閑話 捨てられた王子の記憶 ※他者目線
ヘオスのソルスロメイル王立学院に魔王が降臨した。もちろん比喩で、相手は今話題の冷徹なる第三王子殿下であるが、淑女達を無表情で怯えさせ昏倒させてきた視線は健在だ。死んだ魚のような目をした学校長と並ぶサリーシャ・バイゼルは生きた心地がしなかった。
「単刀直入に、話を聞きたい」
「話と言われても、何が何やらさっぱり……」
困惑した顔で答えた学校長にならって、気まずい顔で視線を下げる。
ライラ・コーエンがいなくなった。しかもまずいことに学院を出たという痕跡が残っていないのだ。突如、煙のように消え失せた女子学生。しかも彼女は良くも悪くも目立つ存在だった。
魔法が失われた国で唯一魔法師と呼ばれるだけの技量を家族全員が備えたコーエン家。不遇の時代には子爵まで位を落とされたものの旱魃によって困難に見舞われたヘオスを他国と協力して魔法により救ったことで国の英雄となった。再び侯爵を叙爵されて、かつての栄華を取り戻したコーエン家が魔力の器を持つとして養女にしたのが彼女だ。
驚くほどに整った顔立ちと華奢な体躯。男性の庇護欲をそそるような可憐な少女のイメージだったが、平民にも関わらず成績優秀のために特進クラスへと編入することになった。そのうえ魔力排出植物を育てているそうで、全寮制なのに特例で自宅から通うことが許された。
優秀だろうけれど、元が平民だし色々合わなくて貴族と揉めそう。魔法が使えるからってもっと優遇しろとか待遇に文句を言われそうだし、面倒だわ。実際、蓋を開けてみればそんなことはなかったけれど最初はそう思っていた。
そんな彼女の最強の後ろ盾がこのギルバート=ウィリアム・ヘオス第三王子だ。コーエン家の三男としてギルバート・コーエンと名乗っていたが、実は王子だった。まるで物語のようだが、この人物がなかなかの曲者だ。容姿端麗、頭脳明晰で公務も書類仕事もそつなくこなすが、研究者気質というものか、興味を引かれると強引で空気の読めないところがある。そういう場面では第一王子殿下や第二王子殿下のほうが如才なく安定感があった。
そして魔法が絡むとライラ・コーエンにも彼と似たようなところがある。たとえば机の一件のときがそう。こっちが調べるというのに何が不満なのかしら。まさか魔法が使えるというだけで、自分は偉いと勘違いしているんじゃないの?
とはいえ平民にしては躾は行き届いているし、自分から大きな問題を起こすわけでもない。話し方も丁寧だし、おとなしくて根は悪い子ではないのだけれど、王族の婚約者となるには物足りないとサリーシャは評価していた。たとえばセレシア・ウォルトクレイブ公爵令嬢、ユリアーネ・グランデル侯爵令嬢、エルシィ・ヴェイズリース伯爵令嬢のように、華やかで貴族然とした振る舞いができるタイプではないからだ。彼女達は優秀だし、それぞれの派閥もうまく制御している。こういう政治力も王子妃には必要なはずだ。あの三人ならば少なくともライラ・コーエンのように頼りない感じはしない。
結局、この男は問題があり過ぎて、ご令嬢方に相手にされなかった。そう思うことでサリーシャは溜飲を下げる。スペアにもなれない第三王子だもの。生粋の貴族令嬢から選ばれなくて当然だわ。それで仕方なく、平民だけれど見栄えのいい娘を婚約者に望んだ。
きっと偏屈で変わり者なのね。それに一度は捨てられたような人間だ、王家にとってもそれだけの価値しかないから、婚約者選びだって適当でいいと放置している……。
「バイゼル先生はどう思われる?」
「どう、とは?」
「先ほどから自分は無関係という顔をされているようだが?」
「まあ、心外ですわ」
いつから見られていたのか。突然声をかけられて、一瞬焦ったもの作り笑顔で受け流す。まあ偏屈で変わり者、王族から捨てられても今の身分は王子だ。表向きだけでも丁重に扱わなくては。
「そうですわね、もしかすると急に授業が嫌になったから黙って抜け出してしまったのではないかしら?」
「荷物を全部置いて?」
「ほら、元は平民のお嬢さんでしょう? いろいろ遊び慣れているでしょうし……」
「そうか、あなたはそういう考え方の人なのだな」
「え?」
部屋の温度が一段階下がったような気がした。どうしてかしら、間違ったことは言っていないはずよ?
「その台詞が出てくるということは、あなたはどうやら彼女に関する噂もご存知のようだ」
「まあ、そうですわね……聞いてはおりますけれど」
ここ数日、ライラ・コーエンに関することで一気に広がった噂があった。実はライラ・コーエンは男好きで、平民の頃から付き合いのある男性の恋人が何人もいるというのだ。そのうえ王城で婚約者のいる王子達を口説いて、殿下方と長時間、部屋に閉じこもったという。すでに処女も失っているのでは……という噂まであって、貴族令嬢としては致命的な不名誉極まりないものだ。この噂のせいで浮き名を流した王子殿下と貴族令嬢の婚約がひとつ、解消されるのではないかという噂がまことしやかに流れていた。悪いのはライラ・コーエンと王子殿下で、婚約者の女性には瑕疵がないというのに……。ほんと、かわいそうだわ!
