意味がわからなかった。
ハルクという呼び名が『誰にも使われていないはず』という奇妙な言い回しも気になる。
しかし、1番に引っかかったのはそこではなかった。
「彼の、花嫁……?」
思わずこぼれたその声は情けないほどに震えていた。
絶望したようなリリーシュアの表情に、オリビアは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、掴んでいた手をゆっくりと離した。
「ええ、そうよ。私たち結婚するの。もうお父様にも承諾してもらって、準備を進めているのよ」
———ハルクが、結婚。
「ど、して……」
———だって、また会えたら、一緒に幸せになろう、と。
そこまで考えて、はっと我にかえった。
あのとき死んだのは私だけだ。
ハルクは私が死んだあと、私よりもっと素敵な人を 見つけて、幸せになったのかもしれない。
だからきっと、彼は私のことを覚えていないのだ。
彼は私に未練なんてないから。
だから自分だけ、彼のことを覚えているのかもしれ ない。
それなら。
———それなら、彼が約束を覚えていないのも当たり前で。
あの私を知らないかのような冷たい態度にも納得が いく。
だって彼は私のことなど覚えていないのだから。
「だからね?もう私のレイには近づかないで欲しいの」
真っ赤な口紅が塗られた妖艶なまでの唇で、オリビアはリリーシュアの耳元で囁いた。
ああ、もしかしたらお互いが気づいていないだけで、王女とハルクは前世で恋仲だったのかもしれない。
そんなことまで思い浮かんでしまうほどに、リリーシュアはレインハルクとの未来を諦めてしまっていた。