いつか幸せに
プロローグです!
「ハルク様…ごめんなさい…っ、も、だいじょうぶ、です…っ」
誘拐され、監禁場所からなんとか逃げ出したリリーの身体は、ボロボロだった。
「だめだ、君だけでも、生きて」
涙をぽろぽろと流しながら訴えるリリーを抱えながら走るハルクは、悲しげな表情で言った。
2人は結婚して3年目の夫婦だった。
リリーは平民だが、ある特別な能力を買われて男爵家の養子になり、少し特殊な職場で出会った侯爵令息であるハルクと結婚した。
本来ならばあまり認められないようなこの家柄の違いが認められたのも、リリーが持つある力と、ハルクが持つ職業のおかげだった。
ハルクは、彼女の力が自分のために使われたらいいのに、と考えることは一度もなかった。
リリーは、ハルクがある職で得た権力が、自分のために使われたらいいのに、と考えることは一度もなかった。
リリーとハルクは、どこにでもいる、お互いを愛し合うただの夫婦だったのだ。
どんなに家柄が違っても、リリーが特別な力を持っていようと、ハルクが特別な職に就いていようと、2人には関係なかった。
関係ない、はずだった。
2人は知らなかった。
2人を結びつけた「特別な力」と「特別な職」というのが、自分たちの幸せを壊してしまうなんて。
屋敷の裏口を通り抜けて、街の方へと出る道へと急ぐ。日が暮れて辺りが暗くなり、足元が見えづらい狭い道を2人はただ逃げ続けた。
リリーはかなりの重傷で、このままでは死が近いことは明らかだ。
ぎりぎりまで攻撃して殺さないのは、彼らが、リリーの力をなるべく抵抗されない形で手に入れるためだった。
きっと彼らに引き渡せばリリーはすぐに優秀な治癒魔法士によって治療され、死を免れるだろう。
ハルクにとって、リリーがいない生活は考えたくもないほど辛いものだが、リリーが死んだ世界で生き続けるのはもっと辛いことだった。
——リリーにとっては、俺と死ぬよりあいつらのもとで生きるのびる方が幸せなのかもしれない。
リリーの力は未知だ。もしかしたら捕まった後でも彼らのもとから逃げ出せるかもしれない。
その方がきっといい。リリーがいない地獄のような生活を堪える方が、リリーはもうこの世にいないとわかった世界で生きるより幾分かマシな気がした。
そんな考えがふとよぎったとき。
「わたし、ハルク様がいない世界で生きても、なんの意味もないんです…だから、せめてあなたの腕の中で死にたい…」
「…っいやだ、俺だって君がいない世界で生きるなんて耐えられない…っ」
リリーは死ぬことも厭わないと言った。
———彼らのもとでハルクのいない地獄の日々を過ごすくらいなら、今ハルクの腕の中で死んでやる。
しかし、運命は残酷だった。
「そこまでだな」
よく通った低い声で2人を制止したのは、リリーを追っている魔術師の1人だった。
リリーだけは渡すまいと彼女を抱きしめる腕にさらに力を込めるハルクを見て、魔術師は笑った。
「夫婦仲がよろしいようで。結構なことだな!申し訳ないが、奥さんのお力が必要なんですよ。もし今大人しく引き渡してくれるなら、旦那さまには何も危害は加えないとお約束しましょう。ですが…
…もしその腕の力を緩める気がないのでしたら、残念ですが、旦那さまの方には消えていただくしかありません」
魔術師が掲げた手から凄まじい勢いの炎があがる。
普通の人は、この状況に絶望するだろう。しかし、それを見たハルクは、挑発するような笑みを浮かべた。
「は…っ、なめられたものだな。これでも国一番の魔術師だが?」
そう言ったハルクは、指先ひとつ動かすことなく魔術師との間の地面を裂いてみせた。
凄まじい轟音が響き渡る。
突然のことに魔術師は状況が飲み込めなかった。
ハルクは、一晩で国を破壊できるほどの魔力とその実力を持っており、王家直属の魔術師として、その名は裏の世界では有名だった。
「な……っ、お前は…ッ!?」
そして、リリーを追ってきたこの魔術師もまた、ハルクの足元にも及ばないが、王家のもとで働く魔術師のひとりであった。
「は…ついに王家が裏切ったか!リリーの力を戦争に利用したくなったんだろう?リリーの力はそんな馬鹿馬鹿しいものに使うような低い価値のものじゃないんだ。
あの国王にも伝言を頼もう。
『リリーの隣には俺がいることを忘れるな。国ひとつくらい簡単に壊せるような男を敵に回したことを、よく覚えておくことだ』
わかったか…?理解したなら1秒でも早くここを立ち去ってあの馬鹿げた国王に伝言を伝えてこい」
ハルクの怒りで空気がびりびりと震える。
その殺気を感じ取った魔術師は、怯えたような表情で逃げるように去っていった。
その様子を見送ると、ハルクは何かを堪えるように俯いて、リリーをぎゅうと抱きしめた。
「ごめんね……俺が、壊すだけじゃなくて、誰かを救えるような…本物の、魔術師だったら…っ」
ハルクは大陸でも他に見ることがないような天才魔術師だったが、唯一、治癒魔法を使うことができなかった。
もともと治癒魔法を使える人自体は限られているが、ハルクを知る人々は皆、もしこれで治癒魔法まで使えていたなら、正真正銘の「英雄」だったろうに、と口にした。
今まではそんな言葉には耳を貸すこともなかった。ハルクには治癒魔法は必要なかったからだ。
リリーに出会うまでは。
守りたいと思った。
リリーのくるくると変わる表情を横で見つめるのは、自分でありたいと思った。
何があっても、離れることなく、そばにいたい、と———。
それなのに、リリーが連れ去られたと知って助け出したときには、彼らによって死ぬぎりぎりのところまで痛めつけられていた。
自分には必要ないと思っていたものが、今自分の手にないことが、こんなにも悔しい。
誰よりも大切な人を守れる力が、自分にはない。
自分を責める思いでいっぱいになり、髪と同じ色をした銀色の瞳が、悲しさとやりきれなさで揺れた。
———泣く直前の子供みたい。
リリーは、ハルクの頬に手を伸ばした。
「ハルク、様…もし、また出会えたら……、そのときは、一緒に、生きてくださいますか…?」
その言葉に、ハルクが目を見開く。
「当たり前だよ…絶対、幸せにする……君を絶対に、守るよ…」
ハルクの瞳からこぼれ落ちた涙が、ぽたぽたとリリーの頬を濡らした。
リリーは、ハルクの涙をそっと優しく拭った。
「ハルク様…いっぱい、愛してくれてありがとう…だい、すき…」
リリーの体温がゆっくりとなくなっていく。
ハルクは、縋るようにリリーの体を抱きしめた。
「リリー、愛してる…っ、ほんとに、あいしてるんだ…」
いかないで、
ハルクの掠れたその声は、リリーに届くことはなかった。
その日、不可解な魔力の暴走によって、国の一部が焼け野原となった。
国王は言った。
これはあの大魔術師の呪いだと。
ある二人の死は、この国の終わりを意味していた。
ここからやっと物語が始まります…!