「知っていたのに、あなたはその噂の真偽を何も調べなかったのか?」
「そう仰られても……まあ、信じたくないという気持ちはわかりますわ。義理とはいえ、家族の醜聞ですもの。ですが我々教師は公平な目で、ときに厳しい現実と向き合わねばなければならないのです」
「ということはライラの不行状を疑ってもいないと?」
「調べるまでもありません。残念ですが思慮の浅い平民の子供達が道を踏み外すなんてことはよくあることですわ。きっとライラさんも二、三日したら何食わぬ顔で戻ってくるでしょう。そうしたら厳しく教え諭して、反省したらまた温かく迎えてやればいいのです」
ギルバートは頭脳明晰だろうが、所詮即席のエセ教師。元は時間と金を無駄遣いするしか能のない研究者なのだ。教育者の高尚な理念は理解できないでしょうけどね! あとは困った顔で『それ以上は畏れ多くて言えません』と誤魔化せば完璧のはずだ。
ところがギルバートは蔑むような色を浮かべながらサリーシャと視線を合わせた。すると途端にサリーシャの背筋が凍りつく。視線を伝って注ぎ込まれる何か。歯の根が合わず、カタカタと体が震える。これが噂に聞く彼の視線……何これ気味が悪い。一体何だっていうのよ!
「別に私のことはどう思ってもいいのだが。あなたが私を認めていないことには気がついている。いまさら態度を取り繕わなくていいから、これの言い訳だけは聞かせてくれ」
「い、言い訳……な、何の?」
「これは彼女がいなくなる前に王城の保存機に転送されてきた画像だ」
カチリ。ギルバートが手に握る道具のようなもののスイッチを入れる。すると真っ白い壁に画像が投映された。サリーシャははじめて見る光景に言葉を失った。何これ、こんなことができるの?
サリーシャは映像を食い入るように見つめる。壁いっぱいに映ったのはノートと数式、それを何度も消した跡。数学は専門外だからわからないわ。こんな高度な数式、誰が解けるのかしら? すると画像の端を星色の髪が掠めた。この髪色をした少女は今の王立学院には一人しかいない。ライラ・コーエン、映っているのは彼女の手元にあるノートようだ。自習中だろうか、生真面目な少女の呟く声がした。
『やっぱり難しいわ。でもこれが解けないと魔法を魔導回路に置き換えができない』
また魔法……この娘はそれしか考えることはないのかしら? 呆れた気持ちが浮かんだ次の瞬間、画面が切り替わる。切り替わった画面に映し出された顔を見て、サリーシャはうろたえた。教え子の一人、子爵家の令嬢でライラの同級生だ。成績はクラスの真ん中くらいで良くも悪くも目立たない娘。ライラとは良い意味で対極にあるような、従順で聞き分けの良いサリーシャのお気に入りだ。そんな彼女が画面の真ん中で突っ立っている。青白い顔で口元がわなないて、これから何を言おうとしているの?
『あのっ、ライラ・コーエン侯爵令嬢!』
『っ、ごめんなさい。集中していたので気がつきませんでした。どうされましたか?』
『自習中に申し訳ありません。サリーシャ先生が、ご用事があるそうなので代わりに呼びに来ました』
思いがけない展開に言葉を失った。
違う、私は呼んでいない! きっと誰かの陰謀だ。これはまずい状況なのではないか。足元からガラガラと音を立てて何かが崩れる感覚に囚われる。だが無慈悲にも状況は刻一刻と悪くなっていく。
『まあ、そうですか! どちらに伺えばよいのかしら?』
『第六号の四教室で待っているとのことですわ』
『あら、あの空き教室ですか?』
『申し訳ありません、理由はお聞きしていないのですが。とにかく急いでくださいとのことでした』
『わざわざ知らせに来ていただいてありがとうございます』
急いでというから、後で片付ければいいわよね。そう呟くライラの声がして画像は廊下を映し出し、やがて空き教室の前で止まった。コンコンコン、軽やかに扉をノックする彼女の手が見える。
『ライラ・コーエンです』
『おはいり』
なんてこと、扉越しに誰かの応じる声がする。つまりライラは呼び出されたということか?
『はい、失礼します!』
扉を開けた彼女の視界に空き教室の景色が広がった、次の瞬間。足元から画面を白く塗り潰すような眩い光が立ち昇る。彼女の口から甲高い悲鳴が上がった。そしてたった一言、叫ぶような言葉を残して画像はぷっつりと切れた。
「この映像を最後に、ライラの記録は途絶えている」
ギルバートがサリーシャに鋭い視線を向ける。彼の視線は偽りを許さない真実を見極める者の目だ。
「さあ、説明してもらおう」
ああどうして、こんなことに。
石は坂道を加速しながら転がり落ちていく。
初期構想ではサリーシャ先生を悪役にするつもりではありませんでしたが、ちょうど良い立ち位置だったのでさらっと悪役にしました。テストの点数改ざんと迷いましたが、テスト結果を監視されている状態では無理よねと思いやめました。