火事です?
小学校の廊下の一角。僕らの学級委員長、ひろあきくんは、ニヤニヤしてぼくの肩をつついた。
「見てみ」
ひろあきくんは、赤いランプのついた火災報知器の前に、ぼくを案内した。そしてそっと、黒いボタンに手を伸ばした。
「ちょ、ヤバいって」
心臓にゾワゾワっとするものが通りすぎた。ひろあきくんはボタンに人差し指をくっつけると、ペコっと音をならした。
ペコっ、ペコっ。
「ほら」
これがぼくの発見だぞ、と言わんばかりに、ひろあきくんは顔中ニコニコになる。火災報知器のボタンに小さな隙間が空いていて、へこむのだ。見ているうちに、僕もやってみたくなった。
(もし鳴っちゃったら、とんでもないことになるぞ)
でも、ひろあきくんだけがやっているなんてずるい。ぼくだって、いい気になりたいと思った、
おそるおそる、ボタンに指をくっつけた。
ペコっ。
ぼくと、ひろあきくんの視線が交わった。
「俺もやりたい」
勝気なタケちゃんが声を上げた。火災報知器の前には、団子みたいに人がたくさんくっついてきた。
ひろあきくんがまた、ペコっと音を鳴らして、得意げに笑った。
「やめておいた方がいいよ」
真面目な小森さんが注意してきた。場が一瞬静かになったけど、小森さんがどこかに行くと、またやり始めた。
「行くぞぉ」
二周目。ぼくの番が回ってきた。自信満々に親指を突き立てて、指の腹を当てる。
突然、後ろからひろあきくんが背中を押してきた。
ベコっと大きくへこむ感覚が、親指から伝わってきた。
ジージージー、ジージージー……。
学校中にけたたましいベルが鳴り響く。血の気がサーッと引いていくのを、ぼくは感じた。
「ただいま、二階東側廊下の火災報知器が作動しました」
放送が流れる。消防車の音が近づいてくるのが聞こえる。
「生徒の皆さんは、落ち着いて避難してください」
ぼくらは何食わぬ顔で教室に駆け込み、銀色の防災頭巾をかぶって校庭に出た。
太陽が力強く照っていた。ぼくは深めに頭巾を押し付ける。背中から滝のように汗が流れるのを感じる。心臓が裏から掴まれたみたいに、爆音を奏でていた。
「え、どうなるんだろ、どうなるんだろ」
ぼくのクラスだけ、妙にざわついている。
端の方で、先生たちが話し合っているのを見た。ぼくは必死に、聞こえない声を聞き取ろうとした。
「誤報です」
校長先生が朝礼台に立って、マイクを握る。
教室に戻ると、お通夜のようにシンとしていた。
「誰かが間違えて、ボタンを押した人はいないか」
担任の谷平先生が聞いた。クラスメートの一部が、ぼくとひろあきくんを見た。
ぼくの心は嵐だった。体は石像だった。ぼくが何も言わなかったから、誰も、何も言わなかった。
「そうか」
と言って、谷平先生は教室を出て行った。これで3限目は潰れた。
4限が終わり、給食の時間になると、ぼくの心の嵐は通り過ぎ、いい感じにあの出来事も忘れかけていた。
「先生、来ないね」
一人がささやいた。ぼくは反射的にドアを見た。一人がチラッとぼくを見たのがわかると、ぼくは目をそらした。
「ほんとだね」
「やっぱり……」
やけに大きい足音が、廊下から近づいてくる。ダーァンと乱暴にドアが開かれ、
「サカヤマー!!」
谷平先生がライオンみたいにおっかない顔で怒鳴った。
「こっちに来い!」
怖気づいた子犬みたいになってぼくが行くと、熱いビンタが飛んできた。
「なんで言わなかった」
「ごめんなさい」
「ひろあき、お前もだ!」
隣にやって来たひろあきくんにもビンタが来て、赤く腫れた。ぼくはもう怒られ終わったと思って、
(チェ、誰がちくったんだ)
と周りを見た。
「お前ら、何で黙ってた。全員廊下に出ろ!」
クラスメートがずらりと廊下に並び、正座で黙食した。後で、隣のクラスの子が先生に言ったらしいと耳に入った。
もう二度と火災報知器には近づかない、ぼくは固く決心した。
家に帰って、両親にも怒られた。二、三日経ってからやっと、迷惑かけたかな、と罪悪感が忍び寄ってきた。
でも、それを言葉にする手立ては、ぼくにはなかった。「ごめんなさい」って、誰に伝えればいいのかな。
ぼくは伝える方法を知らなかった。
「ふぅ」
缶コーヒーを机に置き、椅子にもたれる。時計は夜の8時を指していた。
ふと、視界の隅に、赤いランプが見えた。火災報知器だ。それを見ると、あの頃の自分を思い出してしまった。少年
の日の自分を、自分だったと言うには、だいぶ歳をとり過ぎている。
(だけど、時効にしてもいいか)
隣には同僚の川下が座っている。同じように、作業の手が止まって、少しぼんやりとしている。
「なあ、突然だけどさ」
「どうしたんですか」
「子供の頃の話をしてもいいかな」
「本当に突然ですね」
川下は軽口を叩く。仕事から現実逃避をしたかったのか、興味ありげに腰を運んできた。
これが数十年来の告白だと思って、ぼくはあの話をした。できれば笑い話になるように。
「火災報知器、あそこにあるだろ。鳴らしたことはあるか?」
「ないです」
と、川下は答えた。
「ぼくはある」
あの時のひろあきくんのように、ぼくはニヤっと笑って見せた。
元ネタと言いますか、元話があります。昔の小学校は怒られた時にビンタが飛んできたらしいです。今だったら、絶対色々な方面から言われそうだなあ……。




